第3話 彼女は血が好きらしい

 目を覚まして最初に見えたのは、ホテルのそれなりに広い天井……ではなかった。安アパートのひどく狭苦しい、薄汚れた天井だ。僕はしばらくの間、その表面に浮かんだ染みをぼんやりと見つめていた。

 あれは……なんだったんだろう。

 夢でなかったことは断言できる。あれが終わった後ホテルを出て終電間際の電車に乗ったことはしっかり覚えていた。財布が二千円分軽くなっているのも間違いないはずだった。ただ、行為の最中のことは記憶に靄がかかったかのようではっきりとは思い出せない。

 とても甘美でゆるゆると生温かい感触だけが肌に残っている。悶えるほどの快感の名残だ。

 ひどく疲れていた。いやたいていいつも疲れているけれど、それよりもさらに身体が重い。まるで精気をあらかた吸いとられてしまったようだった。


 枕元に放っていた安物の腕時計に目をやる。

出勤時間まではまだ余裕があるが、そろそろ起きなければ支度が間に合わない。こわばった身体をおもむろに布団から引きはがした。

 のろのろと出発準備をしていると次第に思い出してくる。

 絡みつくようにうねる舌の柔らかさ。

 触れた肌から伝わるぬくもり。

 ふと気になったのは最後までしたのかということだった。

 何か変な自信が欲しかったのかもしれない。あるいは逆に罪の意識から逃れたくて、最後まではやってないという確信が欲しかったのかもしれない。

 それを思うと妙に焦るような気持ちになった。


 昨日と同じ夜十一時。

 僕は徘徊者よろしくあのホテルの前を行ったり来たりしていた。

例のごとく暗闇があちこちにはびこる狭い道路。そんなところをうろうろしているなんて怪しすぎる。そのことを自覚しながらも、やっぱりそれをやめることができそうにない。

 三階の窓を見上げる。カーテンは分厚く、明かりは灯っているようにもいないようにも見える。あの少女が部屋にいるかどうかは分からない。

 僕はぐずぐずと道路を十往復した。それからさらに数分悩み、考えに考えを重ねた後、ようやく決意を固めて足をホテルの方へ足を踏み出した。

 声がしたのはその時だ。


「ねえ」


 僕は大きく肩を震わせた。泡を食って振り返る。

 冷たい視線がこちらを真っ直ぐ捉えていた。昨日の少女がビニール袋を手に提げてそこにいた。


「何やってるの?」


 彼女はそれほど興味もなさそうに訊いてきた。

 僕は慌てて弁解しようとして、しどろもどろに無意味な言葉を重ねた。


「あ、いや、暗くて、あまり広くもないものだから。ちょっと難しくて」

「何言ってるかほんとさっぱり」


 彼女はやっぱり言葉少なに切り捨てるとホテルの方を目で示した。


「まあ立ち話もなんだし。入ったら?」


 少女の後に従って部屋の入口をくぐる。

 後ろでかちゃりとドアが閉まる。それだけでなんとなく背徳感がふわりと床から舞い上がる気がしてくる。

 ソファーに座った彼女は隣を軽く叩いて僕を促した。かわいらしい動作だが、無表情で愛想はない。気後れする。僕は申し訳ないような気分でそこに腰を下ろした。


「ええと……奇遇だったね」

「わたしに何か用?」


 彼女は僕の言葉を完全に無視した。


「どういうこと?」


 僕はすっとぼけてみたが、それは明らかに無駄な試みだった。


「ホテルの前を計十三往復。ホテルの方を見ながら悩むこと三分」


 彼女は淡々と証拠を並べた。

 ドラマなんかで荒々しく物証を叩きつける刑事とは違うけど、その何倍も威力があるように思えた。


「君に会おうと思ったんだ」


 結局僕はうなだれて白状した。

 少女は「そう」とだけ言って、膝にビニール袋を乗せた。先ほどから彼女が手に提げていたものだ。

 僕は恐る恐る彼女の横顔をうかがった。


「あの、ごめん」

「なんで謝るの?」

「いや、だって気持ち悪いじゃないか」

「気持ち悪い? 何が?」


 袋の中身を探りながら彼女。


「ストーカーみたいで……僕」


 と、彼女の口元がわずかにほころんだ。

 なんだろう思って視線を移すと、彼女の手にプリンがある。スーパーで売っているような安物だったけれど。


「そうね、変態ね」


 はっとして彼女の顔に目を戻すと彼女は再び無表情に戻っていた。なんだか残念な気がした。悔しさにも似た思いが胸をよぎった。


「プリン、好きなの?」


 訊ねると彼女は頷いた。


「嫌いではないかも」

「じゃあ変なことしたお詫びにプリン買ってくるよ。すごくいいやつ」

「それはありがたいけれど。遠慮しておくわ」

「どうして」

「高いプリンは好みじゃない」

「じゃあ安いのを」

「貢ぐ男はもっと嫌い」


 言われて僕は肩をすぼめた。


「なんでわたしに会いに来たの?」


 彼女は唐突に話を戻した。

 僕は頬が熱くなるのを感じた。


「それは……」


 口の中で言葉が渋滞を起こす。一番聞こえのいい言い回しを必死で探して、でも結局何も言えなかった。

 彼女はその様子をじっと見ていた。


「わたしとしたいの?」


 あまりにもあんまりな物言いだ。

さらにしどろもどろになる僕に、彼女は冷たい目で続けた。


「別に隠す必要なんてないよ。まあそんなことだろうと思ったし」

「せ、正確には」


 思ったより大きな声が出た。


「君に、会いたかった。それだけだ」

「それはありがとう」


 感謝の気持ちの欠片もない顔で彼女は答えた。


「で、どっちが先にシャワー浴びる?」

「え?」


 彼女の言葉で呆気にとられた。


「ぐだぐだ言ってるけど、最終的にはするんでしょ?」


 しないよ。と言えるほど僕は強くなかった。

 だからと言って勢い込んで、します! と言うほど能天気でもなかったつもりだ。

 僕はおずおずと訊ねた。


「君はもしかして、その、そういうことが好きなの?」

「抵抗感はないわね」


 さらっとした口調で彼女は答えた。

 僕はひそかに、ほんの少し、ショックを受けた。


「で、どっちが先にシャワー浴びるの?」


 彼女は問いを繰り返した。






 ベッドの縁に並んで座る。

二人とも下着姿だ。彼女の身体からは清潔な香りが漂ってくる。

 恐る恐る見やると視線がぶつかる。

 彼女の視線は少し怖い。見つめあっていると間が持たない。


「あの」


 僕は心配ごとを告げた。


「今日はいくらなのかな」


 雰囲気をぶち壊したことだけは分かったけど彼女は気にした様子もなく、


「昨日と同じでいいよ」


 とだけ答えた。

 商売として成り立つのだろうか。疑問に思う。ホテル代だってこちらが出すのが普通だろうに、あの時も請求された覚えがない。今日もホテル代は要らないのだろうか。

 あれこれ考えているといつの間にか彼女の顔が近くなっていた。

 びっくりしてのけぞる。彼女はそのままのしかかるようにして僕を押し倒した。肌が触れ合って、さらりとこすれる。彼女の滑らかな肌。ほんのりと火照っている。

 僕はゆっくりと手を伸ばした。

 彼女の下着の縁に指が触れる。彼女は気づいていただろうが、何も言ってこなかった。

 その時指に小さな痛みが走った。

 驚いて手を引きもどす。

 見ると人差し指から血がぷっくりと染み出て膨らんでいた。


「どうしたの」


 彼女が顔を上げる。僕はあっと声を上げた。


「ご、ごめん」

「何が?」


 僕は彼女の下着を指さす。

 色の薄いそれには、赤黒い染みが小さく、だがしっかりと付いてしまっていた。


「今日の仕事で切っちゃった傷が開いて……」


 必死で弁解するが彼女は聞いていない。その染みをじっと見下ろしていた。

 しばらくそのまま沈黙が流れた。

 僕は彼女が怒っているものだと思った。取り返しのつかないことをしたと、目の前が暗くなった気がした。彼女の機嫌を損ねてしまった。

 そう思ったのだが、少しばかり意外なことが起きた。

 彼女は下着をつまみ、口元に持っていったのだ。

 それからぺろりと一舐めする。


「……おいしい」


 僕は呆気にとられた。


「おい、しい?」


 彼女はこちらにちろりと視線をくれた。


「……冗談」


 冗談って……と僕は眉を寄せた。

 それにしてはちょっと突飛過ぎやしないか?

 でも、とも思う。

 僕に気を使ってくれたのだとすると、正直ちょっと嬉しかった


 甘い時間が終わって、僕は帰り支度をしていた。

 といってもまとめる荷物なんてほとんどなかったけれど。


「その……また来てもいいかな」


 訊ねるのには勇気がいった。


「別に」


 彼女はそっけなく答える。


「好きにすればいいよ。来るならわたしも助かるし」


 二千円ぽっちで?

 思ったが口には出さないでおいた。

 さて、と靴を履いて立ち上がる。振り向くと彼女が立っている。

 夫を送り出す新妻みたいだな、と思った。我ながら勘違いがひどいし彼女は相変わらずの仏頂面だけれど。

 そういえば、と思い付いて口を開いた。


「名前を訊いてなかった。教えてもらえる?」


 彼女の反応がなかった。

 あれ、聞こえなかったかな、と思ってもう一度訊こうとするのと同時、彼女は口を開く。


「ヒナ」

「え?」

「それがわたしの名前」


 へえ、と僕は思った。こんな涼しげな印象の娘なのに、名前はなんだかかわいらしいんだな。


「いい名前だ」


 と、同時に源氏名的な何かかなと気づいた。


「あ、そうだ。僕の名前は」

「いい。興味ない」

「そ、そっか」


 いろいろ挫かれて僕は苦笑いした。


「それじゃ」

「ん」


 ドアがパタンと閉じた。

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