惑う意思

 ダルガと一緒にいたもう一人の男――――ムノバは、足をもつれるように森の中を走っていた。

 木の根に引っかかって転びながらも、走るのは止めない。何かから逃げるかのように、ひたすら足を進める。


「なんで、なんで、なんで、なんでだよ!」


 どうしてこうなってしまったのか。

 森で巨大な蜘蛛の魔物に襲われて。紫色のまだまだ幼い少女に魔力で潰されて。少女の親らしい女の眼光に睨まれて。

 ムノバはあのままあそこにいれば殺されると分かっていたから、同業者のダルガをおいて無様に逃げた。



 ムノバは冒険者だ。

 冒険者としての実力はCランクという小さい街では有名人になる強さで、さらなる名誉を求めて大きな街まで来た。

 だが、そこには自分達よりも強者がいた。悔しくて、どんなに努力しても強者の前には霞んでいた。


 そこから自分の性格は歪んでいったのだろう。

 暴力を振るったり女性を襲ったりして好き勝手に生きた。もうこれ以上、成長出来るほどの才能はないと気づいていたからだ。


 こんな森に来るんじゃなかった。

 ムノバは自分と同じような境遇のダルガとチームを組んでいた。自分とは違い、己の才能を未だ信じているダルガは、ムノバを引き連れて龍の住む森まで来た。

 皆が恐れる龍を倒してしまえば、誰もが羨む英雄へとなれると考えたからだ。


 そんな自殺行為ともとれる行動に巻き込まれることは嫌ったが、すぐに現実を思い知ることなるだろう。助けが必要なになったら恩を売ろうと打算的なことを考えていた。

 だが、現状はどうだろうか。ただ死にたくないと無様に足掻く醜い人間以下に成り下がっている。


「もう冒険者なんて辞めてやる!」


 Cランクは決して低いものではない。D、E、Fと下には下があり、B、A、Sと上には上がいた。

 けれど上にいくにつれて人数は少なくなっていくのでランク的には高いほうだ。

 だが、今回のことでなけなしのプライドは完全に砕け散った。自分より年下の女そして幼い少女にまで恐怖し、逃げるなんて。


 これからは冒険者をやめ、まじめに畑を耕すのがいいかもしれない。そう考えていると、ムノバは周りの雰囲気がおかしいことに気付いた。

 やけに静かなのだ。覚えがあった。なにせ今日同じことが起こったのだから。


 木々の隙間から細長い黒の脚が見えた。

 それは一本や二本どころではない。六本は確実にあった。巨大蜘蛛の魔物だ。

 逃した獲物を再び見つけ、今度は逃がさないと言う代わりに目を赤らめている。


「くそ、ほんと今日は運が悪い」


 視界が宙を舞った。


 *



 簡素な墓があった。庭の端にぽつんと、『ダルガ』と刻まれている。

 ダルガと共にいた、もう一人の男の名はない。気が付いたときには家にはいなかった。多分、逃げ出したのだろう。

 だが、それは無駄になるらしい。魔物に食い殺されているだろう、と母が言っていた。


 私は家の付近に咲いていた花をいくつか摘み取って墓に供え、死者への冥福を祈る。


 殺そうとしてきた男が憎い。だが、死んでしまったら今は、何も喋らない肉体だけのものだ。

 恨みがあるものの、母が森に捨て動物や魔物の餌となるところを止めた。殺そうとしてきた男だが、死者への礼儀が私にはあった。あと一度死んだ身としては、こうしてあげたほうが安らかな眠りにつけると思った。


 パタパタと音がする。リューだ。後方から聞こえたが振り返らず、ぼうっと墓を見続ける。

 リューは私の横に降り立つ。じいっと私を見ているようで、ちらりと見ると目が合った。心を見通すような透き通るものだったから思わずすぐに目を外したが、何もすることはなく側にいてくれた。


 リューも何か考えているのだろうか。普段は寝てばかりで何も考えていないようだが、龍は賢い。

 ダルガのことをどう思っているか、この醜い私の心と似ていることを願ってしまった。


「クレア」


 クレディアの最初と最後をとった私の愛称を母が呼んだ。


「風邪、ひくわよ」

「……うん」


 冬の時期は終わったが、まだ寒さは残っている。夕暮れ時なので余計にだ。だけど家に入れば嫌でもあの現場は目につくから戻りたくなかった。

 そのことを予想してか、母は私に毛布をかけた。母の優しさが身にしみた。


「傷は痛くない?」

「少し痛む……かな?」

「ふふ、なんで疑問系なのよ」


 私は骨が折れることはなかったが、ヒビがはいったり、痣になったりした。そのため私は包帯でぐるぐる巻にされている。

 リューも翼に怪我があるが切り傷のため、回復薬で一瞬にして治った。回復薬は傷を治すが、形が歪になってしまうことがある。私は骨が曲がった状態でくっついてしまう可能性があるので回復薬の使用をやめた。


 回復薬はとても便利だが、欠点はある。他にも流れた血は元に戻らないため、貧血が起こる。

 だから痛みの感覚がほとんどない私より、血を失ったリューのほうが心配だった。


「リューは平気?」

「ガゥ!」


 短い返事だが、大丈夫らしい。心配は無用だった。

 それよりも自分のことを考えてと言われているようだった。



 二人と一匹の間に冷たい風が吹いた。日は山に隠れ、より暗くなっていた。

 沈黙が辺りを覆う。空気が重く感じた。


 今日は疲れた。いつも通りの幸福な生活。それが突然の来訪者によって踏み潰された。

 だが、完全には壊されていない。修復は可能で、またやり直せれる。


 だけど私が今から問う言葉によって、本当に壊れてしまうかもしれない。ならばそうしなければいい、ずっと胸の内に隠しておけばいい。

 そう思う自分がいるが、どうしても問わずにはいられない。この激情を抑えきれない。


「……ねぇ、お母さん」


 声が震える。

 意識しなければかすれてしまうほどで、緊張と怯えがあった。


「私はなんで―――」


 恐れられ、殺されそうになったの? 



 再び、沈黙。

 だが先程よりも、より重たく苦しいものだった。


「あの男達、私をひどく恐れていた」

「……見つかって、捕まることを恐れたからでしょう」

「幼い子どもなんかに?」

「臆病ものだったのよ。冒険者はそういう人が多いの。そのほうが危険な仕事でも生き残られるから」

「違う」


 あの様子はそんなものじゃない。

 そんな程度のものじゃない。


「お母さんは知っているんだよね?」

「……」

「私を殺したら『英雄』になれる。それは本当?」


 ダルガは言った。

 首を締められながら、意識が朦朧としながらでもその言葉は強く印象に残っている。


「なんで何も言わないの?」


 母は何か隠している。今の状況から簡単に分かることだ。


 私の世界は家の中だけだ。かろうじて庭の結界内まではあるが、そこからは未知の世界。母は危ないからと言って、外に出してくれない。小さな世界しか知らない私は分からないことだらけだ。

 だから、無知な私に教えて欲しい。母とリューしか信頼出来る人はいない、この馬鹿な私を。


 母はいつまでたっても口を開かない。俯いていて、どんな顔をしているのかも分からない。


 子供だから話してくれないのだろうか。私は前世の記憶を持っていることを誰にも話していない。

 子供の狂言だと信じてくれなかったり、気味悪がれることを恐れたからだ。だから誰にも言い出せない。



「クレア、泣かないでちょうだい」


 いつの間にか頬に涙が垂れていた。母やリューが私の顔を見ている。

 泣いている理由は分からなかった。色々な気持ちが入り混じっていて、気持ちが整理出来ていない。

 母が苦しそうな顔をしていた。そんな顔をしてほしい訳ではない。


 私は我儘だ。母にだって言えないことはある。

 それなのに怒鳴ってまで母を詰問して。私は自分がどうしたいのか、分からなくなっていた。

 ギュッと抱きしめられる。暖かい。

 

 日はいつの間にか完全に沈み、辺りは真っ暗となっていた。

 だから毛布に包まれていても冷たくなり始めていた体に、よりその暖かさが伝わった。


「ごめんなさい。言えないの」

「……なんで?」

「弱いから。心も、体も。でもいつまでも言えない訳ではないわ。あなたには知る権利があるもの」

「なら、いつになったら教えてくれるの?」

「訪れる時が来るまで。私はいつかあなたを置いてどこかに行くことになる。そのときに全てを話すわ」

「私も連れて行ってくれないの?」


 母の言葉から、出て行くことは決定事項なようだった。だが置いて行かなくてもいいはずだ。

 母と離れたくない。その気持ちでいっぱいだった。


「出て行く理由はあなたに関係ないとは言えないけど、その場所は危ないところなの。この森よりもとても危険。……死んでしまうかもしれない」

「なら強くなる! お母さんよりも強くなって守るから!」

「ふふ、頼もしいわね。でも駄目。そんな危ないところに連れて行かせたくないの。それに時間はあまり残ってないわ」


 母の決意は固い。これ以上、何を言っても揺るがないようだった。


「大丈夫。あなたにはリューがいるわ。私の友人や昔お世話になった人もいる。だから一人を恐れないで。それに死にに行くわけじゃないわ。また戻ってくる。それまで、待っていて」


 母は額に親愛の口づけをした。

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