第4話 僕は能天気すぎた

 僕の生活は様変わりした。小さく。ほんの少しだけ。

 アルバイト先と安アパートを往復する日々は変わらない。その間に、ある小さなホテルを挟んだ、ただそれだけ。

 けれど気持ちの上ではかなり大きな変化だった。僕は笑顔でいる時間が多くなった。笑顔でない時も気分がよかった。

 職場の苦手な社員に、


「何にやにやしてんだ気持ち悪い」


 と面と向かって言われた時もそんなに気にならなかった。

 まあ「ろくに仕事もできないくせに気も緩んでるなんて救えねえ」というのは少し響いたけれど。

 とにかく、僕はおおむね幸せだった。もちろん理由は彼女だ。


「こんばんは」

「ん」


 ドアを開けてくれた彼女は、そっけなく僕を部屋に招き入れた。

 ソファーに座ると向かいのテレビがついている。


「見てたの?」

「ええ」

「ドラマ? 面白い?」

「全然」


 言いながらも彼女の目は画面にくぎ付けだ。


「だってせっかく見始めたんだから全部見ないともったいないじゃない」


 僕は飽きたらそれまでがどんなによかろうと消してしまうので、そこは分からない。

 彼女がドラマを見ている間に僕はシャワーを浴びた。

 ドラマが終わって彼女もシャワーを浴び終えると、僕たちはいつものようにベッドに寝そべる。

 向きあい、見つめあう。吸い込まれそうに深く黒い彼女の瞳を見つめているうちに僕の心は静まっていく。

 触れ合うと身体中の神経や意識がそこに集中する。皮膚の細胞の一つ一つが順番に熱を持つ。僕は満たされ、目をつぶる。


 僕は満足していた。

 彼女が僕にしてくれることは僕にはもったいないほどのものだったし、とても気持ちいい。

 良くない行為であることの罪悪感を忘れるほどに。

 ただ、と思う。彼女自身はどう思っているんだろう。どう見ても楽しんでいる風ではない。

 考えても仕方のないことではある。だってこれは彼女にとってビジネスなのだから。触れ合いが彼女にとっても良いものであって欲しいというのは僕の自分勝手な願望だ。

 もう一つ気になることがある。

 僕たちは最後まではしていない。

 帰り支度をしながらこっそり僕はそのことを悩む。訊きたい。訊きたいけど、そのことについて無理矢理迫ったりするほど僕には勇気がない。

 なんとなく現状で満足していた。僕には過ぎたことにも思えたからだ。



 ある夜、僕はホテルに向かっていた。鼻歌まじりに、手にはビニール袋を提げて。

 中身はプリンだ。安物が二つ。彼女と一緒に食べようと思って買ってきた。彼女は貢ぐような男は嫌いと言っていたが、これくらいは許してくれるといいなと思う。

 ヤバい、上機嫌だ。みっともなくスキップまでしてしまいそうだ。

 最近肩周りが軽い気がする。漠然とした不安が薄らいだからじゃないだろうか。そんな気がする。多分彼女のおかげだ。だから、プリンはそのお礼。

 喜んでくれるだろうか。またあのほころんだ顔が見たい。


 夜道を進むと前の方に男女の連れが見えた。男が少女の肩に腕をまわしている。その時はちょっと羨ましいな程度にしか思わなかった。ヒナとあんな仲になれたらな、とか考えていた。

 そして距離が詰まって気づいた。心臓がいやな音を立てて一度だけ脈打った。血の気が少しずつ引いていく。口の中がからからに乾いてくる。

 見間違いかもしれない。思いついて、そうであることを願った。

 しかし少女の後ろ姿。長い黒髪、細い肩。

 ……ヒナだ。

 僕は慌ててその隣の男に目を凝らした。

 こちらにも見おぼえがある。

 背の高いやせ形。だが肩幅は広い。ワイシャツ姿のその男は。

 バイト先の苦手な、あの社員の男だった。

 ホテルに入っていく二人を、ビニール袋を手に提げたまま、僕は呆然と見送った。

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