第一章 1話「目覚めると…。」


…どのくらいの時間が経過しただろうか?


意識が深い湖のそこから浮かんでくるかのように、少しずつ纏まり始め、かろうじて現実の着地点を紡ぎ出そうとしていた。


(私は死んだのだろうか?)


(それともこれは生々しい夢?)


私は昨夜、彼のお父様の別荘に無事に着いていてシャワーを浴びた後、昼間の会食会と観光地巡りの疲労からベッドで早々と入眠し、普段の鬱積から、異常な逃避的な悪夢を見、そして朝が来て…。


(そうに違いない。そうであって欲しい)


…いや…。やはり事実は違っていた。


その事実は私の鼻腔を刺激してくる雑草群特有の濃い刺激臭と、どこからか間延びしたように聞こえて来るひぐらしの声が非情にも教えてくれた。


私は野外に倒れているのだ。


私はあの衝突の瞬間、林道沿いのススキや熊笹が生い茂る茂みの中に、フロントガラスを突き破り飛び出し、深く頭から突っ込むように倒れ、どれ程かの長い時間、完全に意識を失っていたのだった。


私はゆっくりと目を開けてみた。


右眼しか開かない。頭から額の上部にかけて深く切っているらしく、顔面は血だらけになっていて、固まった血が左目を塞いでいた。


私はしばらく、呼吸がまともに出来るかどうか?確かめると、おそるおそるゆっくりと注意深く立ち上がってみた。


途端に眩暈と吐き気が襲ってきた。頭を打っているらしい。血で半ば固まった私のセミロングの髪の間から、フロントガラスの破片がバラバラと草の上に落ちた。


衝突の瞬間、おそらくは無意識に頭をカバーするように差し出した左腕も派手に裂傷し、私の白のジャケットからスラックスまで、左半身は裸足の足元まで黒く血で染まっていた。


左足のスラックスもまた、簾のように裂け、そこから口を開くように裂傷した左膝が、骨も見えんばかりに剥き出しに抉られ、血を流している。


しかし、生きて、よろめきながらも、かろうじて立ち上がった。


命が継続していたのは、ほぼ奇跡としか言いようがなかった。


しかし徐々に鮮明さを増してくる鋭い左半身の痛みと眩暈、そして吐き気を感じながら、周囲を見渡すと空は既に白ばみ始め…。


…いや。違う。僅かな太陽の光は西にある。それは、もはや夕暮れの最後の刻を表し、暗闇を迎え入れようとする夏空は、西日のビームのようにギラめく残光により、赤くドス黒く燃え始めていた。


時間は事故が発生した深夜の時刻から実に16時間以上経過し、山間部の寂しいこの場所は既に深い夕暮れ時になっていたのだ。


振り返ると英一郎の白いルノーを見つけた。


私は息を呑んでゆっくりと近付くと、立ち尽くし、黙ってしばらくその有様を傍観するしか無かった。


飴細工のように湾曲したガードレールに、車体の三分の一を縮めたようにひしゃげ、大破しているルノーの運転席。


ハンドルにのめり込むように、カッと眼を開いたまま、


英一郎は死んでいた。


辺りが夕暮れに染まる中、私は車内にある彼の遺体をしばらく見つめ続けた。


「英一郎さん…。」


かりそめにも結婚を誓いあった婚約者である男が、瀬戸物のように割れた頭蓋骨から脳梁をダッシュボードまで撒き散らし、不自然な姿勢のまま、潰れた車の中で冷たくなっている。


それは、いかにも無慈悲な光景だった。


間違いなく即死だったろう。苦痛など感じる間もなく…。そう信じたかった。


人は緊急時にショックによって感情を失う事があるのか、涙が少し出たものの不思議と私は悲しくはなかった。


それとも後から、虚栄心や傲慢さ、野心の為に、作られた「芝居」が大半だった私と彼との時間の中から、ささやかだが本当の心の交流のあった瞬間思い出し、それを反芻し、私は泣くだろうか…?


今はわからなかった。


そしてその後の事も、今はとても考えたくもなかった。


とにかくすぐに助けを呼ばなければならない。

 

死の淵から命の継続を許された者が享受するアドレナリンが、私を少しずつ賦活させていた。


私は自分でも意外なくらいの落ち着きでジャケットのポケットに入れていたスマートフォンの所在を探った。


ポケットにスマートフォンはなかったが、私が倒れていたススキの藪のすぐ側の土の上に、落ちていたスマートフォンを見つけた。


はるか峠の向こうから、辛うじて届いていたダークオレンジの夕陽が、私の視界を照らしていた。


無造作に地面に放り出されていたスマートフォンは特にキズもなく、画面はすぐに反応し光ったが、充電残量は僅か10パーセントを示し、アンテナは「圏外」になっていた。


バッテリーが切れる前にせめて電波の届く所まで移動して、助けを呼ばなければならない。


私は潰れたルノーの脇を、英一郎の無残な遺体を、もうなるべく見ないように、静かに通り抜け、曲がったガードレールの間から車道に出た。


車内に残されているであろう私の靴は諦めた。中に入って取り出す気には、とてもならなかった。


私は裸足だったが、林道は新しい舗装で固められていたので、このまま徒歩でも歩けそうな気がした。


しかし、依然として押し寄せてくる左半身の痛みと眩暈、吐き気に耐えながら、私は幽霊のように本道に繋がるであろうバイパス道をフラフラと歩き始めた。


助けを呼べる場所に出るには、歩く以外手段がないのだ。


歩きながら、私はなんということか、不謹慎だが思わず苦笑していた。


もし、今の時間誰かが車で通りかかり、私のこの凄まじい姿を見たら、夕暮れの寂しいバイパス道に「幽霊」が出たと思い、誰だろうと間違いなく卒倒するだろうと…。

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