低層アストラル

上野健太郎

第一章「プロローグ」

それは8月の暑い夜だった。


私は婚約者である英一郎の運転する80年代のクラシカルモデルのルノーの助手席に乗っていた。


彼の父が所有するK市の別荘地に向かう途中なのだ。


時刻は深夜午前1時過ぎ。車はやっと2台がすれ違える位の、新たに舗装された灯の無いバイパス用の林道を飛ばしていた。


「ね、冷房とめて。体が冷えたから、

窓開けて外の空気入れてくれる?」


「ああ」彼はうなずくと、窓を開け車内に心地よい風が入って来た。


英一郎は日焼けした横顔に白い歯をチラッと見せて笑うと

「今日は飛ばしすぎだから、スピード落とせって言わないんだな。」


時刻のせいか、対向車が全くすれ違わないのを良い事に、車はスピードを出していた。

メーターは80km以上を差している。


「早く別荘に着いて休みたいわ。

今日はもう眠りたい。」


昼間の異常な酷暑の中、系列会社の役員会に招かれての会食、さらにその後のおざなりな観光地巡りに付き合わされ、私はとっくにうんざりし、そして疲れていた。


「由紀子さん。疲れてるんだよ。1時間も飛ばせば着く。もう少しだ。」


英一郎はそう言って、ふと心を何処かに置き忘れてしまったような、たまに彼が無意識に見せる、例の空疎な表情になり、しばらく無言でハンドルを滑らせていた。


私は外気が流れ込む、半開き窓の切れ側に指をかけながら外を見、独り思っていた。


(私は、本当にこの人と結婚するのか?)


もう完全に飽きていたのだ。


この善良な、退屈な人に。


事実、この気持ちだけはどうにもならなかった。


自分の本心に正直になるなら、式を挙げる前に、切り出さなければならない。今ならまだ間に合うかもしれない。


その結果が全てを失う事になっても…。


私の父、津島耕作は津島財閥の総帥であると同時に、日本で3本の指に入る大手の科学調味料、及び食品添加物を生産する会社「津島ケミカル」の会長の立場にあった。


婚約者、英一郎は私の父の会社と、双璧を成し、政財界にも多大な影響力を振るう「東洋食品会グループ」の御曹司。


私と英一郎は同じ28歳。私達二人の結婚は私達が出会う以前から、足掛け12年かけて計画されていた。


企業と企業。会長と社長。親、親族同士が、長い間計画し、準備してきた完璧な「政略結婚」だった。もちろん私はそれを理解していて承諾した。というより断る事ができない状況に私達二人はいつの間にか立たされていたのだ。


「タバコ吸ってもいいかい?」


「ええ」


英一郎は左手で口に加えたパーラメントに火を付けて話かけた。


「由紀子さん。なんだか最近つまらなそうだな。」


私は英一郎の言葉を聞きながら黙って外の流れる暗い林道を見ていた。


「由紀子さん。何時も言うが、僕達の立場や親達の事は、もう一切関係ないんだよ。」


英一郎は無意識にか、アクセルをさらに踏み込み、言葉を続けた。


「多分、君も、わかってくれていると思うが…僕はもう本気なんだ。でも、ここまで来て君は…。もしかして今回の事、迷っているんじゃないのか?」


彼にしては珍しく本心を吐露したような訴えかけに感じた。


私には英一郎が自分の立場を超え、私を彼なりに、せめて形だけでも愛そうと真剣に「努力」しているのはわかっていた。


その事も感じ始めていながら、私自身はその彼の温度差に反比例するように余計に倦怠感を覚え始め、私達の関係は既に数ヶ月が経っていた。


そして、800人以上の関係者を呼ぶ、都内での挙式は2ヶ月後に迫っている。


照明灯のほとんどない深夜の林道はあくまで暗く、樹木に遮られた夜空に、朧げに曇った月が、流れる視界の中で断片的に見えるだけだった。


「今日はもう眠いわ。明日ゆっくり話ましょう


私は助手席を倒し、目を瞑りながら考えていた。今回の休暇でやはり切り出さなければならないと…。


…その時だった。


ふと車外の視界に微かな明るさを感じた。


星かと思い何気なく目をやると、樹木に遮られた夜空に、月の光とも違う何か別の光の煌めきが見えた。


木立の切れ側からチラチラと見えるその光は、まるで蓄光素材のような、ぼんやりした薄緑色の光を放っていた。


木々に遮られて形はわからないが、それは数十メートル離れた斜め上の空中を、私達の車とどこか並走して移動しているようにも見えた。


「ね、スピード落としてくださる?」


私は倒した助手席から体を起こし、英一郎を見た。


「あれ。何かしら?」


彼はスピードを少しだけ落とすと私の指す窓側に目を向けて、


「何だい?どうしたの?何もないじゃないか…。」


私も改めて右手側を見ると、その光は消えていた…。


と、思った次の瞬間。


暗闇の中から消えていた光が突然輝きを増し、急速に膨張して行き、木立ごしから、まるでサーチライトのような強烈な輝きを発した。


もはやはっきりとした緑色に輝く光に照らされた車内で、

「な、なんだろう?!ヘリコプターか?」

英一郎の困惑した声。


「違う。怖い。車止めて!」


私は車の右側から差し込む並走してくる異様な謎の光に目を奪われながら言った。


その時、唐突に


「あ、あれ…?どうしたんだ!…ブレーキ…!ブレーキが効かない…!」


蹴るように繰り返しブレーキペダルを踏み付け英一郎が叫んだ。


「ふざけないで!」

私は彼の側に向き直ってフロントパネルを凝視した。


信じられない事に車のスピードはひとりでに上がり続けていた。


「ど、どうしちまったんだ!ハンドルが…ハンドルが動かない…!」


凍りついた私達が恐怖に顔を見合わせた瞬間、

さらに信じられない事が起きた。


100キロを超えるスピードを出し始めた車の真上に、緑色の光はフッと移動して来た。


疾走する車の周囲の色彩は、謎の光体が接近すると同時に、薄緑色から原色の緑色に急激に変化し、暗闇に覆われていた深夜の林道は、不気味な光に照らされ始めた。


何かはっきりとはわからないが、大きな輝く物体はまるで人魂のような動きで、車の真上を飛行しながら並走して来た。


そしてすぐに、何処から人の念仏に似た、異様な音声が聞こえ始めた。


必死の形相でブレーキを踏み続け、動かないハンドルを握りしめながら、英一郎が叫んだ…!


「由紀子…、、、ダメだ!!捕まれ!!」


次の瞬間、車は凄まじいスピードで、カーブを曲がり切れず林道沿いのガードレールに突っ込んだ。


私はシートベルトをしていなかった。


死を覚悟した最後の瞬間に記憶していたのは、英一郎の短い叫び声と、人形のようにフロントガラスを突き破り飛び出す、私自身の、だが、何処か他人事のような奇妙な体の感覚だった…。



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