第8話「山荘の深淵」
水曜日の早朝、東京の喧騒がまだ目覚めぬ頃、桐嶋悠斗はホテルのロビーで深呼吸をしていた。時計の針が午前6時を指す。
「おはようっす」
鳴海涼の声に振り返ると、いつもの飄々とした表情で立っていた。
「ああ、おはよう鳴海」
「準備はよろしいですか?」
キャリーの声が響く。彼女の後ろには3人の護衛が控えていた。
「では、出発しましょう」
6人は、外交官ナンバーの黒色のシエナに乗り込んだ。
座席配置は、運転席がエドガー、助手席が鳴海、運転席の後ろがキャリー、助手席の後ろが桐嶋、3列目にミラーとデイビスだ。
首都高から東北自動車道に入り、一路、盛岡に向かう。目的地の早池峰山ふもとの別荘は宮古市よりではあるが、東京から向かう場合は、盛岡経由の方が時間がかからない。
「蓮田SAから盛岡ICまでの所要時間は約6時間です。最終目的地である別荘までは、盛岡ICから約1時間半かかります」
エドガーの低い声が車内に響いた。
桐嶋は窓の外を眺めながら、ここ数日の出来事を思い返していた。
月曜日。
藤堂が帰ったあと、キャリーは駐日大使、滞在しているホテルの支配人、鳴海の上司にと、次々了承をとりつけていく。手慣れたもんだ。組織に所属する優秀な人間は、優秀な調整能力を有する場合が多い。キャリーもその口だろう。
キャリーが関係各所に連絡している間、桐嶋はキャリーの護衛たちから自己紹介を受けていた。
勝手にターミネーターと呼んでいるマイケル・エドガー。有能な秘書というイメージそのままなイヴリン・ミラー。どこか鳴海と似たような雰囲気のロバート・デイビス。
佇まいといい、言動といい、能力的には信用のおけそうな人たちだ。「信頼できるかはまだわからんがな」桐嶋は心の中でそうつぶやていた。
その日の夜、倉橋から連絡が入った。
「桐嶋さん、水曜には揃うと言ってた画材ですが、もう少しかかりそうです」
「ああ、急がないでもいいぞ」
「助かります。藤堂さんから聞きましたが岩手に行くそうで」
「そうだな。その予定だ」
「今日で休みが終わりなのが悔しいです」
「情報は共有するさ。また、おまえの知見を貸してくれ」
「わかりました」
そして、その夜ちょっとした騒動がおこった。キャリーだ。
桐嶋は、キャリーと同じホテルに泊まることに同意していたが、別の部屋に泊まるつもりだった。確認すると、警備上の観点から、キャリーの部屋とその周囲の4部屋をおさえているとのことだったので、どこか貸してほしいと言っていたのだが。
「えー!せっかく兄様と一緒に泊まれると思ったのに!」
キャリーが駄々をこねた。
しかし、桐嶋の意見が通り、別部屋に泊まることになったので桐嶋は一安心。
午後10時頃。
キャリーは自宅に電話し、桐嶋と会えたことを母親に伝えている。
桐嶋も電話を代わり、いろいろ落ち着いたらアメリカのウインストン家に訪問することを伝えた。
「ソフィアの墓参りもしたいしな」
桐嶋の気持ちは、まだ、妻に合わせる顔がないという気持ちは強いが、いつまでも逃げるようではダメだと自分に言い聞かせていた。
火曜日。
鳴海から桐嶋に連絡が入る。
「いろいろな根回しの結果、キャリーさんが滞在中、要人警護兼連絡役兼オブザーバーとして、同行することになったっす」
「なぜ、キャリーではなく俺に連絡したんだ?」
訝し気な表情の桐嶋が鳴海に確認した。
「藤堂さんから話を聞く限り、行動のイニシアチブが桐嶋さんにありそうだったので。キャリーさんには桐嶋さんから伝えてくださいっす」
お互いの日程を確認し、水曜日に出発することになった。
場所が場所なので早い時間に出発した方が良いだろうということになり、鳴海が午前6時にホテルのロビーに来ることになった。
クリムトの絵についても問題になった。さすがに持ち歩くわけにはいかない。
当初、桐嶋はクリムトの絵を、大使館で預かってもらおうと考えていたが、いくら大使館内とはいえ、事情を知る警護人がいない状態で放置するのは危険という意見がミラーからあったため再考。
結局、キャリーの伝手で某都市銀行の貸金庫に預けることにした。
絵と保護材だけであれば貸金庫にぎりぎり入るサイズで、空調管理も保管に適していたからだ。
別荘行きに必要な食糧や寝袋等の必要なものはミラーが購入、準備して車に搭載済みだった。
こうして準備は完了した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
栃木県の那須高原サービスエリアで一時休憩。トイレに向かう途中、鳴海が桐嶋に近寄り小声で話し始めた。
「念のための確認ですけど、ウインストンさんは別として、あの3人をどこまで信じるっすか?」
「んー、ターミネーターは信じたい」
「ああ、わかります。見た目だけじゃないですけど、ウインストンさんにすごく献身的なのが伝わってきますもん」
「だよな。あとの二人は保留かな。まだ、全面的に信頼するにはちょっと」
「同じ意見でよかったっす。じゃあ、その方向性で」
「ああ」
車は再び北上。
東北道が渋滞するほどに混むことはめったにない。盆や正月くらいのものだ。エドガーの運転もスムーズだし快適な旅と言える。
平穏な旅路だったらどれほど気が楽かわからない。
鳴海も軽口をたたいていない。おかげで車内は静かなままだ。
長者原サービスエリアで2回目の休憩。体を伸ばしていると倉橋から連絡が入った。
「今、どこですか?」
「ああ、東北道の長者原サービスエリアなんだが・・・どっちだろ?宮城県か岩手県のどちらか」
「長者原なら宮城県ですよ」
「詳しいな」
「あ、発見。ちょっと待ってくださいね」
そう言うと電話が切られた。
桐嶋がスマホの画面を見ながら訝しんでいると、駐車場の奥から手を振りながら歩いてくる倉橋がいた。
「待った。どういうことだ?なぜ、おまえがここにいる?仕事は?」
「やだなぁ、仕事ですよ。昨日、宇都宮で仕事して、金曜に盛岡で仕事があるので移動途中です。あ、移動途中なので今日、明日は大丈夫ですよ?」
倉橋は晴れやかな表情で話しているが、桐嶋は対照的に憮然としている。
しかし、あることに思い至って破顔した。
「出張予定を調整して当てはめたわけか。うまくやりやがったな。おれとしては助かるが」
「どうにかして、ご一緒できないかと考えた結果ですよ」
桐嶋と倉橋が話しているところに、鳴海がソフトクリームを食べながら歩いてきた。
「あれ?倉橋さんじゃないすか。なぜにここへ」
「お、鳴海。おれも同行するのでよろしく」
「は?え?ん?どういうことっすか?」
「こういうことだ」
文化庁の調査官である倉橋は、普段は研究や政策立案などを担当していることが多いが、現地調査の必要性があれば全国どこにでも出張する。
文化財の指定、保存修理、現状変更等に関する専門的・技術的な事項を扱うなど、現地に赴いて調査をおこなう必要があるからだ。
今回、倉橋が宇都宮に行ったのは、文化庁から宇都宮市に貸し出していた美術品の展示状況確認。盛岡に行くのは、文化財保存活用地域計画の作成に関して、現地視察を行うという立派な理由があるのだった。
桐嶋はキャリー達に倉橋を紹介した。倉橋は桐嶋たちの車には同乗せず、自分の車(アルファロメオ)で、桐嶋たちの車の後ろについていくことになった。
長者原サービスエリアを出発した一行は、盛岡インターチェンジで東北自動車道をおり、早池峰山のふもとにある桐嶋の別荘を目指した。
道がすいていたため予定よりも早く別荘の近くまで着くことができた。
途中から、桐嶋が運転手のエドガーに道案内をする。山道を走り、ようやく別荘へと続く道の手前に2台の車が到着した。
その道には杭と鎖で作られたゲートが設置されている。桐嶋が車をおり、ゲートを開けに行く。桐嶋が作業をしていると鳴海もおりてきた。
「桐嶋さん。桐嶋さんが最後にここに来たのっていつでしたっけ?」
「2年前だな」
「だと、誰かがその後に来てますね」
「まさか」
「轍のとこを見てください。2年もたっていたら、もっと草ぼうぼうっすよ」
「・・・確かにそうだな」
「用心した方がいいっすね」
桐嶋は車に戻り、そのことをキャリー達に説明した。倉橋には、鳴海が説明しにいった。車内に緊張が走る。鳴海が戻ったところで再び出発した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
周囲を警戒しながら、ゆっくりと10分ほど車で進んだところで別荘が見えてきた。ログハウスのような造りの家屋だ。ここについた時間は午後3時すぎ。
家屋横のスペースに車2台を止めることができた。
家屋と駐車スペースの間にはクリスマスローズが多数植栽されている。周囲を見渡すとイチイの木が多い。
それにキャリーが気づく。
「イチイの木がこんなにたくさん・・・クリスマスローズも」
「ああ、そうか。キャリーはあまり見慣れないかもしれないが、日本でイチイの木は、そう珍しい木ではないんだ。日本各地に群生地も多数存在する。ここ早池峰山もその一つだ。ちなみに、クリスマスローズも一般家庭で栽培している家がたくさんあるさ」
ミラーとデイビスが先に車を降り、素早く家屋の周辺を確認している。2人の手には特殊警棒のようなものが握られていた。二人が安全を確認してから全員が車をおりた。
「ちょっと待っててくれ」
桐嶋はそう言うと、家屋のすぐ側にある小川に設置されている水力発電機のスイッチを入れに行った。
桐嶋も父親から聞いた話だが、桐嶋が生まれるよりも前に、桐嶋の祖父が設置したものらしい。桐嶋の後ろには、警護のためにデイビスがついてきている。発電機のスイッチをいれると低音の駆動音が聞こえ始めた。
桐嶋が別荘の入り口に戻り扉の鍵を開ける。
扉を開けてすぐの部屋は広いリビングダイニング。左奥にキッチンや風呂やトイレなどの水回りがあり、正面奥の壁には一面の書架、右側には扉のない倉庫と寝室があった。
桐嶋は中に入ると扉の横にある郵便受けを確認したがなにもない。警察が遺留品として回収したかもしれないと思い、今は考えを保留することにした。
リビングにあるテーブルの上と床の埃りをデイビスが確認している。
「鳴海様の言う通りですね。ここにも最近誰かがきた形跡がある。埃りの堆積量の差から考えると、おそらくここに来たのは一人です。一か月もたっていないでしょう」
「危険性は?」
鳴海が問う。
「屋内にはなさそうです。トラップの危険性もないでしょう。革靴ですし、足の運びが訓練された人のものではないので」
「トラッキングか。軍隊あがり?」
デイビスは無言で好意的な笑いを向けた。
「この人物は、何度もここを訪れていますね。慣れた足取りで迷いがない」
「桐嶋さんの足跡とは違うのか?」
「桐嶋様のものとは違いますね。失礼ながら桐嶋様はこちらに慣れていらっしゃらないご様子」
デイビスは桐嶋の足元を見ながらそう答えた。
それを聞いた桐嶋が両手を広げ降参のジェスチャーをする。
「正解だ。親父は年に何度か来ていたが、おれは子供の頃に親父に連れられてきた時を含めても、片手で数えられるほどしか来たことがない」
そのやり取りを聞いていたキャリーが、なにかに気づいたように外にでようとした。
「兄様。外を見て来てもいいですか?」
「エドガーも一緒ならかまわないよ」
大男が無言でうなづく。二人は外にでていった。
「では、私はキッチンを確認します。コンロと水道は使えますか?」
「それは大丈夫だ。水は、川の水を浄水して引いているし、コンロはIHだからもう使えるはずだ」
「わかりました。ありがとうございます」
ミラーはキッチンの方に歩いて行った。
その時、桐嶋は倉橋の挙動に気が付いた。壁や床を見渡している。
「どうした倉橋」
「桐嶋さん、この別荘って、ずいぶん昔からあるんでしたっけ?」
「ああ、そうだな。親父から聞いた話だと、おれのじいさんが知人からもらったと言ってたから昔の話だな。それが?」
「いや、ちょっと・・・」
それきり倉橋はなにかを考えるように黙ってしまった。
そのやりとりを見ていた、鳴海が疑問を口にした。
「桐嶋さん、この別荘ってなんの目的の別荘なんすかね?」
「目的?んー、避暑とか?あ、いや、夏以外にも親父は来ていたはずだな」
「絵画修復のためとか、在庫を置いておく場所ではなかったっすか?」
「違うな。少なくてもおれはここで親父が修復作業をしている姿を見たことがない。だいいち、ここには修復に必要な機材や材料がない」
「そうっすか」
怪訝そうな表情を鳴海がする。
「どうした?」
「いや、入った時からそうなんすけど、ここ、油彩画特有の香りがするんすよ。まるで、何年も何十年も染みついてきたような」
「鳴海も感じたか」
倉橋が会話に入ってきた。
「倉橋さんもっすか。多分、桐嶋さんは普段から扱っている代物なので気にならないかもしれないっすけど、微かに香りますね」
「でもここにはなにもないぞ?」
「ですよね。なんでかなぁ」
疑問を口にした鳴海がぼんやり周りを見ると、倉橋が、寝室に入る扉の脇の壁を凝視していた。壁を見つめながら桐嶋に問う。
「桐嶋さん、あの絵の写真もってきてます?」
「写真って、例の送られてきた絵のやつか?」
「そうです。それです」
「もってきてるぞ。ちょっと待ってくれ」
ケースから写真を探しだして渡すと、倉橋は写真を壁にかざして、何かと見比べ始めた。
「この写真、ここで撮られたのかもしれません」
「なんだと!?」
立ち上がった桐嶋が倉橋に詰め寄る。
「この写真、クリムトの絵の端が写真いっぱいに写っていないじゃないですか」
「ああ、そうだな。端が額装になっている。ほんのちょっとだがな」
「見る限り木の質感なので、おれもそう思っていたんですが・・・これ、額装じゃなくてここの壁ですよ。ほら、ここの傷が一致する」
桐嶋が倉橋から写真をひったくって凝視する。
「・・・本当だ。ここの継ぎ目も一致する」
「当初、この写真の話をしたとき、なにかあるという話をしてたじゃないですか。それがおそらくこれだったんですよ。この写真は、この別荘で撮られた写真だと伝えたかったんですよ」
「まさか・・・いや、でも、そうか。そういう意味をもっていたのかもしれない。・・・待てよ?じゃあ、この絵は」
「ええ、20年以上前からここにあったのかもしれません」
その言葉に、桐嶋は必死に頭を巡らせた。
親父か?親父がずっともっていたのか?なんのために?どうやって手に入れた?なぜ修復してない?依頼品じゃないのか?なぜ?なぜ?どうして?親父はなにをしていたんだ!!
「桐嶋さん」
鳴海が奥の書架付近から遠慮がちに声をかけた。
「・・・なんだ」
「ここの書架あたりって、他になにかあるっすか?」
「いや、見た通りのものしかない。・・・そこにもなにかあるのか?」
「デイビスが、謎の人物、我々よりも直近に来てたと思われる人物の足跡がここで途切れていると」
「・・・見間違いじゃないのか」
「おれも教えてもらって確認しましたが、入口からまっすぐここにきて、ここから入口に戻ってますね」
「・・・」
その時、その入り口の扉が勢いよく開けられ、キャリーが戻ってきた。
「兄様!この家、変です!外装と内装の差がありすぎます!」
「どういうことだ?」
キャリーは書架のある壁を指さした。
「内部の奥行が少ないです!たぶん、そこの奥になにかあります!」
桐嶋が頭をかかえた。
「ちょっと待ってくれ・・・頭が追いつかない」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「みなさん、一度落ち着きましょう」
ミラーが、コーヒーの入った紙コップをテーブルに並べ始めた。
「こういう時は、話を整理して全員で共有した方がよろしいですよ。でないと、迷走して良い結果がでません」
「ああ。・・・ああ、そうだな」
桐嶋がテーブルにつくと、他の全員も思い思いの場所につく。キャリーは、当然のように桐嶋の隣に座った。
ミラーが人数分のコーヒーを渡し終えると、熱いコーヒーを飲む音だけが聞こえる無言の時間が流れた。ただ、目線だけは桐嶋に向けられている。
この場のイニシアチブを持っているのが桐嶋ということは共通認識のようだ。
半分ほど飲み終わる頃、桐嶋が口を開いた。
「まず、みんなに感謝したい。到着してから30分程度で、ここまで発見が連続するとは思いもしなかった。これはおれ一人で来ていたら到底なしえなかったことだ。ありがとう」
深々と桐嶋は頭を下げた。キャリーがなにが言いたそうに身じろぎしたが、桐嶋の次の言葉を待った。
「ここまでの状況を整理しよう。倉橋、書記を頼めるか?」
「了解しました」
ノートパソコンを準備し始める。駆動音とファンの音が室内に流れた。
「準備OKです」
「ありがとう。ミラーさんもありがとう。おかげで落ち着いた」
桐嶋は、残りのコーヒーを全部飲み干し、ここまでの情報をまとめ始めた。
A1.つい最近、何者かがこの別荘を訪れていること。
A2.その人物は、ここに来慣れている可能性が高いこと。
A3.その人物の足跡が、入り口と奥の書架を往復している。
A4.この建物の外装と見た目の奥行が一致しないこと。書架の奥がある?
A5.作業場がないのに、油彩画特有の香りが微かにすること。
A6.この別荘を使用していた目的がわからないこと。
「ここまでが物理的な別荘に関することだ。ここまではいいな」
桐嶋の問いかけに全員がうなずいたが、鳴海が手を挙げて確認した。
「言いにくいことですが、親父さんの遺体が発見された時の場所ってどこっすか?」
「ここだよ。おれが今座っているところに突っ伏していたらしい」
「・・・了解です」
桐嶋は他にないか見渡したが、他にはないようなので続けた。
「次は、例の絵に関することだ」
B1.鷺沼氏から送られてきたクリムトの絵を撮った写真が、この家屋で撮影された可能性があること。写真の端に写っている木材が、壁の傷や継ぎ目と一致していることからくる推測。
B2.その写真は画素数が荒く、20年以上前のデータを最近印刷したものと推測していること。
B3.上記二つの情報から考えると、クリムトの絵が少なくても20年以上前から別荘にあった可能性があること。
B4.絵についている傷については不明。その形と個々の大きさ、傷の左下にある指紋のサイズから子供の爪による刺し傷であると推測。
B5.額縁の裏には『Ne tradideris Aurae Noctis』(アウラ・ノクティスに渡すな)の文字が刻まれていること。
鳴海が最後の内容を確認した。
「それが藤堂さんから共有されてきた情報のやつっすね」
「そうだ。倉橋にもいってるよな?」
「はい、大丈夫です」
ノートパソコンに入力しながらうなずいた。
「アウラ・ノクティスの名前がでてきたのであれば、組織に関する概要も共有した方が良いように思いますが」
「そうだな、キャリー。確かにそうだ。説明を頼めるか?」
「はい。喜んで」
C1.神聖ローマ帝国時代から歴史の裏で美術品取引をおこなっている秘密結社。
C2.盗難品や盗掘品を犯罪者から仕入れたり、来歴が怪しい美術品を売りたい資産家から購入し、修復・修繕して高値で顧客となっている世界中の富裕層に販売している組織。
C3.ナチスがらみの美術品をもっとも多く売買している組織でもある。
C4.目的を達するためなら殺人をもいとわない。
C5.2018年頃から組織に関係していたと思われる画商や絵画修復家が多数殺害されている。
「2018年頃からというのはなにか理由が?」
倉橋が疑問を投げかけた。
「スイスの銀行機密法の改正によるものだと推測しています。口座情報に紐づいた人々の口封じかと」
「大胆だなあ」
「ありがとうキャリー。他に質問や意見はあるだろうか?」
桐嶋が全員を見渡すが追加すべきことはなさそうだ。
「現在、午後4時すぎ。場所的にもそろそろ陽が陰り始める頃合いだ。そこでまずCに関する危険性を考えたいと思う。エドガー、ここまでの道中で尾行はなかったか?」
勝手にリーダー格と思っているエドガーに確認と意見を求めた。
「尾行はありませんが、アウラ・ノクティスに行動をキャッチされているかの危険性も現在はわかりません。ですが、用心するに越したことはないでしょう」
落ち着いた重低音の声は、それだけで聞くものに安心感を与える。エドガーは言葉をつづけた。
「桐嶋様の懸念は、今晩、ここに宿泊するとした場合のことでしょうか?」
言外の意図を察してもらった桐嶋は微かに笑みをうかべた。
「その通りだ」
「仮に敵がRPG等の兵器で攻撃してくるのであれば話は別ですが、携行銃での襲撃であれば街中よりはここの方が対処しやすいです。3人で監視をローテーションでおこなえば問題ないと考えますが、暗視装備が欲しいですね」
「暗視装備?あるっすよ」
全員の目が鳴海にむく。
「こんなこともあろうかと準備してきたっす」
鳴海は持参したボストンバッグから、暗視ゴーグルと双眼鏡タイプのデジタル暗視スコープを取り出した。
「なんでそんなのもってんだよ」
「うちの仕事はいろいろあるっすから」
倉橋のあきれ声と対称的に鳴海の声は楽しそうだ。
「それがあれば監視は万全の態勢でおこなえます。問題ありません」
「わかった。ありがとう」
こちら側の攻撃装備には言及しないか。と、鳴海は思ったが、こちらも口にはださなかった。
さきほどデイビスがかがんだ時、腰にちらっと見えたのは、銃把の形からおそらくグロックだ。巧妙に隠してはいるが、3人ともどこかに装備しているのだろう。暗黙の了解というやつだ。
「では、ここから3人には監視と警護を任せたい。ミラーには食事もお願いしたいが問題ないだろうか」
「問題ありません」
「それではよろしく頼む」
「了解」
エドガーたち3人は席を立ち、今後の相談を始める。ここまできたら信頼するしかない。桐嶋はいくつかの懸念材料を振り払った。
「キャリー。君に相談もせず勝手に彼らを動かしてすまん」
「兄様。私の護衛は兄様の護衛でもあるのです。どうかご自由に」
「ありがとう」
崇拝に近い眼差しをしているキャリーの言葉にはいろいろな意味がありそうだが、気づいたのは鳴海だけだった。
「では、ここからはこの4人で進める。まず、Bに関してだが、これは倉橋の推測通りだろうと考える。個人的に追及したい点はあるが、現物がここにない以上後回しとしよう。つまり、現状で優先的に確認するのはAとなるがそれでいいか?」
桐嶋の言葉に3人はうなずいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「キャリー。外装と内装の差異について説明してくれるか?簡単なのでいいから見取り図も描いてくれるとうれしい」
「わかりました」
キャリーは手持ちのメモ帳に見取り図を描き始める。空間認識能力が高いのか、簡単に描いているはずなのに、原寸との縮尺関係がサイズ的に近いように感じる。
「ありがとう。つまり君が言っているのはここということか」
桐嶋の指が書架の裏を指さした。そこには奥行1mにも満たない空間があると仮定してある。
「そうです。外壁の厚さ、書架が備え付けられている壁の厚さ。どちらとも推測した厚さですが、そこになにかがあることだけは間違いないと思います」
見取り図を描くことによってキャリー自身も確信がもてたらしい。言葉に力がこもる。
「ログハウスタイプの構造上、意図的に造らなければこのような空間は生まれません」
「確かにそうだな。しかし、なんのための空間なのかわからんなぁ」
「桐嶋さん、もうぶち破っちまいましょうよ。確認するだけならそれが簡単っす」
「いや、鳴海、それはやめておいた方がいいな」
「なぜっすか?倉橋さん」
「ウインストンさんの見取り図で気づいたが、たぶんこの壁、いや書架も含めてかもしれないが、耐力壁の可能性がある」
「耐力壁?」
「ああ、柱や梁と一体となって建物の構造的安定性を確保している壁のことだ。この建物、ログハウスっぽい造りだが、和洋折衷といった造りになっているように思える。本職が建てたものではないような感じだ。だとすれば」
倉橋がなにかを思い出したように一拍おいた。それを鳴海がうながす。
「なんすか?」
「構造計算が狂った建物はもろいぞ?一発でぺしゃんこになってもおかしくない」
「・・・それは勘弁してほしいっすね」
「だからやめとけ」
「うっす」
キャリーが倉橋の言葉になにかを感じ確認した。
「経験が?」
「ええ。以前、解体中の日本家屋で絵画が発見されたので確認してほしいと依頼があって現地調査した時のことです。解体業者が壁に一発ハンマーを入れた途端に建物が倒壊しました。誰も怪我人がでなくて良かったでのすが、その時から構造を気にするようになりました」
「それは大変でしたね」
「それはもう。教訓だと思って大事にするようにはしてます。桐嶋さん」
「なんだ?」
「この場所。ここに例の絵が保管されていたとするとしっくりきませんか?」
桐嶋があごに手をあてて考える。
「それは思った。だがな、空間的に狭いし、通気性はなさそうだし、外壁に近くて温度変化が激しそうだしで、絵画の保管に適しているとはとても思えない場所なのよな」
「それはそうですね」
3人が考え込みそうになった時、鳴海が勢いよく立ち上がった。
「考えるだけでは埒が明かないっすよ。とりあえず書架が動くか試してみませんか?」
「そうだな。そうしよう」
4人が書架に近づき、押したり引いたりしてみるがびくともしない。
桐嶋が書架を上から下まで見渡す。床から天井まですべてが書架になっており、全部に本が入っていれば大量だが、天井近くにはまばらにしかない。
183cmの桐嶋の身長ならば届くが168cmの鳴海には難しそうだ。
ざっと確認すると、意外にも美術関係ではない本が多い。しかも古い。手に取って見てみると1950年発行の本まである。
「誰の本なんだ?」
桐嶋が疑問に思う。桐嶋の記憶にある父親には本を読んでいた姿がない。これだけの数の本を収集したとは思えないのだ。しかも父親の生まれは1960年のはず。いくつかの本の発行年を見てみたが、1985年以降の本が見当たらない。
「おれが生まれる1年前か」
そうつぶやいた時、桐嶋の目に1冊の本が留まった。茶色い革の装丁に金字で『Grimms Märchen』と題名が書いてある。
「グリム童話か。懐かしいな」
グリム童話とは、19世紀初頭にドイツのグリム兄弟(ヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリム)によって収集・編集された、ドイツとその周辺地域に伝わる民話集だ。口伝えで広まっていた昔話を書き言葉で記録したもので、「赤ずきん」「白雪姫」「シンデレラ」「ヘンゼルとグレーテル」など、世界中で愛される有名なお話が多数含まれている。
アカデミー入学以降もドイツ語の学習を続ける桐嶋には、かっこうの教本だった。何回読んだかわからないほどだ。
なにげなく取り出そうとするが、なにかが引っかかって取り出せない。
「Buch mit Schließeかな」
Buch mit Schließeとは、留め具のついた本のことである。古い本だとついていることがある。
上下にゆすったりしながら強めに引いたらようやくとれた。
その時、カタンという音ともに書架の一区画が動いた。
「桐嶋さん!そこ!謎人物の足跡があったとこっすよ!」
皆が驚き集まってきた。
本があったあたりを見ると、木の棒らしきものが見える。これが本の留め具にかかっていたのだ。
ゆっくり書架を引くと壁とともに簡素な扉が現れた。
「開けるぞ」
「待ってください!罠の可能性もあるので私が開けます!」
そう言うと取っ手にミラーが取り付き、デイビスが壁に背をつけて確認する。エドガーが扉の斜め位置につき、桐嶋たち4人をガードした。
全員が配置についたことを確認しミラーが宣言した。
「開けます」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
勢いよく扉を開けると、油彩画の香りが周囲に広がった。
そこには予想通り奥行1m程度の空間が広がっていた。しかし、他にはなにもなかった。
「なにもない?」
「ないですね・・・」
「ないなあ」
「ないっすね」
ミラーが内部の安全を確認してから4人がのぞき込み、異口同音に感想を発する。
「じゃあ、あの油彩画の香りはどこから・・・」
疑問を口にした桐嶋の目線の先に、床をなでながら移動する鳴海の姿があった。
「鳴海?」
「知人の国税庁職員が言っていた言葉ですが『見つけられたくないものを隠す場所は下』だそうですよ。ここも一緒っしょ・・・ほら、あった」
指で叩くと、ある部分から明らかに音が変わった。空洞があるのは間違いなさそうだ。
「書架にバキュームリフターが置いてあったので誰かもってきてくれません?」
バキュームリフターは、強力な吸盤で平らな表面に吸着し、重い物でも持ち上げられる機材のことだ。倉橋が持ってきた。
「ほい」
「あざっす」
鳴海はバキュームリフターを床にセットすると持ち上げた。約1m四方の床があった先には空洞があり、梯子が備え付けられてあった。鳴海は空洞に顏を入れて確認した。
「けっこう深いっすね。空気の流れも感じます。油彩画の香りも。ちょっと見てくるっす」
鳴海はそう言うと、ポケットから万年筆型のライトを取り出した。スイッチを入れると、小型のわりには強力な光が奥を照らした。
「なにかあったら大声を出しますので待機よろしくっす」
「ああ、気をつけてな」
「はい」
鳴海は口にライトをくわえ、梯子をゆっくりと降りて行った。
桐嶋が空洞の先を見ていると、数分後に奥の方で明かりが灯った。
「大丈夫っす。桐嶋さん、降りてきてもらっていいっすか」
「今行く」
桐嶋が降りようとした時、不安そうなキャリーと目が合った。
「鳴海が確認してくれているから問題ないさ」
「・・・はい、兄様、気を付けて」
梯子はしっかりした造りだった。木材の梯子だが、ところどころに補強が入っておりびくともしない。
梯子の先は、石材の床だ。
電気がきているのだろう。照明の明かりがまぶしい。
八畳間程度の広さがあり、壁はレンガと漆喰でできていた。これなら調湿もあり、絵画の保管もできるだろう。
しかし、見渡しても絵は1枚もない。あるのは、キャンパス用と思われる麻布といくつかの木枠。イーゼルが2つ。錆びたノコギリと同じく錆びた釘、ハンマーが一つ。あとは、油彩画用の道具がそこかしこに置いてあるだけだ。
「桐嶋さん、これ」
鳴海が指さした先には、木箱があり、その上には1冊の本が置いてあった。
見ると表面に『My Daily』と記されてある。
「日記か?」
桐嶋が手に取って確認してみると、中に書かれてある文字はかなりのクセ字で、英語とドイツ語が混在しているようだ。木箱も確認したが中は空だった。
「あとで確認する。鳴海、ここの写真を撮っておいてくれるか?」
「了解っす」
請け負った鳴海はスマホで次々と撮影していく。気になるのか、木材は角度を変えて何枚も撮っていた。
「これ、少し持って行っていいっすかね」
麻布を手にもっている。
「かまわんさ」
「うっす」
鳴海は5cm四方程度に麻布を切り取りポケットに入れた。
「じゃあ、戻るか」
「そうっすね。桐嶋さん、先に行ってください。おれは照明消してから行きます」
鳴海の親指の先には照明のスイッチがあった。
「わかった。先に行くぞ」
桐嶋が上に戻るとほっとした表情のキャリーが待っていた。
「兄様。それは?」
「ああ、誰かの日記だと思う。親父に関係した誰かだろうが、なかなかのクセ字で読むには時間がかかりそうだ」
桐嶋の後ろには鳴海が続く。
「倉橋さん、下で撮ったデータを送りましたので整理をお願いしていいっすか?説明します」
「承知した。準備する」
4人はテーブルに戻り、思い思いの作業を始めた。外を見ると夕日の色が濃くなっており影が長くなっている。桐嶋が感じていたよりも時間はすぎていたようだ。
エドガーとデイビスは周囲を警戒し、ミラーは夕食の準備を始めている。
「さて、こいつか」
桐嶋は日記帳を開いた。キャリーは、桐嶋のすぐ後ろから一緒に見ているようだ。
「名前があるな。エリアス・ブラウ・・・?誰だ?」
良く見ると、ブラウの文字の下に、ファミリーネームがいくつか記載されている。
「ローゼンタール・・・もう一つあるな」
桐嶋とキャリーは思わず顏を見合わせた。
「キ・・・リ・・・シ・・・マ」
(第8話 終)
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