第5話 もうここには来ない
「ああ、ヒナちゃんね」
フロントの男はモップをかける手を止めないまま答えた。
「いつもあんな感じだよ」
「あんな、感じ……」
からからになった喉からは乾いた声しか出ない。
「そう。男をとっかえひっかえ……って程じゃないか。まあいろんな奴を連れ込んでヤってる」
僕は壁に寄りかかった。
身体から力が抜けそうになったからだが、男は気づかなかったようだった。
「かくいう俺も誘われたことがあったけどな。笑えるだろ?」
「いえ全く」
白髪だらけの男が言っても冗談にもならない。
顔が険悪にゆがむのを自覚した。
「したんですか? その……彼女と」
訊ねると、男は手を止めてこちらを向いた。
「どう思う?」
知るものか。知りたくもない。
「ここ、一応普通のホテルでしょう」
「だから?」
「そんないかがわしいことに使わせていいんですか」
強い語気で言うのだが男は気にした風もない。
肩をすくめて言ってのける。
「年端もいかない女の子とあれこれふけっていた奴が言えたセリフかね」
「それは……そうですけど」
「それにあの娘はここの上客だしな。前払いで三カ月分のホテル代をもらってる」
そういう問題じゃないだろ!
叫びそうになって、そうしても何にもならないことに気づき顔を手で覆う。
喉の奥から我ながら情けなさ過ぎる声が漏れた。
「なんだお前、惚れてんのか」
うるさい。言い返したかったが言葉にならない。
「ま、頑張れ。命短し恋せよ青年、ってな」
男は掃除に戻っていった。
いてもたってもいられず三階に上がったけれど、ふと気づいてヒナの部屋の前で立ち止まった。
ここに来たところで何ができる?
ひどく頭が重い。みぞおちも痛い。気を抜いたらもどしそうだ。
安物のドアの向こうからは何やらくぐもった音と声が聞こえる。軋むベッドと男が唸るような声。それに混じる少し高い声。
僕は耳をふさいだ。聞きたくなかった。ヒナが快感に悶える声なんて。
後悔した。来るんじゃなかった。なぜ来てしまったんだろう。
僕は廊下の隅にしゃがみこんだ。吐き気を必死に堪えた。
涙は止めようがなかった。
僕、結構本気だったんだな。フロントのオヤジの言っていた通りだ。冷えた心でそんなことを思った。
ドアが開く音がした。
覗くとあの社員の男が出ていくところだった。
エレベーターに乗って消える。
いつの間にやらかなりの時間しゃがみこんでいたらしい。
僕はしばらくぼうっとしていたが、ようやく気づいて立ち上がった。
今、ヒナは一人だ。
ドアの前に立った。かなりながくためらった後、それでもノックした。
大した音もなくドアが開いた。少女の白い顔がのぞいた。
気軽な感じに「やあ」とか「元気?」とか言おうとして、失敗した。
何も言えない。
僕は沈んだ顔のまま立ち尽くした。
ヒナはなんとなく察したのかもしれない。
部屋の中を示した。入れということだろう。
それでも動かないでいると手を取られた。
彼女の手はあたたかかった。
「何か飲む?」
何も答えないでいると、ヒナはペットボトルのお茶を僕の手に押し付けた。自身も同じものを開けてラッパ飲みする。
その額に汗が光った。あいつと一緒にかいた汗か。
ぷは、と彼女が飲み物から口を離すと同時、僕は訊いた。
「いつもこんな感じなんだってね」
ヒナの目がこちらを向く。
「こんなって、どんな?」
「いろんな男を連れ込んでヤりたい放題」
言った僕の方がダメージを受けた。うつむく。
「そうだね。ヤってるよ」
沈黙の後、僕はペットボトルを乱暴に開けて一気にあおる。
ごくごくと飲みきって、握りつぶす。
それから怒鳴ろうとして、むせてうずくまった。
「大丈夫?」
声は淡白だが、背中を優しく撫でてくれる。
僕はその手を振り払った。それから改めて怒鳴った。
「触るな、この!」
そこまでしか出てこない。
この、なんなのか。売女? ビッチ? それともあばずれ?
言えるはずもない。好きな人に。
急速に怒りがしぼむ。
崩れ落ちる身体をソファーが受けとめた。がっくりうなだれる。
「そうだよな、商売だもんな……」
ようやく出てきたのはそんな言葉だ。
彼女はあくまで性的サービスを行っていたにすぎない。すぎないで済ませていいクリーンな仕事ではないけど、まあでもそうだ。
少なくとも僕のことを気に入ったとか好きとかでああいうことをしてくれたわけではない。だから不特定多数の相手にサービスを行うのも当たり前だ。僕はただ商売で優しく接してくれるってだけの女に勝手に本気になったただの勘違い野郎に過ぎない。よくいるダメな奴だ。逆上して凶悪犯罪に手を染める系の。身の程を知れ。
そんなこと分かっている。分かってるんだ。いや、分かっていなかったのかも。そうだよな。だってこんなにも悲しいんだから。
ヒナは黙ってそれを聞いていた。静かに近付いてくると、僕の隣に腰を下ろした。
「ごめん」
「ヒナが謝らないでよ。僕が馬鹿だった」
顔を上げて虚空を見上げる。
「僕、女の子と全く縁がなくてさ。いやもう笑っちゃうくらい全然」
「ふうん」
「だから、ヒナみたいな素敵な娘と知り合うことができて舞い上がってたんだ」
苦笑に口元をゆがませる。
「なんて言うんだっけ。こういうの」
「……恋に恋してる?」
「そうそれ。いや違うかもだけど、多分そう」
僕は頷いた。所詮、本当の恋じゃない。
立ち上がった。
「だから、もうここには来ないよ。今までありがとう。あ、お茶もね。代わりにプリン置いてくよ」
彼女は黙ってこちらを見上げていた。
その目が痛い。くそ。すごく刺さってえぐられた心が傷つく。
「そっか」
呟いて彼女も立ち上がった。
ちょうど僕の前に立ちはだかる位置だったので、僕は戸惑った。
「じゃあ最後にひとつ聞いてくれる?」
「なに?」
「作り話」
「え?」
「わたしは」
彼女はそこで一回深呼吸で間を置いた。
「わたしは、吸血鬼なの」
初めて会った日にもそういえば彼女は言っていた。
自分は吸血鬼だと。
「吸血鬼」
僕はゆっくり二回、瞬きした。
「って、あの、あれ? 血を吸う」
「そう、日の光に弱い」
まず思ったのは彼女はどういうつもりなんだろう、ということだった。
なんの話だろう。
「じゃあ、その、君も血を吸うの?」
「吸うよ。でも吸わない」
「どういうこと?」
「血を吸うと、感染しちゃうから。吸血鬼が」
そういえばそんな性質があったなあと思い出す。
あくまで創作上の「吸血鬼」の話だけれど。
「君はうつしたくないの?」
「まあ、できればね。この身体、不便だし」
「優しいね。でもそれじゃあどうするのさ。吸えないじゃない。死んじゃうのかな」
「死んじゃうね。だから代わりのもので我慢してる」
「代わり?」
「他の体液」
僕は顔をしかめた。ついでにあの社員の男の顔を思い出して吐き気もした。
「それ本当?」
「だけど血より精気が薄いからたくさんもらわなきゃいけない」
「それで大勢の男性と……」
「そういうこと」
彼女があまり金もとらない理由も納得できる気がした。いや、でも作り話だっけ。
全て話したということか、彼女が道をあけた。
「まあ、ヤりまくりの言い訳用の作り話だけどね」
「……そっか」
言い訳になってるのかなとは思ったけどまあいいやと思った。もうどうでもいい。
ドアに向かった。
さっき彼女にも言ったようにもうここには来ない。
だから最後に彼女に向きあった。
「今までありがとう」
「こちらこそ」
彼女は無表情だったが答える声は優しかった。
「ところで最後に訊きたいんだ」
「何?」
「さっきの男。僕の上司みたいなもんなんだけど」
「うん」
「上手いの? その……」
彼女は考え込むような仕草をした。
「多分そうだね。気持ちはいいよ」
「そうか」
ちょっとへこんだ。訊かなきゃよかった。
でもね、と彼女は続ける。
「でもあなたほどやさしくはないかもね」
「え?」
「終わったらもうそこにいないんだよあの人にとってわたしは」
「どういうこと?」
「あなたはわたしを精一杯大事にしてくれてるのが分かったよ。下手っぴだけどね」
「……」
「あなたはきっと大丈夫。頑張って」
僕は。何も言えなかった。なんだか胸が一杯になってしまっていて。
何も言えないまま、ドアが閉じた。
鍵がかかる音がした。
僕は長いことそこに立ち尽くした。
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