第2話 僕は結局流される

 浴室を出た僕はソファーに座っている彼女に声をかけた。


「上がったよ」


 緊張で声が上ずった。

 彼女は「ん」とだけ返事をして立ち上がると、さっさと浴室へ消えてしまった。しばらくして控えめなシャワーの音が聞こえてくる。一糸纏わぬ彼女の姿を想像してしまい、僕は落ち着かなく身じろぎした。

 ソファーに座って考える。

 これはつまりその、そういうことなのだろうか。さっきは確認する勇気がなくて訊けなかった。

 ソファーに残っているかすかなぬくもりを感じる。鼓動がやけに大きく、速く聞こえた。頭に血が詰まったような感覚に襲われ、目眩がした。

 白状するのは嫌だけど、とんでもなく嫌だけど、僕は女の子に触れたことがない。

 いや、あるにはあるか。幼稚園だか小学校だかの催し物で手をつないだことぐらいなら。

それ以外はない。自信を持って皆無と言える。とても悲しい自信だけれど、それは紛れもない事実だ。


 彼女の腕や脚など露出した肌を思い出す。とても白くて綺麗だった。

 触れたらひんやりしているのだろうか。それともしっとりと温かいのだろうか。鼓動はさらに大きくなった。もうすぐどっちかわかってしまうのかも。

 正直に言おう。僕はそれが怖かった。

 期待とかもう何もなかった。なんか逃げ出したいしかなかった。


 シャワーの音がぴたりと止まった。

 血の気がさっと引く。

 これはもしかすると、いやもしかしなくても買春とかそんな感じじゃないのか。

 一夜のアバンチュール? 僕を見てそんなことを考える女性がいるはずもない。悲しいけどこれも確かな自信。

 良心が咎めた。いや嘘だ。僕は純粋に恐れていた。

 女の子が怖い。犯罪も怖い。なによりこれから行うであろう行為が怖い。

 美人局かもしれないのも怖い。なんもかんも全部怖い。


 慌てて立ち上がる。素早く荷物をまとめてドアの方へと身体を向けた。同時に浴室へと続くドアが開いた。

 恐怖がぶっとんだ。僕はポカンとしてその光景にただ見入った。

 ドアノブに手をかけて立つ少女の髪はまだほんのり濡れていた。艶っぽさを増した黒髪と白い肌のコントラストがまぶしい。下着姿の彼女は先ほどよりさらに色白に見えた。柔らかそうな肌を目一杯さらけ出して、彼女はそこにたたずんでいた。

 僕は声も出せずに立ち尽くした。

 彼女は怪訝そうにこちらを見上げ、つまらなそうに髪を拭きながら脇を通り過ぎて、そしてすとんとソファーに腰を下ろした。


「なんで立ってるの。座ったら?」


 ぽかんとしていた僕はそれを聞いて我に返った。


「いや、でも……」


 もごもごと言葉を探す。


「もしかして、こういうの初めて?」


 彼女の言葉にぎくりとして言葉に詰まった。それは間違いなく顔にも出た。


「いいよ、別に緊張しなくて」

「いやそんなことは……」

「カッコつける必要もない」


 冷たく切り捨て彼女は隣を示した。


「とにかく座りなよ」


 どこか情けない心地で僕はそこに腰を下ろした。多分ヘナヘナしてた。彼女はその一連を冷めた目で眺めていた。

 僕はガチガチになって座り、彼女はこちらを横目で眺め続ける。

 居心地の悪い沈黙がしばらく続いた。


「あの」


 結局根負けして僕は彼女に顔を向ける。


「僕は金もないし、こういったいかがわしいことは」

「したくない?」


 思わず彼女の胸に目がいった。

 あわてて視線を引きはがす。


「そ、そう。したくない」

「わたしはしたいけど。あなたと」


 思わず生唾を飲んでしまった。


「お金のことなら大丈夫。心配しないで。ふんだくるつもりなんてないから」


 言って指を二本立てて振る。


「これでいいよ」

「二万? 残念だけど僕は」

「いや二千」

「は?」


 理解できずにぽかんとした。

 二千円?

 こういったことの相場なんて知るはずもないが、そんな僕だってその額がおかしいことぐらいは分かる。


「お得でしょ」

「怪しいよ」


 呆気にとられたままでも言葉は出た。

 さすがに僕も性交が神聖なものだと信じているほど純粋じゃない。でもそれとは別にそれを商売にするならリスクは大きいし、それなら受け渡される金だってもちろん大きくなる。子供でも分かる。

 彼女は面倒臭そうに顔をしかめた。


「じゃあ初回サービスが二千円」

「じゃあって」

「もっと払いたいの?」

「そんなことはないけど」


 腑に落ちない。落ちるわけがない。

 僕はいつの間にか緊張が解けていたことに気づき、これ幸いと立ち上がった。


「とにかく、そんな怪しい話には乗れないよ。それじゃ」


 部屋の出口へと身体を向けた。

 と。

 何かが軽く背中にぶつかった。驚いて見下ろすと、身体に細い腕が回されている。

 少女に抱きしめられていた。

 僕は慌てて振りほどこうとした。


「ちょっと」


 手は呆気ないほどすぐに外れたが、次の瞬間甘い衝撃が僕の脳天を突きぬけた。彼女の手が僕の下腹部に伸びていた。情けない声が口から漏れた。堪えようという考えすら浮かばなかった。

 心臓が激しく脈打つ。

 彼女の指がジーンズのファスナーを開けて滑り込んできて、抵抗できなかった。そんな気は失せていた。

 首筋に生温かい湿った感触。耳元で少女の息遣い。

 くらくらして、ほとんど前後不覚になった。彼女に導かれてベッドに倒れ込んだことだけは分かった。

 仕方ない。僕には経験がないのだ。

 いや、そんな言い訳はしてはいけないのかもしれない。本当は堪えるべきだった。そして、ここから出ていくべきなんだ。それが難しいとしてもせめて抗う努力はするべきなんだ。ふりでもいい。僕はもっと頑張るべきだった。

 僕の下半身に顔をうずめる彼女に、はっきりとしない意識の中で訊ねた。


「君は、一体なんなんだよ……」


 言われて彼女は少し考えたようだった。


「吸血鬼」


 その言葉を聞いたのを最後に、僕の意識は快楽の波に呑まれて、濁った。

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