第10話「血脈の重み」

「悠彩堂が火事だと!?」


 桐嶋悠斗は驚きを隠せなかった。


 店舗兼住宅には、今回の件があって以降まったく帰っていない。最近、中に入ったことがあるのは倉橋くらいだ。それだって数日前のこと。何らかの失火だとしても遅すぎる。漏電?それくらいしか考えられないが。


「藤堂!どういうことだ!?なぜ、おまえからその連絡がくる!?」


「ついさっき、所轄の駒込署から連絡が入った。駒込からも合同捜査本部に応援がきていたからそれでだろう。場所を把握している工藤と白井が向かっている。詳しい状況はまだわかっていないが、消防からの情報でも悠彩堂が燃えていることだけは間違いない」


「すぐ行く!」


「待て!そこから動くな!」


 意外な言葉が藤堂から返ってきた。


「動くな?なぜだ!?」


「このタイミングでの火事だ。裏がある可能性を考えろ」


「裏?」


「放火の可能性ですよね?」


 桐嶋の背後からキャリーが自らの考えを口にした。通話がスピーカーモードだったため、桐嶋と藤堂の会話は丸聞こえだ。


「そうだ。ウインストンさんもそこにいるのか。ちょうどいい。ウインストンさん、襲撃の可能性もある。警戒を厳重にしてください」


「わかりました。イヴリン」


「承知しました」


 キャリーの言葉に即座に反応したミラーが廊下に出ていった。外の二人に状況を説明しに行ったのだろう。


「藤堂、説明してくれるか?」


「ああ。自然失火や漏電による火災ならそれで終わりだ。おまえには悪いが特に問題もない。だがな、放火となれば話は別だ」


 ミラーが戻ってきた。外はエドガーとデイビスに任せたようだ。窓のカーテンをすべて閉め、自身は扉の脇に待機する。


 物音が微かに聞こえたからか、口をつぐんだ藤堂が再び話始める。


「アウラ・ノクティスによる放火を疑うべきだろう」


「・・・なぜ、放火する必要がある?」


「おいおい、しっかりしてくれ。おまえはアウラ・ノクティスにとって有為な人材だと自覚していないのか?」


 藤堂の言葉に桐嶋が不思議そうな顔をした。


「有為な人材?おれがか?」


「もういい。また連絡する。いいな、絶対に動くなよ。キャリーさん、申し訳ないが、そこの無自覚野郎に説明しておいてくれるか?」


 いらいらした声の藤堂の依頼に対してキャリーが即座に反応する。


「わかりました」


「よろしくお願いします。それでは」


 画面に通話終了の文字が点滅した。


 桐嶋はキャリーを見たが、キャリーはミラーに確認をする。


「態勢は?」


「問題ありません。ただし、警護上、お二人に分散されると難しくなりますので、今晩はお二人ともこの部屋にいてください」


「そうします。では、兄様、少々お話をしましょう」


「いや、あのな、キャリー。さっきの藤堂の言葉で君はわかったのか?」


「ええ、それはもう。藤堂様のご懸念はごもっともです。アウラ・ノクティスも兄様の有為性に気づいたのでしょう。だから罠をしかけた」


「だから、その有為性というのはいったいなんのことなんだ」


「兄様。兄様のお仕事は何ですか?」


 キャリーの迂遠な言い回しに桐嶋は多少イラついた。言葉尻が強くなる。


「いろいろやってはいるが、集約すれば絵画修復だ。君も知っているだろうが」


 桐嶋の言葉にまったくひるまずキャリーは説明した。


「ええ、存じています。優秀だったアカデミー時代も名声を築き上げたアメリカ時代もすべて存じ上げております」


 笑顔が少し怖い。桐嶋は口を閉じた。


「兄様は優秀な絵画修復家です。まずはそれを自覚してください」


「いや、優秀って・・・」


「優秀でもない方に、ナショナル・ギャラリーは修復の依頼をいたしません。AIC(米国保存修復研究所)に所属していたとしてもです。兄様はもっと自己評価を高くすべきです。だいたいなんですか。日本でも有名になるくらい活躍していると確信していたのに、実家とはいえ、しがないアトリエで細々と暮らしているなんて思いもしませんでしたよ?アメリカでの実績を誇示すれば、いくらでも大きい仕事はありますでしょうに」


 キャリーの話はまだ続いている。彼女なりに思うことがたくさんあったようだ。


 桐嶋は耳をキャリーに向けながら、キャリーの言う自己評価について考えた。


 これまでの実績を売り向上にすれば、仕事は引く手あまただだろう。それくらいはわかる。だが、それは桐嶋にとって少々面映ゆい。恥ずかしいとさえ思う。


 過去の実績は、確かに担保になる。だが、それはあくまで過去のものでしかない。未来の仕事に対する補償にはならないというのが桐嶋の考えだ。


『過去の実績なんて、所詮、砂上の楼閣にすぎないさ』


 だが、キャリーの言うことにも一理あるのはわかった。これからは意識を改めることとしようと結論づけた。


 そろそろキャリーの話が一周したようだ。


「・・・ですから!」


「わかったよ、キャリー。君の言う通りだ。これからは自分の評価をもっとあげることにするよ」


「・・・わかってくれましたか」


 息が荒い。桐嶋は水差しからコップに水をそそぎ、キャリーに渡した。受け取ったキャリーは一瞬コップを見つめたが、大事そうに飲み始めた。飲み終わった頃には落ち着いたようだ。


「兄様、ありがとう」


「だが、放火すべき理由はよくわからん」


「兄様の所在を確認するためです。あわよくば拉致するつもりだったかもしれません」


「あー・・・炙り出しってことか・・・大胆だねぇ」


「兄様のお爺様はお父様を後継者として指名されました。しかし、お父様は兄様を後継者にしておりません。つまり、お父様は兄様にアウラ・ノクティスとは距離をおいてほしかったのだと思います。しかし、アウラ・ノクティスにとっては誤算でした」


 そう言われると思い当たることは多数ある。キャリーの言う通り、桐嶋武夫は息子に修復家の道を選んでほしくなかったのだろう。だから、自分の技術や仕事内容を徹底的に教えなかった。


 進路としてウィーン美術アカデミーを選んだことには驚いただろうが、悠彩堂にとどまりさえしなければ、アウラ・ノクティスの手から逃れられるかもしれないと考えたとしても不思議ではない。


『もしかしたら兄様の後継指名を断ったことも殺された理由の一つかもしれない』


 キャリーはそのことに思い当たったが口には出さなかった。


「兄様はアウラ・ノクティスにとって有為な人材です。実績や名声もある優秀な絵画修復家です。特に近年、自らの手足であった画商や絵画修復家を切り捨ててきたわけですからなおさらです。銀行口座に紐づいていないことも大きい。どうにかして自分たちの陣営に引き込もうと画策しているとしても納得できる話です」


「すごいな。よくあれだけの会話と事象からそこまでわかったな」


「えっへん!私はすごいのですよ!」


 キャリーは、両手を腰に当てて足を開いてのけぞった。そのような格好をするとどうしても胸が強調される。桐嶋は目のやり場に困り、あらぬ方向を見たがキャリーは気ずいていない。気づいたのはミラーだ。忍び笑いをしているのがわかる。


 その時、助け船のように桐嶋のスマホが鳴った。さきほどの経緯もあるので桐嶋はスピーカーモードを押した。


「ウインストンさん、そこの唐変木は自覚しましたか?」


「おいおい、おれに電話しておいてそれかよ」


「当然だ。おまえが理解していなければ話もできん。で、どうだ。理解したか?」


「ああ、キャロライン教授から懇々と説明していただいた。大丈夫だ」


「なら、いい。時間がないので手短にいく。まず、火事の規模だがボヤ程度ですんだ。燃えたのは1階の内部、手前の方だけだ。類焼や延焼はない。ご丁寧に窓ガラスを割り、燃焼材らしきものを投げ込んだようだ」


「派手なやり方だな」


「おまえの所在を確認するのが目的なら賢い方法さ。中にいれば外にでてくるだろうし、駆け付けられる範囲にいるなら店までやってくるだろう。窓ガラスを割った音が聞こえれば近所からの通報も早まる。燃やすことだけが目的でないのなら火事は大きくなってほしくないからな」


「あ、そっか。工藤さんたちを現場に行かせたのは」


「状況確認もあるが、放火犯か誘拐犯がそこにいる可能性があったからだ。報告によれば予想通りに怪しいのがいた。一人は防犯カメラにも写っていたフランス人っぽい方。もう一人は暗くてはっきりとはわからなかったらしいが、かなり大柄な外国人の男らしい。間違いなくおまえが行っていたら、なんらかのアクションがあっただろうな。白井が尾行や任意聴取を求めてきたが今はやめておいた。今はやつらに気づいていないと思わせた方がいい」


「しかし、一度は行かないとまずいだろう。近所への挨拶もあるし」


「それは、おれが明日行ってくる。近所のおっちゃんおばちゃん連中に説明するのは、おれの方が向いてる。おまえは岩手の別荘に行っていることにするから口裏合わせておけよ」


「さすがは団子坂の出世頭。任せた」


「・・・格好悪い異名だな」


「今付けた」


 直後に電話は切られた。


 桐嶋は頭を掻きながら通話をオフにした。スマホに表示された時間を見ると、すでに午前1時をすぎている。


「キャリー、そろそろ寝た方がいいな。あっちのベッドを使ってくれ。おれはここのソファを使うから」


「・・・わかりました」


 今日は素直だ。駄々をこねられるかと思っていただけに桐嶋は安心した。とぼとぼとキャリーは歩いて行った。


「ミラー、君は?」


「今晩は3人交代で歩哨をしますのでお気遣いなく。あ、鳴海様がいっらしゃいましたね」


「鳴海?」


 部屋の外にでると、鳴海がエドガーと何事かを話していたが、顏をだした桐嶋に気づいたようだ。


「桐嶋さん、参事官様のご命令により参上しました」


 慣れない敬礼をしている。ヘタクソな敬礼だな、と桐嶋は思った。


「藤堂が?」


「ええ、3人だと警護のローテーション的に厳しいだろうと。要人警護も今回の任務に入っていますしね。ということで、桐嶋さんはごゆっくりお休みください。あ、でもそんなに過剰な期待は禁物っすよ?レクチャー受けた程度でしかないっすから」


 再び敬礼をする。桐嶋は必死に笑いを抑えようとしているが、顔が引きつってしまいそうだった。


「鳴海様の応援は助かります。警護上、一般のホテルは警戒しなければいけない箇所が多い」


 エドガーが桐嶋に説明した。


「エドガー、指揮は任せるよ。君の良いように」


「ありがとうございます」


 桐嶋は部屋に戻った。入れ違いにミラーが廊下に出ていく。打ち合わせをするのだろう。


 桐嶋がソファに近づくと、ベッドの方から微かにキャリーの寝息らしき音が聞こえる。さすがに疲れているのだろう。寝入りが早い。というより、先ほどはもう眠かったのかもしれないと桐嶋は思った。


 桐嶋は、もう少し調べものをしようかと思ったが、明かりを消した方が良いと思い直し、結局寝ることにした。あくびが自然にでる。ジャケットを上にかけ、足をソファに投げ出して寝入った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



日曜日


 午前7時半をすぎる頃、倉橋の姿が羽田空港の国際線到着ロビーにあった。


 目線が出口と腕時計を往復している。


「慎ちゃん!ただいま~!疲れたーーー!!」


 出口から走ってきて倉橋に飛びついたのは、倉橋の妻、奏だ。


 抱きついた拍子に、手に持っていたストラディバリウスのケースが背中にぶつかる。その痛さをものともせず、倉橋は奏を強く抱きしめた。


「おかえり奏。会いたかったよ」


「もう!慎ちゃんは人前でも平気でそういうこと言うからなぁ。照れるぜ」


 そう言いながら、満更でもない奏は倉橋の頬に自分の頬を押し付ける。


「さぁ!帰ろう帰ろう我が家に帰ろう!もう当分ブリテンは行きたくない!やっぱ日本のメシが一番だわぁ。慎ちゃんが作ってくれるメシが恋しくて仕方なかったです!」


「うれしいこと言ってくれるなぁ。今晩のメシの準備は万端。奏の好物ばかり準備してる」


「お?鶏のコンフィ!?じゃがいもとオリーブのサラダ!?」


「どっちもさ。それにご飯とみそ汁だろ?」


「それそれーー!うー、ハラヘッタ。早く帰ろう」


 現金な奏は、ヴァイオリンのケースとキャリーケースを振りながら歩き始めた。


「で?車はどっち?」


「P5駐車場」


「やるー!できる男は違いますなぁ」


 P5駐車場は国際線ターミナルの建物に直結しているうえ、予約も可能なためため非常に使いやすい。


 倉橋は、妻が手にもっていたケースを二つ受け取り、先導して歩いていく。


「荷物これだけ?」


「他は全部送ったよ。3~4日後に届くんじゃないかな?日本と違って適当だから多分そのくらいっていう目安でしかないけど」


「期日通りなのは日本くらいしかないからな。そんなもんさ」


 二人は倉橋の車に乗り、四谷のマンションに向かった。


 去年、購入した中古マンション。駅から歩いて7分。2LDKで駐車場も完備の使いやすい物件だ。


 道すがら、倉橋はここ数日間の話をした。奏は、桐嶋、藤堂、鳴海の3人と仲が良く、なぜか全員を「クン」呼びだ。3人もその呼び方に違和感がないらしく文句もない。なお、奏は自分のことを「僕」と呼ぶ。


「僕がいない間にそんなことなってたのか。桐嶋クンも大変だぁ。で、キャロラインちゃんは美人?」


 妻からそう聞かれると返答に困る。倉橋は簡潔に伝えた。


「美人?・・・美人だな」


「写真ないの!?写真!」


「岩手で別荘の内装をスマホでたくさん撮ったからもしかしたら写っているかも?」


「どれどれ・・・」


 奏は倉橋のスマホを遠慮もなしに操作し始めた。倉橋もその行動をとがめるでもない。そういう夫婦なのだろう。


「やー、いっぱい撮ったねぇ・・・お、この人?」


 渋滞で車が止まった時を見計らって倉橋が確認する。


「その人はミラーさん。ウインストンさんの護衛」


「へー、この人も美人だねぇ・・・あ!このコ!このコでしょ!」


 その画面には確かに彼女が写っていた。


「なにこのコ!めっちゃ美人じゃん!テンションあがるー!桐嶋クンもメロメロじゃないの?」


 倉橋は桐嶋の行動や言動を思い出しながら首を傾げた。


「いや・・・むしろ扱いに困っている感じ?」


「わー、うちの男どもは枯れてんなぁ」


 奏は心底呆れた表情をした。


「僕が男なら放っておかないけどなぁ。ありえん、こいつら」


「旦那にそう言われても。あ、鳴海が瞬速で失恋したとか言ってたか」


「鳴海クンだけ正常。他はダメだね」


 スマホに桐嶋の名前が表示された。奏は躊躇なくスピーカーボタンを押す。


「やっほー!桐嶋クン!ただいまー」


「ん?あれ?・・・奏か!おかえり!いつ帰ってきたんだ?」


「今日今日ついさっき。慎ちゃんは運転中さー。僕が替りにとっておいた。それでね、キャロラインちゃんに会いたいぞ」


 奏が何の前情報もなしに突然言い放つ。桐嶋は面食らったが、倉橋の妻がそういう人物だと理解してもいるので気分を害することはなかった。


「これ、スピーカー?」


「そうそう」


「倉橋聞こえてるか?」


「はい、大丈夫です」


「今回の件は?」


「さっきすべて説明しました」


「そうか・・・おれはかまわんが。おまえはいいのか?巻き込むことになるぞ」


「おれが今回の件にどっぷり浸かっていますから。帰国した以上、完全に関わらないようにするのは無理です。だから逆に、一緒にハマってもらうつもりで説明しました。すでに巻き込んでいるも同じです」


 桐嶋のため息が聞こえる


「わかった。キャリーに聞いてみる。ちょっと待っててくれ」


 保留音が車内に流れた。


「あれれ?一緒の部屋にいるんじゃない?」


「そうかな」


「別な部屋だったら切ると思うよ。絶対一緒だね!」


 ほどなく保留音が解除された。


「会うそうだ。倉橋にも世話になっているからかまわないと。ホテルはわかるな?」


「ええ。鳴海から聞いてます」


「表にミラーが迎えに行く。では、後ほど」


 言葉の最後に切断音が重なる。電話の切り方は人それぞれだ。仕事の電話で相手が切るのを待っている人ほど、プライベートでは切るのが早い傾向がある。桐嶋はどっちも早そうだと倉橋は感じた。


「さて、旦那様。お許しもでたことなので・・・進路変更!四谷からどこか!」


「了解!新宿に向かいます!」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 桐嶋の部屋の扉がノックされた。どうやら倉橋夫妻が着いたようだ。


 招き入れられると、奏はズカズカと一直線にキャリーに向かっていき片手を差し出した。


「はじめまして!キャリーちゃんと呼んでもいいかい?」


 礼儀が一切感じられない奏の行動にミラーが眉をひそめる。倉橋がミラーに謝っている姿を見ながら桐嶋は頭をかかえていた。


 しかし、キャリーは奏の顏を見るなり、両手で口を押えている。


「え?え?・・・カナデ・クラハシ・・・?」


「ん?確かに僕は倉橋奏だが?どこかで会ったことあったかな?」


「本当に??・・・ファンです!大ファンなんです!去年のクリスマスコンサートにも行きました!」


「あー、カーネギーホールの。METオーケストラと一緒に公演したね」


「それです!そこに私もいました!」


 キャリーの頬が紅潮している。聞いていたミラーも驚きの表情だ。彼女も知っている名前らしい。


 桐嶋が倉橋に寄っていき、怪訝そうな表情で聞いた。


「奏ってそんなに有名なのか?」


「一応、世界中からオファーがあるヴァイオリニストですから」


「え!そんなにすごかったのか!?」


「そうですよ。うちの奥さんすごいでしょ」


 倉橋が誇らしげだ。見ると、ミラーも奏に握手してもらいたそうに近づいていた。奏はキャリーを抱擁していたが、ミラーに気づき握手している。


「こうやって見ると、日本人は演奏者に対して淡泊だよな」


「そうですね。アイドルやバンドマンに対するものとは明らかに違います。ウインストンさんやミラーさんの姿は、欧米圏では自然な反応ですが、日本ではまず見ないですね」


 倉橋が思い出したように言葉をつなぐ。


「以前、こんなことがありましたよ。知人が趣味でヴァイオリンをやっているんですが、ミニコンサートを開いた後、打ち上げ的に二人で行きつけのスナックに行ったんですよ。そこで、まぁ、普通に飲んでいたんですが、酔った知人が店主の求めに応じて、手持ちのヴァイオリンで演奏した途端、店内の雰囲気が変わったんです」


「ほう。どんな感じに?」


「他の客の会話がピタッとやみ、みんな姿勢を正し始めたんですよ。これがアメリカやイギリスなら口笛や手拍子が入りますからね。あれはなんですかね、強迫観念?」


「単純に慣れてないというのもあるかもしれないが、小学生の時にあった音楽鑑賞とやらの影響もあるのかもな」


「なるほど。慣れてない楽器の音楽を無理やり姿勢を正して聞かされた影響ですか。言われてみると、あの時の客は年配の方ばかりでした」


「我々の世代はそうでもないが、親世代となるとまさにそれだろうなぁ」


 二人の会話が聞こえたからではないだろうが、奏が演奏の準備を始めた。


 調律の音からして違う。


 やがて演奏が始まった。フリッツ・クライスラーの「愛の喜び」だ。


 この曲は演奏者の技量によってまったく異なる趣きになる。


 奏の演奏は、軽快で喜びに満ちたメロディラインに感情がのっているかのようだ。


 世界的ソリストと世界的名器に相応しい演奏だった。


 演奏が終わると自然と拍手が湧いた。キャリーは微かに涙まで流している。


 女性陣3人はそのままソファに陣取り、なにやら話し始めた。ミラーさん?護衛のお仕事は?と思わないでもないが、桐嶋は無粋なことを言うのをやめた。


「ところで桐嶋さん、先ほどの電話の用件はなんでした?」


「そうそう、奏に押されて言わずじまいだった」


 どこかちょうど良い場所がないか探したが、机はキャリーの仕事の資料であふれているし、ソファは占拠されている。桐嶋は仕方なく寝室からスツールを二つもってきて空いている場所に置き、倉橋に座るよううながした。


「メールでもらった『特殊な雲母』の件だ。思い出してみると、クリムトの絵に使われているのは、イタリアのトスカーナ地方で採取された、セレーナ石(雲母片岩)くらいなんだよ。何度か修復したことがあるから間違いない。そして、セレーナ石の流通は少ないだけで珍しくはない。だから『特殊な雲母』が使われているはずがないんだ。しかも、どこでも取扱いがないということは金雲母でも白雲母ですらないということだ」


「え!?でも、組成成分表では間違いなく雲母の一種で・・・」


「倉橋、採取した場所はどこだ?」


「例の爪痕のところです。盛り上がっていた絵具を削りました」


「やはりか」


「やはり?というと、桐嶋さんにはなにか心当たりが?」


「ああ、仮説でしかないがな」


 桐嶋は席を立ち、パソコンをもってきて祖父の日記帳を翻訳した文章を指した。


「手がかりはここさ。1970年7月の記述。『顔料屋から仕入れる雲母は非常に質が高い。他に類を見ないほどだ』」


「あ!」


「例のクリムトの絵、若い女の肖像画の頬の部分には確かに雲母が使われている。これは光の反射具合から明らかだ。しかし、爪痕の部分から採取した雲母とは異なる。それはなぜか」


 桐嶋はパソコンではなく日記帳の原文を読みながら続けた。


「祖父は傷痕がしのびなくて修復しようとしたんだと思う。贋作製作を決意するほどに心理的影響を与える絵だ。何度も見るうちに治そうと思っても不思議ではないさ」


「そして・・・絵具を作り、治そうとしたところで思いとどまったが、一部の絵具は爪痕の箇所に付着したと?」


「そういうことだ。その場所をおまえが削ったとすれば『特殊な雲母』が検出されたことに説明がつく」


「桐嶋さん、今、絵はどこに?」


「銀行の貸金庫だ」


「今日は日曜ですからさすがに無理ですね」


 倉橋は残念がった。現物を調べれば違いがわかるかもしれなかった。


「倉橋、あの時写真をとったデータは?」


「あ、そっか。拡大すればわかるかもしれませんね」


「おれも撮ってあるから見比べてみよう」


 桐嶋はパソコンにデータを転送し、拡大した画面を二人で確認した。


「まずは倉橋が撮った、絵具を削り取る前の画像」


 周りと違うかもしれないという前提条件が念頭にある状態で見ると、光の反射具合がほんのわずかに異なる部分が見てとれた。写真を何枚もとっていたからこそわかった違いだ。


「違いますね」「違うな」


 次に確認したのは、削り取った後に桐嶋が撮った画像。


「光の異なる部分が削りとられてますね・・・桐嶋さんの仮説が当たりだと思います。・・・ああ!もう!!なんでこんなミラクルな場所を削るかなぁ!!」


 倉橋の後悔ともとれる嘆息が吐き出された。


「だがな、おかげで日記の雲母の箇所に注目することができた。これは倉橋のお手柄さ」


「皮肉を言わないでくださいよ」


「皮肉なんかじゃないさ。本当にお手柄なんだ。おかげでもう一つの仮説が現実味をおびてくる」


「まだあるんですか」


「ああ。だが、この仮説は現物を確認して立証される代物だ。鍵は『仙台の顔料屋』か・・・」


「桐嶋さんが翻訳したものしか読んでいないので、その情報しかわからないのですが、原本の日記帳にもそれしか?」


「そうなんだよ。どこの誰ともわからない。仙台としか」


「探してみますよ」


「え?」


「仮にその顔料屋しか扱っていない雲母ならば、周辺の業者に情報収集すればなにかわかるかもしれません」


「可能なのか?」


「文化庁の情報網を舐めちゃいけません。宮城県、岩手県、山形県、福島県の関係各所にあたればなにかでてくるでしょう」


 得意げな倉橋の顏は任せてくださいと言わんばかりだ。桐嶋は少し考えたが適任だと考えお願いすることにした。


「わかった。よろしく頼む」


「承りました。さて、今日はここまでにして帰ります。帰国直後の奏を休ませたいので」


「そうだな。妻孝行するべきだ」


「ここにきたのも妻孝行みたいなものですけどね。奏。そろそろ帰るよー」


 女性たちは楽しくおしゃべりをしていたが、倉橋の言葉に奏が反応した。


「愛しの旦那様がああ言っているのでね、今日のところは帰るよ」


 キャリーとミラーは名残惜しそうだったが、奏に疲労の色が見えたため無理は言わなかった。


「桐嶋クン、またくるよ。今度は悠彩堂に行きたいな」


「ああ、落ち着いたらな。ところで、奏。なんで宝塚みたいな話し方になっているんだ?」


 奏が苦笑いしている。


「最初にこの設定で話始めたら戻らなくなっちゃった。あ!戻った!桐嶋クン、ありがとー!」


「イギリスでまた変なことにハマったのかと思ったわ。またな」


 奏はブンブン手を振りながら、倉橋に引きずられるように部屋からでていった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



午後2時半。


 桐嶋は相変わらず、祖父の日記と格闘していた。翻訳したことが間違っていたとは思わないが、やはり原文を読むのとはニュアンスが違う。結局、日記帳に穴が開くくらい読み込んでいた。


 同室にいるキャリーはといえば書類の山と戦っている。どうやら、ミラーによって、キャリーが隠していた財団に提出する未決済書類や報告書が大量に見つけられたらしい。最初、勢いのまったくない言い訳をしていたキャリーだったが、おとなしく処理することにしたようだ。


 今の二人を見ていると、ミラーが家庭教師のようだなと桐嶋は思った。


 そういえば二人の関係性がよくわからない。


 エドガーとデイビスは完全に護衛として職務に徹しているのがわかるが、ミラーだけはキャリーへの距離感が近い。ただの護衛兼秘書とは思えないのだ。


 疑問に思った桐嶋は、この際だからと聞いてみることにした。


「ミラーは、キャリーと以前からの知り合いなのか?」


 ふいの問いだったが、あわてもせずミラーは応える。


「母が、家政婦として長年ウインストン家にお世話になっている関係で、私も幼少の頃からお嬢様のことはようく存じあげております」


「道理で。理解したよ」


『ソフィア様のことも存じあげております』


 そう言いそうになったが、寸前でミラーは自制した。言う必要はない言葉だ。


 桐嶋の電話が鳴った。藤堂だ。キャリーの邪魔にならないよう、寝室に向かいながら受話のボタンを押した。


「お疲れ。どうだった?」


 周りに聞こえる音からすると、藤堂は車の中のようだ。


「消防関係の対処も駒込署への根回しも隣近所の挨拶も全部終わったぞ。とにかくだ!おっちゃんおばちゃんの話は長いな!おかげでいろんな話が聞けたけどな!」


「話?」


「おまえさ、学生時代の友人で、アラン・ドロンに似た人っていたか?」


「アラン・ドロン?あー、フランス人の俳優だったか?」


「それだ」


 桐嶋は学生時代の交友関係を思い出してみたが、該当しそうな人物はいない。友人、知人は少ないながらも数人いたが、フランス人はいなかったはずだ。


「いない。いないと思う」


「じゃあ、間違いないな。念のため、工藤にも確認したが、言われれば似てたかもしれないと言っていた」


「工藤警部補?ということは」


「やつらだよ。アウラ・ノクティスだ。午前中、あの辺りでおまえのことを聞き回っていたらしいぞ。よほど切羽詰まってきたようだな」


「ホントか!?」


「ああ、隣の房恵おばちゃんが言ってたからな」


「あの、ばあさんが?」


「ばあさんなんて言うと殴られるぞ?」


 子供の頃を思い出すと、二人とも何度ゲンコツをくらったかわからない。


「内緒な」


「まぁ、それはいいとして、おかげでおまえの個人情報は駄々洩れだ!妻とは死別しただの、子供はいないだの、親戚もいないし、ずっと一人だのと、おばちゃんが全部話したらしい。よく店に出入りしていた、おれとか倉橋のことまで話したようだ。アラン・ドロン似がずいぶん効いたらしいな」


「あのババァ・・・」


「おまえさ、房恵さんに、親父さんのことも聞いていないんだろ?いろいろ教えてくれたぞ」


「なにをだよ」


「親父さんな、おまえがウィーンに行ってから、1年の内ほとんどは岩手に行っていたみたいだぞ」


「なに!?」


「おばちゃんが言うにはな、あっちでの仕事があるからと言っていたらしい。あとな、仙台までは新幹線で行っていたが、そこからは知人が送ってくれていたとのことだ」


「仙台の知人・・・顔料屋か・・・なぁ、藤堂、日記読んだか?」


「ああ、読んだ」


「日記の日付から考えると、鷺沼親子が仕事を持ってきていたのは毎年8月のことだ。それで思い出したが、親父は、昔から8月近辺には必ず別荘に行っていた。つまり、親父の代になってからはアウラ・ノクティスの仕事はすべて別荘で請け負っていたということになる。そして、おれがいなくなってからはそれに拍車がかかった」


「そうだな。おそらくそうだ」


 藤堂は慎重に応えた。桐嶋の声色には苦しさが滲んでいる。


「・・・アウラ・ノクティスは、親父が作業途中の修復絵画か贋作を持っているな」


「は!?なぜそうなる!?」


 藤堂は驚きのあまり、クラクションを鳴らしそうになったがぎりぎりでこらえた。あまり目立つわけにいかない。


「親父が亡くなったのは6月だ。前の年に持ち込まれた分が別荘にはなかった。少なくともおれは確認していない」


「地下室から回収されたとか?」


「いや、その絵はリビングあたりにでもあったのだろうさ。地下室は、殺したやつらに見つかっていないよ。もし、見つかっていたら、こんな危ない日記帳が残っているはずがない」


「それもそうか」


「地下室を知っていたのは鷺沼だよ。地下室には、例のクリムトの絵と日記帳があった。そして鷺沼はクリムトの絵だけを持ち去り、おれに修復依頼してきた。日記帳を持ってこなかったのは、あの時点でおれに渡しても逆効果だと思ったからじゃないかな」


「ありうるな」


「考えてみればおかしいことだらけだ。親父は車をもっていなかったはずなのに、別荘には、整備された2~3台分の駐車スペースがあった。つまり、それだけ頻繁に誰かが訪れていたということさ。一人は鷺沼、もう一人は仙台の顔料屋か関係者だろうな。もしかしたら別のアウラ・ノクティス関係者も来ていたかもしれない。とにかくキーは仙台の顔料屋だ。日記からすれば、おれのもう一人の爺様なんだろうけどな。倉橋が顔料の流通から探してみると言っていたが見つかるかどうか・・・・・・あ!そうか!藤堂!まだ店の近くか!?店に行けるか!?」


「ああ、行けるぞ。まだ消防と駒込署が現場検証中だが、おれなら入れる」


「居間にある茶箪笥の引き出しに親父が使っていた携帯が入っている。まだ、捨ててなかったはずだ。それを持ってきてくれ!あと、隣の電話台に電話帳が載ってるからそれも頼む!」


「そうか。そうだな。その中に顔料屋の情報があるかもしれん。わかった」


「夕方に鳴海がくることになっているから渡してくれると助かる」


「ああ、そうしよう」


「・・・これからは近所づきあいを大切にするよ」


「そうだな、そうしてくれ」


 藤堂は苦笑しながら電話を切ったようだ。


 桐嶋はスマホを握りしめたままベッドに仰向けになって考えた。


 自分で言っておいでなんだが・・・そうか、仙台の顔料屋とやらが、おれの最後の肉親になるのか、と。



(第10話 終)

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