第11話「沈黙の旋律」
日曜 午後6時半すぎ。
ホテルの窓から見える地平線はうっすら紫がかっていた。まだ陽の長い時季ではあるが、そろそろ夜の帳が落ち始める時間帯だ。
団子坂なら、家々の窓の明かりがつき始め、どこかほっとする光景が広がるはずだった。しかし喧騒の中心地、新宿の照明は少々どぎついようだ。
ノックとともに鳴海が入ってきた。
「ちっすちっす。桐嶋さん。ご所望の品をお持ちしました」
手に持っていたのは、ガラケーと昔懐かしい電話帳だ。
その姿を見るなり、桐嶋は重大なことを思い出しあわてた。
「あっ、そうか!しまった!充電器なかっただろ?」
応える鳴海は平然としたもんだ。
「あー、大丈夫っすよ。押収品に同型の充電器があったので、満タンにしてもってきたっす」
「お、お?おおう、ありがとう?」
こうして警察の押収品は消えているのかと、桐嶋は妙な納得の仕方をした。
「あと、これも藤堂さんから預かってきたっす」
それは、父、桐嶋武夫名義の銀行口座通帳だった。
「そうか、それもあったな。一緒にしてたか。藤堂のクセに気が回りすぎだろ」
鳴海から受け取った桐嶋は、最初に電話帳を開く。思ったよりもたくさんの連絡先が書いてあった。
桐嶋の交友関係は多い方ではない。だからだろうか。家族も同じだという認識でいた。しかし、この電話帳を見ると、祖父の健吾は社交的な人だったことがうかがえる。健吾のものと思しき字で書かれた人名が多い。企業名や商店名もある。昔はけっこう手広く商売していたのかもしれない。
考えてみれば当然のことだ。年をおうごとに家族の構成人数が増えている。つまり生活費や光熱費が増えていくのだから、稼ぎが増えなければ生活は困窮する一方だ。
ザムエルさんと祖母から始まった悠彩堂。祖父が加わり、母が加わり、父が加わり、最後に桐嶋悠斗が加わった。
この電話帳は、桐嶋家の歴史そのものだ。桐嶋はそう思うと胸が熱くなった。
「日記のせいだ」
以前は、ここまで家族を近くに感じることがなかった。しかし、日記を読んでからは、自分が生まれるまでに関わった人たちの息遣いを感じるようになった。この変化は桐嶋にとってまったく予想していなかったことだ。
子供の頃は父を憎んでもいた。
他の家庭にあるものが桐嶋家にほとんどなかったからだ。母も祖父母もいなければ、笑顔で接してくれる父親もいない。いるのは仏頂面の口数が少ない父親だけ。
おもちゃもなければゲーム機もない。あるのは絵画と美術関係の本だけ。このような環境で、美術以外の道を選択しろという方が無理な話だ。
気になって通帳を確認した。父が亡くなった時、相続するべき残高を確認したが、他にはほぼ目を通していなかったことを思い出したからだ。
鳴海がもってきてくれた通帳は4冊。どれも同じ口座のものだ。最後の1冊は、繰越直後だったらしく、繰越残高と光熱費の引き落とししか載っていない。桐嶋は他の3冊の取引を詳細にチェックした。そして、なぜ、桐嶋家が貧乏だったかを完全に理解した。
毎年、1~2回の頻度で、なかなかの額が振り込まれている。名義は4つくらいでローテーションしているが、金額はほぼ同じだ。これがおそらくアウラ・ノクティスがらみなのだろう。そして、毎回、その直後に世界中の美術館にまとまった額が寄付されていたのだ。
・メトロポリタン美術館
・スミソニアン機構
・大英博物館
・ルーブル美術館
・アムステルダム国立美術館
・ウフィツィ美術館
これらの美術館は、世界中からの寄付で成り立っている美術館だ。国立の場合は、国からの助成金もあるが、寄付に対する依存度は高い。
「贖罪だったのかもな」
父は祖父から仕事を受け継いだ。だがそれは、養子としてそうしなければならないという使命感だったと考えれば辻褄があう。俯瞰して全体像を見れば、ロンダリングを疑われてもおかしくない行為だが、父に備わっていた正義感が、健吾の死によって発露された結果なのかもしれない。
確認することはできない。
今は誰もいない。いないのだ。
相手が存在しなければ事実を確認する術はない。
想像するしかないというのは苦しいものだと、桐嶋は痛感した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
桐嶋は再び電話帳の確認を始める。
今度はガラケーの電話帳と見比べながらだ。それぞれに同じ名前があれば、それが顔料屋である可能性が高い。
そして、それは、ほどなく見つかった。
電話帳には『藤原経久』『藤然商店』とあり、ガラケーには『藤原経久』『(株)トーゼン』とあった。電話帳には0222から始まる電話番号が記載されており、ガラケーには022から始まる電話番号が登録されている。
市外局番が異なることが気になった桐嶋がネットで調べてみると、変更になったのが1986年7月1日だということがわかった。
「おれの生まれた年じゃないか」
さすがにこれは偶然だろうと桐嶋は思ったが、気に留めておくことにした。
『仙台の』という記述からも、022の番号がこれしかないのだから確定だろう。
「倉橋に悪いことしたな」
先に気づいていれば、情報収集を依頼することもなかった。気負いこんでいただけに、桐嶋は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。奏と一緒のところに電話するのも悪いと思い、メールで伝えておいた。
「さて、問題はこっちだ」
株式会社トーゼン
世界的企業であるトーゼングループの中核会社だ。巨大複合企業でありながら、いまだに本社を仙台に置いている稀有な企業でもある。
藤原経久は、父である藤原然吉から藤然商店を受け継ぎ、一代でトーゼングループを築き上げた立志伝中の人物だ。早い段階で、養子である藤原亮治に社長の座を譲り渡し悠々自適の生活だが、隠然たる実権をもっているともっぱらの噂だ。
その力は財界だけではなく政界にも及んでおり、いまだに陳情にくる客が後を絶たないらしい。
「トーゼントーゼン♪
買ってトーゼン見てトーゼン♪
使ってトーゼン良いトーゼン♪
この番組は、トーゼングループの提供でお送りしました」
桐嶋が口ずさんだのは、昔、テレビでよく流れていたフレーズだ。桐嶋の世代で知らない人はいないだろう。
「鳴海も知ってるよな?」
すぐ近くにいるものだと思っていたので声をかけたが、そこに鳴海はいなかった。かわりにミラーが返答した。
「鳴海様は外におります。お呼びしましょうか?」
「いや、いい。大丈夫。気にしないでくれ。あれ?そういや、キャリーは?」
後ろを振り向くと、魂の抜けた表情をしたキャリーが机に頭を乗せていた。ミラーがてきぱきと書類を整理しているところを見ると、たまっていた書類仕事がようやく終わったらしい。
「兄様、食事にしよー」
「ああ、そうだな。そうしようか。ミラー、お願いしていいかい?」
「かしこまりました」
桐嶋とキャリーは、食事が運ばれてくるのを待っている間、エドガーから警護体制に関する報告を受けていた。昨晩からの状況を考えると、敵にこの場所を察知されている可能性が低く、一段階警戒を下げることにしたいらしい。つまり、キャリーも自室に戻ることになる。多少、不満そうな顏をしていたが、桐嶋としては好都合だったため了承した。
食事中、桐嶋は、くだんの人物のことをキャリーに聞いてみた。
「藤原経久氏ですか?以前、父様がお会いしたことがありますね。『陸奥御前』と呼ばれているとか」
「陸奥御前!?それはまた、時代錯誤な呼称だな」
「そのくらい力を持ってるようです。上院、下院にも息のかかった議員がいると聞いたことがありますし」
「アメリカ議会にもか」
「なにかあったのですか?」
「あったというか、これからというか・・・その御仁と交渉しなければならないようでね」
「父様に頼んでみますか?」
「いや、大丈夫だ。やってみるだけやってみるさ」
食事が終わり、キャリーはミラーに伴われて自室に帰っていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
午後8時。
桐嶋はパーソナルスペースに誰もいない感覚を味わっていた。妻ソフィアが亡くなってから7年。今回ほどの長さで他人といることがなかったからか、ストレスを感じているようだ。
皆に対して不満もないし、気心の知れた仲間たちだとも思っている。それでもやはり一人になる時間は必要だ。なまじ優秀な人ばかりなだけに、自分も優秀なのではないかと錯覚することが怖い。
キャリーから自己評価を高くしろと言われたが、絵画修復の腕と人間そのものの出来に対する評価は違うと、桐嶋は自分に言い聞かせている。
ついさきほど倉橋からメールの返信があった。
『わかりました。なにかあったら連絡ください』
律儀な文面に思わず笑みがこぼれる。
頼れる相手がいることは幸せだ。それが複数いればなおさらだ。
桐嶋はその幸せを嚙みしめながら父親の携帯を手にした。
藤原経久の名前を選択し通話ボタンを押す。
コール音がむなしく響く。
1回・・・3回・・・8回・・・12回・・・17回・・・。
そろそろかけなおそうかと桐嶋は思い、ボタンに指をかけた時、相手がでた。
「武夫・・・ではないな・・・誰だ」
言葉の圧が強い。決して齢100歳近い男性の声ではない。
気圧されながら声を絞り出した。
「・・・はじめまして。武夫の息子、悠斗です」
電話の相手は無言だ。
当然だろう。会ったこともない人物の名乗りなど信用できるわけがない。桐嶋は少し後悔したが、相手の言葉を待つことにした。
「もう40年近く前になるか。君が生まれた時、幸恵さんから写真入りの封書をもらったよ。健吾との連名でね。君の名を聞いたのはそれ以来だ」
「信用していただけるのですか」
「声が武夫似だ。信じないわけにはいくまい」
「ありがとうございます」
桐嶋の言葉に安堵感が重なった。
「わしが、君の祖父だということは知っているかね?」
「はい、つい最近。祖父、健吾の日記で知りました」
「健吾の日記?あいつはそんなものを書いていたのか」
「はい。あなたのことも仙台の顔料屋としか書いておらず、父の携帯などを調べてようやくたどりつきました」
「顔料屋・・・顔料屋か・・・懐かしいな。健吾とは古い付き合いでね、わしのことを顔料屋と呼ぶのは、後にも先にもあいつだけだ。別の商売で必要だった鉱石を競り落とす場で、たまたま会ったのだよ。まさか、あんなに長い付き合いになるとは思わなかったなあ」
声から圧が薄れてる。本当に懐かしがってる雰囲気が桐嶋に伝わった。
「父が亡くなったことは?」
「知っている。あそこのふもとの村には知人がいてね。亡くなった4日後だったかに聞いたよ。不思議に涙もでなかった。ひどい父親がいたもんだと自分で自分を責めたもんさ。それも5年前か、早いもんだな」
「父が別荘に行くときには送迎していただいていたらしいですね」
「あいつはひどいやつでな。わしの知らんとこで、店のもんに送迎させていたらしい」
だからトーゼンの電話番号が登録されていたのか。桐嶋は合点がいった。
「当時のトーゼンの専務は、養子に行く前の武夫を唯一知っている人間だ。だからだろうな。岩手に行く時には便宜を図っていたことを亡くなった後に聞いた。こっぴどく叱ってやったがな」
くぐもった笑い声が電話口に響く。
健吾の日記からすると、武夫は疎まれていたように感じたがそうでもないようだ。逆に自分を頼ってこなかった寂しささえ感じる。桐嶋は祖父・経久の複雑な気持ちを少し理解したような気がした。
そして、電話した直後より、はるかに気が楽になった桐嶋は鷺沼のことも聞いてみることにした。
「鷺沼という人のことは?」
「鷺沼?・・・ああ、あいつか、知っている。最初は父親の方が来ていたが、いつからだったか息子に代替わりしていたな。息子の方とは、武夫が仲良くしていたらしいことは聞いた」
「その息子の方の鷺沼も先日亡くなりました」
「本当か!・・・そうか・・・。なあ、悠斗・・・!いや・・・あの・・・君、悠斗と呼んでもいいか?」
爺様が恥ずかしがってる。しかも遠慮しながらだ。桐嶋はうれしくなってきた。
「大丈夫です。私も爺様と呼ばせていただければ幸いですが」
「そうか・・・そうか。かまわんぞ。そう言ってくれる人もおらんでな」
うれしさと寂しさが混在しているような言葉だった。桐嶋は、自分と同じで肉親との関係性が薄い人なのだろうと思い聞いてみた。
「お孫さん、いや、もう曾孫さんもいますか。みなさんは?」
「誰も来ぬさ。亮治すらもな。亮治は妻の縁戚でな。養子にはもらったが、あくまで妻の要望で店を継がせるためだけでしかない。もうそういうものだとあきらめていた。・・・悠斗、おまえがわしにとって唯一の血のつながった肉親ということだ」
「爺様」
「そう呼ばれることが喜ばしいと感じる時がくるとは、ついぞ思わなんだ。どうだ、顏を見せに来てくれんか?」
「行きたいのは山々ですが、今は立て込んでいて東京から動けないのです。落ち着いたら必ずお伺いします。その時には、健吾の日記帳も持っていきますので、お話を聞かせてもらえたらうれしいですね」
「おうおう、健吾の昔話ならいくらでもあるぞ。楽しみにして待っているとしよう。それで、悠斗」
声色が突然変わった。だが、最初のような威圧ではなく、多少の警戒と好奇が混ざったような声だ。
「用件はなんだ。まさか、昔話を聞くためにわざわざ電話してきたわけではあるまい?」
「はい」
桐嶋も居住まいをただす。確認したいことは一つだ。
「鷺沼に卸していた雲母をいただきたい。加えて、これまでどれだけの量を販売していたか教えていただきたく連絡しました」
「雲母?」
「ええ、健吾の日記に『非常に質の高い雲母』という記述があり、それを顔料屋から仕入れていると」
「ああ、あれのことか。おい!」
最後の声は、側にいる何者かにかけた声らしい。声の響きから、広く天井も高い部屋にいることが伺えた。経久は、電話にかまわず話し続けた。
「銀雲の在庫はいくら残ってる?あとな、鷺沼に販売した量も調べろ」
電話の先で、かすかに了承した声が聞こえた。
「すぐにでてくるさ。待っていなさい」
「銀雲というのが、その雲母の名前なのですか?」
「ああ、そうだ。このあたりで採れるのだが、鉱床自体は震災の山崩れで埋まってしまった。他で聞いたこともない鉱石だ。もうここにしか残っていないだろう」
電話口で紙が渡された音が聞こえる。
「残り6kgだな。これで最後だ。鷺沼に販売したのは総量1.8t。まずまずの量だが、顔料の材料として考えれば充分な量だろう」
「最後に鷺沼に販売したのは」
「6年前だな。その後、やつはここには来ておらん」
「そうですか。その最後の6kgを頂戴することはできますか?」
「ああ、かまわんぞ。東京支社に送ることもできるが、今あっちでは鉱石を扱っておらん。何事か訝しがられるのは面倒だな」
「では、私が信頼している人物をいただきにあがらせるのはいかがでしょう」
「それならいいだろう。わしとしては悠斗に来てもらいたいが、わがままは言わんでおこう」
「すみません」
「それで?誰がいつくる?」
「日程などを調整次第、また連絡します」
「わかった。それではな」
電話は終わった。桐嶋にとっては最大限の成果だ。まさかここまで話がうまくいくとは思いもしなかったようだ。桐嶋は、呆気にとられて電話を見つめていた。
「爺様か・・・」
感慨深いものがあった。自分にとっては、間違いなく唯一の肉親ではあるのだが、どこか他人事のような感覚もある。単純に慣れていないだけなのだが、肉親に慣れるということを知らなかった桐嶋にはわからなかった。
「さて、余人に頼むわけにはいかない。鳴海は確定として、奏には悪いが倉橋にお願いするしかないか」
扉の外に顏をだすと、すぐに鳴海がいた。手招きするとすぐにやってきた。
「どうしたっすか?」
「頼みがある」
「なんすか、あらたまって」
「仙台に行ってほしい。おれの代理として、ある人物から雲母を受け取ってきてくれ」
「雲母というと・・・例の」
「ああ、それだ。『特殊な雲母』」
「ある人物って誰っすか?」
「トーゼンの藤原経久」
「トーゼントーゼン♪」
鳴海が歌い始めた。やはり知っていたようだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
火曜日 午前8時半すぎ。
倉橋と鳴海の二人は東北新幹線の車中にいた。
倉橋はちょうどいい出張がなかったため、今回は有給をとっての参加だ。
先日とったばかりなのに大丈夫なのかと桐嶋は不安になったが、担当参事官が奏のファンらしく「奥さん孝行してやれ」と快くとらせてくれたそうだ。
「倉橋さん、奥さんが寂しがってないっすか?」
「大丈夫だ。むしろ、喜んで送ってくれた。なんなんだろうな、あれは」
「いや、わかんないっすよ。奥さんも彼女もいない、おれに聞かないでくれっす」
鳴海はポーズだけむくれている。
「桐嶋さんの話では、仙台駅に迎えが来ているということだったけど、おれたち、相手のこと知らないよな?」
「なんも知らんっすね」
「だよなぁ」
鳴海がなにかを思いついたようにニヤつきながら笑った。
「プラカード持っている美女が待っていたりして!それがおれの好みだったりして!春よ来い!!」
ほどなくして仙台駅についた。改札口をでてすぐのところに迎えが待っていたようだ。確かにプラカードが見える。
「鳴海の予想が当たったな」
「・・・いや、おっさんじゃないすか!」
『倉橋様、鳴海様』と書かれたプラカードを持っていたのは、背筋の伸びた年配の男性だった。
二人はその人物に近寄っていく。
「倉橋様、鳴海様でよろしいでしょうか。担当させていただく庄司と申します。失礼ですが、身分が証明できるものを拝見させていただくことはできますでしょうか」
二人とも素直に運転免許証を提示した。初対面でもあるし、相手の社会的立場も考えれば当然必要な行為だと思った結果だ。
「失礼しました。それではお送りいたします。車を停めておりますのでご案内いたします」
案内された先に停まっていた車は、メルセデス・マイバッハSクラスだった。
「後部座席のドアを開けて待ってるってことはあれっすか」
「こんな車乗ったことないよ」
二人が乗ると、庄司も助手席に乗り、車は出発した。
「到着まで約2時間かかります。後ろの冷蔵庫に入っている飲み物などはご自由にお飲みください。なにかありましたら、そちらのスイッチを押していただきますとご用命をお伺いいたします。それではごゆっくりなさってください」
言い終わると、運転席側と後部座席側の間に仕切りが下りた。完全ではないだろうが、プライベートスペースを配慮したということなのだろう。
「鳴海、おれは仙台の顔料屋さんから雲母をもらってきてだけ言われてるんだけど、おまえはなにか聞いてる?」
「相手が藤原経久とだけっすね」
「ああ、それも聞いたか」
「でも、普通それだけの用事で、ここまでのVIP待遇してくれるわけないっすよ」
「完全に同意する」
鳴海の疑問に答えながら倉橋は冷蔵庫を開けてみた。そこにはシャンパンが3本とミネラルウォーターが4本入っていた。
「これ、サロンだよな」
ヴィンテージを見ると、1959年、1961年、1988年が1本ずつだった。
「全部、楽勝で100万超えるっすね」
「飲んでみたいけど、さすがになぁ。二度とお目にかかれないヴィンテージだろうなぁ」
「お土産にくれないっすかね」
「おまえ、言う勇気ある?」
「ないっすよ」
「だよなぁ」
二人はおとなしくミネラルウォーターを取り出し飲み始めた。
「日記上、仙台の顔料屋は、桐嶋さんの祖父、健吾さんの知人で、別荘をくれた人で、健吾さんに車をくれた人で、桐嶋さんの父、武夫さんの実父で・・・桐嶋さんの祖父になるのか。だからか」
「そっか。そうなるっすね」
「以前、本で読んだことあるけど、藤原経久の総資産って兆を簡単に超えるらしいよ」
「もう単位が国家予算っすね・・・桐嶋さんって金ないっすよね?なんでだろ」
「おれに聞くな!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
途中1回だけ休憩し、約2時間後、車は藤原邸に到着した。
後部座席のドアが外から開けられ二人は降り立つ。
そこは荘厳な玄関へと続く、玉砂利に敷石が規則的に配置された道で、両脇には使用人らしき人達が合計12人ならんでいた。10人は女性のメイド服姿だ。
「ヴィクトリアンメイド・・・生で初めて見た。写真撮りたいけどさすがになぁ」
「美人さんばかりっすけど、さすがに怖くなってきたっす」
全員同時に無言でお辞儀されるとさすがに壮観だ。
一番奥にいた執事らしき人が口を開く。
「倉橋様、鳴海様、お待ちしておりました。主人がすぐにでも会いたいとのことですので、長旅でお疲れのところ恐縮ですがお願いできますでしょうか」
「は、はい・・・」
通された先は和室。広さは100畳を超えるだろう。
時代劇で殿様が謁見する場所のイメージが一番わかりやすい。
その殿様ポジションに座っていたのが藤原経久だ。
どこか桐嶋に似た顔立ちだが、威厳がまったく違う。
背中に鉄板が入っているかの如く背筋がまっすぐ伸びており、両の拳が膝にそえられた正座姿がよく似合っている。
眼光に射すくめられるだけでも腰がくだけそうだ。
「いらっしゃい。悠斗が信頼している人物とは君たちかね」
倉橋と鳴海が正座しようとする前に声がかけられた。おかげで崩れた座り方になってしまったが仕方ない。倉橋がお辞儀しながら言上した。
「信頼という言葉が当てはまるかは別として、仲良くはさせてもらっています。申し遅れました。倉橋と申します」
それにつられるように鳴海もお辞儀した。
「鳴海と申します。本日はお会いいただきありがとうございます」
二人が深々とお辞儀している間に、なにか重いものが運び込まれてきたような音がした。
「そこまでかしこまらんでもよいさ」
二人は経久の言葉に従うように顏をあげた。
「君たちと食事をしようと思って準備させていたのだがね。どうしてもはずせない急な来客が入ったものだから、また今度、悠斗と一緒に遊びにきなさい。これが悠斗に頼まれていたものだ。雲母の一種『銀雲』という」
「確認させていただいてもよろしいでしょうか」
倉橋が風呂敷包みに、にじり寄りながら言う。
「どうぞ」
倉橋は手早く中身を確認した。なるほど、表面が黒銀色だ。『銀雲』という呼び名がぴったりの外見だった。
確認後すぐに木箱のふたを閉め風呂敷包みを直してから、元の場所にもどりつつ手元に手繰り寄せた。
「確かに確認しました。間違いなく桐嶋さんにお渡しします」
「頼んだよ。それでは失礼させてもらうよ」
藤原経久は退出していった。足取りまで軽やかだ。周囲の誰よりも軽快な動きからかもしれないと倉橋は思った。
小声で鳴海が倉橋に聞いてくる。
「これからどうするっすか」
「どうしようなぁ。もっと時間かかると思ってたから、新幹線のチケットも16:29出発のだよ」
「ですよねぇ」
「お預かりさせていただければ、調整させていただくことは可能ですが」
廊下で待機していたであろう執事風の初老の男性から声がかかった。
鳴海の感想は、銀縁の眼鏡が妙にかっこいい人らしい。
「お願いできますか?」
「はい。もし、このまま東京にお戻りになるのであれば、仙台駅発13:29のはやぶさに変更手続きをさせていただいたうえで、お送りさせいただく車内で昼食をとれるよう準備させていただくことが可能です。いかがいたしましょう」
「はい・・・それでお願いします」
「承りました。それでは準備が整うまで談話室でお待ちください。ご案内いたします」
「鳴海もそれでいいよな」
「いやいや、こんな至れり尽くせり、断る選択肢はないっしょ」
「だよな。おれも仙台駅で、お土産の『萩の月』買えればそれでいいや」
「あ、それいいっすね」
気が楽になった二人は、帰りの車の中でサロンを2本も開けていた。
昼食用と持たせてくれた弁当が、高級なつまみ兼用な内容だったため、想定以上に酒が進んだ。
1959年と1988年のヴィンテージもこうなってしまえば形無しだ。
二人ともアルコールに強いため、顏にでるようなことはない。多少酔いが入ったかなという程度だ。
「倉橋さん、その包み預かってもいいっすか?桐嶋さんが早めに組成成分を知りたいそうなので、東京についたらその足で本庁に戻ります」
「おまえ、完全に忘れてたな。酒入ってるし」
「このくらい東京に着くころには、ほぼほぼ抜けてるっすよ」
「水たくさん飲んでおけば大丈夫か。じゃあ、任せた」
「任されました。藤堂さんに電話するっすよ」
「ああ」
予定よりも早い時間につきそうなので、倉橋も奏に連絡することにした。
「あ、奏か。4時頃には着きそうだ」
「ん?早くない?桐嶋クンのとこには行かなくていいの?」
「ああ、鳴海が行ってくれる」
「じゃあ、大丈夫だね!それなら今晩は僕が夕食を作るよ!なにか食べたいのない?」
「お!それはうれしいな!」
倉橋は瞬時に冷蔵庫の中身を思い起こした。
倉橋家では、夫、慎太郎がほぼ食事を作っているため在庫を一番把握しているのも倉橋慎太郎だ。
「・・・あ、あれがいい。肉じゃがと卵焼き」
「ベタだなぁ、本当にそれでいいのかい?」
「それが食べたいねぇ。特に卵焼き。奏の作る卵焼きが食べたい」
「わかったよ!じゃあ、腕によりをかけて作るよ!楽しみにしてて!」
「よろしくな」
倉橋の電話が終わると鳴海が冷やかしてきた。
「車内の温度が急激に上がってないすか?熱すぎるんすけど」
鳴海の言葉の意味に気が付いた倉橋が苦笑する。
「おまえも早く見つけろってことだ。藤堂さんも桐嶋さんもおれも、みんなここぞと思った人にアタックしまくって射止めている。おまえも頑張れ!」
「いつも頑張ってるつもりなんすけどねぇ・・・あ、それはいいとして、藤堂さんが迎えの車を用意してくれるらしいっすよ」
「ん?鳴海は仮にも仕事で警視庁に向かうわけだからわかるが、おれもか?」
「用心のためだそうですよ。合同捜査本部も必死に容疑者を探してるそうですが、なかなか見つからないみたいっすね、やつら」
「そうか」
「アジトらしきところもまだ一つも特定できていないらしいっす・・・なにしてるんだか」
「まぁ、そういうな。それだけ敵さんも巧妙なんだろうさ。日記からすれば、かなり大きな組織だ。無理もないさ」
「そうかもしれないすねぇ」
そうこうしている内に仙台駅に着いた。二人は礼を言い、新しいチケットをもらってから新幹線ホームへと歩いて行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
倉橋家。
四谷の駅からは奥まったところにあり、比較的静かな場所だ。マンションの中層に部屋をもつ倉橋夫婦にとっても住みやすい街だった。
「さて、そろそろ支度し始めますか!」
エプロンをし、腕まくりした奏が気合いを入れている。
今日作るのは、肉じゃがと卵焼き、オクラと山芋と梅干の和え物、ひじきの煮物とご飯とみそ汁。オクラは買っていたのを覚えているし、他の材料もあったはず。
倉橋家では、おかずが洋風だろうと和風だろうと、ご飯とみそ汁は欠かせない。逆に二人ともご飯とみそ汁さえあればなんとかなると思っている人たちだ。
ひじきを戻している間に、奏が手早く様々な下ごしらえをしていく。
奏は料理がヘタなわけではない。むしろうまい方だ。しかし、旦那の方がはるかにうまいため、それを食べたくて普段はなにもしない。
だから、今回の場合のような時は、奏が率先して腕をふるう。
「あ、慎ちゃん、冷蔵庫の中身わかってて言ったな」
野菜庫の中を見て奏は確信した。あまり緑物が残っていなかった。
倉橋家の肉じゃがは、牛肉とじゃがいもと季節の緑物だ。たまねぎも人参も入らない。野菜庫にある緑物は、ささぎとオクラと三つ葉とレタスだけだった。
ささぎを肉じゃがの添え物にし、三つ葉の茎を細かく刻んで卵焼きに、みそ汁は三つ葉の葉と豆腐にすることにした。
牛肉もあらかじめフライパンで火を入れておく。余分な脂を落とし、主役のじゃがいもを引き立たせるためだ。二人ともじゃがいも好きなだけに、そこはゆずれないポイントだった。
あらかた準備が終わり、最後の仕上げを残すのみとなったのが午後4時。
あとは旦那様が帰ってくるのを待つだけ。
早いけど午後6時くらいに夕飯にしようと奏は考えていた。
しかし、なかなか帰ってこない。
電車なのかタクシーなのか聞いておけばよかったと奏は後悔していた。
「慎ちゃん、まだかなぁ・・・遅いなぁ・・・」
その晩。
倉橋慎太郎が愛妻の元にたどり着くことはなかった。
(第11話 終)
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