第7話「動き出す運命」

「まだこんな時間か」


 月曜、午前5時。


 桐嶋は、いつもよりもはるかに早い時間に目が覚めた。


 昨日は、これまでの数日間が嘘だったかのように安楽な時間が過ぎ去った。藤堂からも倉橋からも一切連絡がなく、鳴海から『赤坂署の動きなし。以上』という業務メールがきただけだった。


 桐嶋には、『動きなし』ということが逆に恐ろしくも感じられた。


 本当に動きがまったくないのか、なんらかの事態が鳴海に察知されることなく動いているのか、それとも実はすでにこの場所が露呈し、十重二十重に囲まれているということだってありうる。動きがあれば、それに対処すればいいだけだが、なにもないというのはもどかしいものだと嘆息した。


 それとは別に、昨日判明したこともある。といっても、『Ne tradideris Aurae Noctis』の文字の意味がなんとなくわかったということくらいだ。


 最初、翻訳サイトに入れてみたところ、リトアニア語と自動検出され「ノン・トレーダー・アウラ・ノクティス」と、微妙な感じのカタカナ読みが表示されただけだった。


 次に、生成AIに投げてみたら「夜風に屈するな」という、よくわからない言葉が返ってきた。解説もだしてくれていたので内容を確認すると、


『Ne』・・・否定の助詞で、「~しない」という意味


『tradideris』・・・「降伏する」または「引き渡す」を意味する動詞


『Aurae』・・・「Aura」の属格で、「そよ風」や「空気」という意味


『Noctis』・・・「夜」を意味する「Nox」の属格


だそうだ。この分割された四つの単語を組み合わせて意訳すると「夜風に屈するな」となるわけだ。


「うまく訳すものだな」


 桐嶋は妙な感心をしていた。何度も確認したので、写し間違いはないはずだ。


「学生の時、ラテン語の授業を受けておけばよかった」


 今更言っても仕方がないことを考え始める。必修ではないからと外したのは自分なので後の祭りである。最低限のことはわかったので、そういうものだと自分を納得させて昨日は終了した。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 さて、本日は月曜。ウインストン女史との面会日である。桐嶋は、記憶と予定表を照合し再確認した。


 時計を何度見ても午前5時。


 いつもは7時くらいに、目覚ましの音で起きることが多いため、いつもより2時間も早い。外はもう朝日が照りつけているはずだが、地下室にいるためうかがい知ることはできない。


「緊張しているのか?それとも楽しみなのか?」


 自分の気持ちがわからないままであったが、眠気は完全になくなってしまっていたので、桐嶋はシャワーを浴びてすっきりした後に身支度を開始することにした。


 午前10時過ぎ。


 朝食も終え、コーヒーの香りを楽しんでいると倉橋から着信があった。


「おはようございます。今日は、午後1時半頃にお迎えに参上すればいいですか?」


「早いくらいだが、そのくらいの時間でよろしく頼む」


「わかりました。その後、なにかありました?」


「・・・いや、特にはないかな」


「・・・なにかあったんじゃ?」


「なにもないって。じゃあ、時間になったらよろしくな」


 桐嶋はあわてないように注意しながら電話をきった。


「勘のいいやつだ」


 例のラテン語については、今のところ三人に話すつもりはない。


 絵自体を財団に預けるならば、それに付随する情報は財団にさえ提供すればいいだろうと桐嶋は考えていた。


「あの部分の写真も撮っておくか」


 桐嶋は保管庫に行き、絵の写真を撮り始めた。


 昨日の内に撮ってはいたのだが、今日の日付での写真の方がいいだろうと思い直し、何枚も撮っていく。


 全体を角度を変えて何枚も。


 各部の接写も。


 傷や指紋は念入りに。


 裏のラテン語は写真にしてもわかりにくかったため、拡大したうえで単語ごとに撮った。


 そして撮った写真をすべて確認し、ピンボケしているものや写りが悪かったデータを削除して整理していく。


 午後1時半。倉橋が迎えにきた。


 駐車場に行き車を見るといつものアルファロメオではない。


 トヨタのヤリス。確かにこれならかなりの台数が入っているし目立たないだろう。リア部分にはカーシェアをしている某社のマークが見えた。


「ちょうどシルバーのがあったのでこれにしました。白や黒よりも、人の印象に残りにくい色ですからね、ちょうど良いと思います」


「汚れもな」


「そうですね」


 倉橋は笑いながら車に乗り込んだ。桐嶋は助手席ではなく後部座席に乗り込み、体を横に倒した。こうすれば外からは見えにくい。


「では行きます」


 二人の乗った車は、先日打ち合わせしたルートを通り、何事もなく砧公園にたどりついた。


 待ち合わせの時間にはだいぶ早いが、遠目で確認するとすでにそれらしい車がいた。


「まいったな。すでに目立ってるじゃないか」


 緑の多い公園と住宅街の間を走る道路に黒く大きな車が止まっている。外交官ナンバーのついた車は他を圧していた。


「怪しい車にしか見えませんよ」


「だよなぁ」


 二人でためいきをつく。


「よし、倉橋。ここでいい。ここで降ろしてくれ」


「え?ここでですか?」


「ここなら木陰に隠れて、防犯カメラにも最小限しか映らずにあっちの車につけるさ。あとな、あそこまで目立っている車に横付けするのはリスキーすぎだ」


「あー・・・そうですね。そうします」


「ここまでありがとな」


「いえいえ。気を付けて」


 桐嶋は一つ手をふると車から滑り降りた。扉がしまったのを確認した倉橋は車をスタートさせ、大使館の車とは逆の道路に走っていく。


 その姿を確認した桐嶋は行動を開始した。


「約200mくらいか」


 今いるあたりは木立が多く、防犯カメラから死角になりそうな箇所が多数存在していた。そこをたどるように移動していくと、思ったよりは楽についた。


 車の扉が開き、一人の女性が降り立つ。


「桐嶋様ですか?」


「そうだ」


「お乗りください」


 後部座席の扉が開けられた。桐嶋は、最後にもう一度周囲を確認してから乗り込む。


 乗車後に車内を確認すると、後部座席側の窓は完全にスモークシールドだった。これなら普通に乗っていられるな。桐嶋は少し安心しながら座席に座りなおした。


 意外だったのは、車種がトヨタのシエナだったことだ。イメージ的にアメ車だとばかり思っていた桐嶋としては「これでいいんだよな」と再確認せずにはいられなかった。


 桐嶋を乗せた車は世田谷通りを真っすぐ渋谷方面に進んでいる。アメリカ大使館は赤坂にあるため、ここからなら一本道のようなものだ。


 渋谷駅を通りすぎ、そのまま表参道方面に向かうものと思っていたが、明治通りを左折した。桐嶋は疑問に思い、同乗の女性に確認した。


「大使館は赤坂では?」


「大使館ではなく、新宿の京王プラザホテルにお連れするよう指示を受けております」


「え?なぜ?」


「私にはわかりかねます」


 再び、車内には沈黙が流れた。


 財団、ないしはウインストン女史の当宿場がそちらだということなのかはわからないが、大使館で会うのは不都合なのだろう。


 ふと、桐嶋はこの車に乗り込んだ時のことを思い出した。


 この女性は、明らかに写真と思しきもので桐嶋を確認してから声をかけている。つまり、事前になんらかの手段で写真を入手していたということだ。


『なんのために。どうやって・・・不測の事態も考えていた方がいいか』


 桐嶋は居住まいをただした。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 やがて車はホテルの地下駐車場に入り、奥まったところで止まった。扉が開けられ、桐嶋は案内されるままにエレベーターに乗る。


 41階でエレベーターが止まると、女性に先導された形で後ろについていった。目的地と思われる部屋の前には男性が二人。一人は桐嶋と似たような背格好だが、もう一人は2mほどの巨躯だった。


「ターミネーター・・・」


 思わず桐嶋の口から洩れた言葉に女性は反応したらしい。笑いをこらえているのかもしれない。体が小刻みに揺れている。


 その揺れが収まったころ、部屋の前に女性と桐嶋はたどりついた。


 ノックが3回。


 待ちかねていたかのように促す言葉が重なった。


 扉の先には一人の女性が立って出迎えてくれた。


 鳴海の言っていた通りだ。


 少しウェーブのかかった蜂蜜色に近いロングな金髪。ぴったりとしたスーツとタイトスカートが体のラインを際立たせている。エメラルドグリーンの瞳と大きな目。控えめなそばかす顏は少し幼いような印象を見るものにあたえる。


 どことなく、妻ソフィアに似ているような顔立ちだ。


「桐嶋様、ようやくお会いすることができました。どうぞ、こちらへ」


 日本語で長椅子に座るよう言われ、桐嶋は躊躇することもなく座った。ウインストン女史は正対するように向かい側の椅子に座る。それに合わせて扉が閉められた。


 室内には桐嶋とウインストン女史の二人だけ。


 桐嶋が口を開く。


「はじめまして、と言いたいところですが不用心すぎませんか?」


「いいえ、二人だけでお話をしたくて、大使館ではなくこちらに来ていただいたのです」


「そうでしたか」


 二人の間には豪奢なマホガニーの大ぶりなテーブルが一つ。


 仮に桐嶋が乗り越えようとしても、女史にたどり着くまでの間に、外にいる三人に取り押さえられそうな雰囲気がある。逆にそのような自信があるからこそ、三人は外で待機しているのだろう。


「どうかされました?」


 桐嶋は彼女に目線を向けたまま考え事をしていたらしい。ウインストン女史の顏が少し赤らんでいる。


「いえ、優秀な護衛なのだろうと思いまして」


「はい。今回、来日するにあたって父様がつけてくれた護衛ですので」


 一財団の調査員に護衛が三人もつくことはない。父親がつけてくれたにしても過剰な護衛といえる。過保護にしてもやりすぎだと桐嶋は思ったが、もし別な肩書や立場があれば話は違う。


「・・・失礼ですが、モニュメンツ・メン財団の調査員という肩書であっていますよね?」


「はい、鳴海様にお渡しさせていただいた名刺の通りです。ただ・・・」


「ただ?」


「父様が大統領補佐官を拝命している関係で・・・」


「大統領補佐官!?担当は?」


「国家安全保障問題担当です」


 ウインストン女史は、恥ずかしそうに、伏目がちになりながらそう言った。


 『VIP中のVIPじゃないか!!』桐嶋は内心で舌を巻いた。


 アメリカの大統領補佐官は、大統領が直接任命する。議会の承認もいらない。特に国家安全保障問題担当ともなれば大統領の側近といっていい。


「ようやく理解しましたよ。鳴海から聞いていたパーティーの様子でも、大使があなたに対する態度が妙だと思っていました」


「恥ずかしいです・・・」


 彼女は顏を真っ赤にしながらもじもじしている。その仕草が、見た目以上に幼いものに感じた。そしてその姿は、やはり妻の記憶と重なる。彼女は感情が豊かな人で、表情や態度によくでていた。


「このようなことを詮索するのはおかしいかもしれませんが・・・お父様以外のご家族は」


 桐嶋の口調と表情が疑念に変わっていることに彼女は気づいたようだ。口が少し開き、驚いた表情になる。


「母様と兄と私です・・・」


 そう言いながら、おずおずと両手で頭に近い両サイドの髪を掴む。おかげでツインテールのような髪型になった。彼女がなぜそうしたのか桐嶋はわからなかったが、その姿は桐嶋の記憶を刺激した。


 ウィーンのシュテファン大聖堂。


 桐嶋が懇意にしていた教授が手配してくれた結婚式の舞台。


 華美でもなく高価でもないが、美しいウェディングドレスをまとったソフィア。


 その周りを、喜びの感情を爆発させながらはしゃぎ回る金髪の女の子。


 はしゃぎすぎたせいでまとめていた髪型がくずれ、兄から怒られている。崩れた髪型はツインテールになっていた。


 桐嶋は助け船をだすつもりで声をかけた。


『大丈夫。その髪型もかわいいよ』


 彼女は真っ赤な顔をぼーっとしながら桐嶋の顏を見つめていた。


 結果、結婚式の間、女の子はずっとツインテールのままで参列していた。


「キャリー・・・?」


 桐嶋はまさかという気持ちで尋ねた。言葉は自然と英語に変わっていた。


 ウインストン女史の目から大粒の涙がこぼれる。


「・・・そう・・・です。ようやく・・・ようやく・・・」


 キャロライン・ベル・ウインストン。


 彼女は、桐嶋の妻ソフィアの従弟だった。


 最後に会ったのは、妻が亡くなった時。


 桐嶋は、いまだに妻の死亡原因は自分にあるという罪の意識にさいなまれている。


 当時、桐嶋はAIC(米国保存修復研究所)に勤めており、その日は意見交換のためにナショナル・ギャラリーに行っていた時だった。会合が終わり外にでるとあいにくの雨。かなり強い雨で、遠くがけぶって見えるような強さだった。


 桐嶋は妻に電話をかけ、車で迎えに来てくれるよう軽い気持ちでお願いした。


 ほどなくして、それらしい車が見えた。桐嶋が合図のために手を振ろうとした時、惨劇は起こった。


 信号を無視した酔っ払いの運転する車が、ノーブレーキでソフィアの運転する車に突っ込んだのだ。しかも運転席側に。


 ソフィアは即死。


 奇跡的に外傷は少なかった。だからこそ、余計に桐嶋はその死を信じることができなかった。


 でかけていなければ。電話をしなければ。すべてにおいて桐嶋には後悔しかなかった。


 ソフィアが死ぬ原因を作ったのは自分だ。桐嶋は7年たった今でもそう思っている。


 アメリカでは土葬が主流だ。現在は火葬も多くなっているが、7年前は土葬が多かった。ソフィアも土葬だった。葬儀の途中は不思議と涙はでなかったが、最後に土がかけられた瞬間、こみあげるように零れ落ちた涙が土に吸い込まれたことを覚えている。


 キャリーと最後には会ったのはたぶんその時だ。


 ただ、ソフィア以外に意識がいっていなかった桐嶋に、その記憶はほとんどない。


 死の原因を作ったのは自分という気持ちが強く、親族に会わせる顏がないと思っていたからもある。


 その後、2年間はキャリーたちと会っていない。


 ソフィアの叔母(キャリーの母親)が何度か連絡をしてくれていたが桐嶋は頑なに固辞していた。


 そして、5年前、父親の死とともに、桐嶋はアメリカから逃げ出すように帰国した。


 桐嶋はキャリーが泣き止むまで待っていた。


 なぜ泣いたのかはわからないが、おそらくいろいろな思いがあるのだろう。ソフィアのことを「ソフィ姉様」と呼んですごく慕っていたから、桐嶋の姿を見て思い出したのかもしれない。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「落ち着いたかい?」


 桐嶋はハンカチを差し出す。キャリーはそれを大事そうに受け取った。


「ええ・・・」


 ハンカチが汚れることを気にしたのかもしれない。桐嶋がうなずいたのを確認してから使い始めた。


 それから二人はお互いの年月を埋めるかのように話をした。主にキャリーが、だが。


 彼女は控え目に言って天才の部類に入る。


 15歳でスキップでジョージタウン大学に入学し、その後、博士号もとったらしい。博士号の件を桐嶋は知らなかったが、どうやら桐嶋が日本に戻ってからのようだ。


 卒業後は政府機関で働いていたが、2年前に財団にスカウトされた。これは本人の希望もあったようだ。


 アメリカでは、彼女のような優秀な人材は、データサイエンティスト、政策アナリスト、エグゼクティブディレクターといった職種や公共的な職種につくことが多い。


 桐嶋は、なぜ財団に入ったのか聞いたがはっきりとは教えてくれなかった。


 兄のクリストファーは、NSC(国家安全保障会議)のスタッフとして、父親を補佐しているとのこと。


 クリストファーは8歳下のキャリーを溺愛していた。護衛を三人もつけたのも彼だろう。


 キャリーは桐嶋のことも聞きたがった。日本に戻ってからの5年間のこと。あまり話すこともなかったが、悠彩堂での日常のことなどを話した。


 そして桐嶋は今日の本来の目的のことを話そうか迷い始めていた。


 タフな交渉になるだろうと予想し、かなり気合いを入れていたはずだが、相手がソフィアの従弟だとわかったため躊躇したのだ。しかし、そのことを話さなければ、なんのために藤堂、倉橋、鳴海に尽力してもらったのかわからなくなる。


 桐嶋は意を決して本題に入ることにした。


「キャリー、今日は君に相談したいことがあってやってきたんだ」


 彼女の顏が更に明るくなる。


「悠斗兄様の相談!?なに!?なんでも言って!私にできることならなんでもするから!」


 ものすごい食いつきだ。他の人にそんなこと言っちゃいけないよ?と桐嶋は苦言を呈しながらスマホの画面を彼女に見せた。


「これはクリムト?」


 キャリーの表情が一気に仕事の顏に転じた。声色まで少し変わっている。


「ああ、おれの見立てでは真作だ。そしてこの絵のおかげで面倒なことになっている」


「兄様、これをどこで」


 桐嶋はここ数日のことを彼女に説明した。


 鷺沼からこの絵の修復依頼を受けたこと。


 鷺沼が亡くなったこと。それは毒殺の可能性があること。


 そのことで桐嶋自身が警察から疑われていること。


 桐嶋の父親と鷺沼の死体検案書における一致点については伝えるか迷ったが全部話すことにした。つまり、ヘレブリンとタキシンの検出された成分量がほぼ一緒だったこと。


 この絵がナチスの略奪品ではないかと疑っていること。


 そして日本にずっとあった可能性があること。


 結局、包み隠さず話したと思う。抜けはないと思うが原稿を作ったわけではないのでわからない。もしあったら都度説明すればいいだろうと、桐嶋は、少し心の余裕もでてきていた。


 彼女はスマホの画面と桐嶋の顏を交互に見つめながら話を聞いていた。


 話が終わった頃、彼女の指の動きも止まった。


 キャリーが見つめていたのは、あのよくわからないラテン語の画面だった。


「Aura Noctis(アウラ・ノクティス)・・・」


「あれ?そうだったか?Aurae Noctisだったと思うが」


「いえ、アウラ・ノクティスとは、とある組織の名前です。イヴリン!」


 キャリーの声に反応して、先ほど案内してくれた女性が入室してきた。


「財団のパソコンが入ったケースをお願い」


「かしこまりました」


 打てば響くような即答だ。イヴリンと呼ばれた女性の直立した姿勢もあいまって小気味よく感じる。


「キャリー、Aura Noctisってなんだ?」


 桐嶋は尋ねた。キャリーはイヴリンが持ってきてくれたノートパソコンを起動させながら答える。


「いわゆる裏の世界で美術品売買をおこなっている組織です。彼らは、ナチスがらみの美術品をもっとも多く売買し、さらに隠し持っていると財団では考えています」


 キャリーは一瞬言いよどんだが言葉を続けた。


「一説には、神聖ローマ帝国時代から続いている秘密結社だとか。イチイの木とクリスマスローズをモチーフにした紋章まで持っています」


 桐嶋の体がかすかに揺れた。


「そうです。ヘレブリンとタキシン。彼らは、その紋章に使用している植物から抽出した成分が、死後も残るように調整した毒薬を使います。毒薬の名は『ソムヌス』。ラテン語で『眠り』という意味をもちます」


「じゃあ、親父と鷺沼氏は」


「ええ、残念ながら、アウラ・ノクティスに殺害された可能性が高いです。見てください。財団が調査した資料の抜粋ですが、近年、アウラ・ノクティスの手にかかったと思われる犠牲者です」


 キャリーが桐嶋に向けたノートパソコンの画面には、犠牲者の死体検案書らしき一覧が表示されていた。検出成分には、もはや見慣れた数字が、ほぼ同じ値で並んでいる。


「犠牲者にほぼ共通することは、画商か絵画修復家です。私たちの調査では、2018年頃からアウラ・ノクティスが世界中で活発に動いていることがわかりました。そして、時期を同じくして、裏の世界での美術品の取引の実態がほぼわからなくなってきたのです。これまでよりも巧妙な手段で取引をおこなうようになったのか、それとも取引自体の規模を縮小したのか」


「2018年?」


「2015年、スイスとEUの間で協定が結ばれ、EU諸国の顧客に対する銀行機密が事実上終結しました。そして、2018年から両国居住者の口座情報が自動交換されることになりました。これによって、銀行口座を介した取引がすべて数字として残り、EUでも確認できるようになったのです。そのことから考えるに、アウラ・ノクティスは銀行口座の取引情報に紐づく末端の構成員を排除しているのだと考えられます」


「まさか!」


「・・・残念ながら・・・」


 桐嶋の驚きと義憤があふれかえるとともに、キャリーの表情が沈痛に変わっていく。配慮が足りない言い方をしてしまったと後悔していた。


 沈黙が流れた。


 先に口を開いたのは桐嶋だった。


「おれは、そんな怪しい金のおかげで生きてきたというわけか・・・」


「兄様・・・」


 桐嶋は子供の頃の光景を思い出そうとしたが、絵画修復作業をしている父親の背中しか鮮明に思い出せなかった。だが、キャリーの話を前提にして考えてみると不審な点はたくさんあることに気が付いた。


 店内にあった絵や額は売れていないのに、金はどこからきていたのか。店に普通の客がくることなんて年に数回あればいい方だ。


 記憶の中の父親が修復していた絵は、多くても1年に2枚程度だ。通常の修復報酬額で考えれば、それで1年なんか暮らせない。ものによっては、顔料代で足が出てもおかしくない。だが、高額な、しかも裏のある絵画の修復費用となれば話は別だ。今回のクリムトの絵の修復代金がそうであったように。


「結局、親子で似たようなことしているのかもしれんな」


 自虐するような言い方をした桐嶋だったが、考えを巡らす内に気づいたことがあった。


「親父が亡くなったのは岩手の別荘だ。仮にアウラ・ノクティスに殺されたとすると、あの辺鄙な場所までアウラ・ノクティス関係者がわざわざ親父を殺しに来たということだ。なぜ?東京にいる時に実行した方が楽だしわかりにくいはずなのに。あの場所で殺さなければならない理由があったのか。それとも、あの場所で殺すにたる理由ができたのだろうか」


「お父様が亡くなられてから、その別荘には?」


「最後に訪れたのは2年前だが、その時は軽く掃除をして帰ってきてしまった。1日も滞在していない。その前は5年前だ。親父の遺品かなにかでもあればと思って行ったが、結局あの時も後片付けくらいしかしていない」


「兄様、別荘で確認したいですか?」


「それはな。というか、キャリーの話を聞いたからか、尚更、現地で確認しないといけない気分になった」


「行きましょうか、岩手」


 キャリーは楽しそうな表情に変わりつつあった。いや、楽しそうな表情にならないよう注意しているという方が適切かもしれない。


 桐嶋は残念がるようにかぶりをふった。


「先ほども説明したように、おれは警察にマークされていてうかつには動けない身分だ。そんな簡単には行けないさ」


「警察だけだったら大丈夫です。行けますよ」


 こともなげなキャリーの言葉は、桐嶋を驚かせるに充分だった。


「警察が兄様を付け狙っているのは、鷺沼氏に関する唯一の接触者だからでしょう?つまり、殺害の現場での目撃証言やアリバイ等の裏付けもなにもないから、任意の協力者という立場にしかもっていけなかったわけです。だったら、こちらでアリバイと理由を作りましょう」


「・・・話が見えないんだが」


「鷺沼氏が殺害されたと予測している日、兄様はアメリカ大使館で、大使に対して絵画に関するレクチャーをしていたことにしましょう。そして、警察で事情聴取を受けた日から自宅に帰っていない件については、ずっとここにいたことにすればいいのです。ちょうど、私が来日した日と一致しますので。加えて、警察関係者に、アウラ・ノクティスによる殺害の可能性と、それを裏付ける検出成分の一致、つまりさきほど見ていただいた一覧を善意の情報提供という形で提示すればいいのです」


 相手が行動を起こす前に、こちらにとって都合の良い情報を送り付けて上書きしてしまえばいい。キャリーはそう言っているのである。


「キャリー待って。今の話ならば警察は確かにおれに対して動く理由はなくなる。でも、ほとんどウソの話だろ。しかもアリバイを確認する対象がアメリカ大使じゃ話が大きすぎる」


「大丈夫です。現駐日大使は、お父様の古い友人です。というより、お父様が推薦した方です。そのくらいの便宜は図ってくれます。なんなら、お父様に口添えしてもらえば二つ返事でしょう」


 桐嶋は開いた口がふさがらなかった。


「このホテルに逗留していたことにする話も問題ありません。先ほど、こちらの部屋に来ていただいたことでおわかりでしょうが、地下駐車場からここまで誰にも会わなかったでしょう?念のため、支配人には話を通しておきましょう。ここは、財団でも常用していますし、私たち一家が来日した際にもよく使うホテルです。私の大事な・・・・・・・・・従兄が同宿しているのでよしなに、とでも言っておけば彼は理解してくれます」


 キャリーは途中言いよどんだが、最後は一気にまくしたてた。


 桐嶋はキャリーの表情と口調から、反対しても無駄なことを悟った。


「・・・わかった。好意に甘えよう。正直、助かることだしな」


「兄様のためなら!」


 瞳が輝いているキャリーに、桐嶋は完全に押されていた。


「でも、一つだけ問題が」


「ん?」


「このお話を、日本の警察にどのように情報提供しようかと」


「ああ、そうだな。確かにそうだ」


 そう言った桐嶋だが、すぐに適切な該当人物を見つけた。


「うん、うってつけのヤツがいる」


「鳴海様ですか?」


「鳴海でもいいが、もっと直接的に、このことをうまく利用してくれそうな人物がいるんだよ」


 桐嶋は人の悪そうな笑顔をうかべた。


「キャリー、一人、ここに呼んでもいいか?」


「兄様が信頼してらっしゃる方であればいいですよ」


「おれが日本で最も信頼している人物さ」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 約2時間後、扉がノックされるとイヴリンに案内された藤堂が入室してきた。


 キャリーがにこやかな笑顔で出迎える。


「藤堂様、初めまして。キャロライン・ベル・ウインストンです。桐嶋様の奥様の従妹です」


「ウインストンさん、初めまして。藤堂です」


 他所行きの顏をして紳士然としていた藤堂だったが、キャリーの後ろにいた桐嶋に問わざるを得なかった。


「桐嶋、どういうことだ?彼女は財団の方じゃなかったのか?」


「いや、まぁ、財団の人ではあるんだがな。おれの妻の従妹でもあるんだ。おれもさっき思い出したわけだが」


 ニコニコ顏のキャリーとは対称的な二人だった。助け船をだすように、キャリーは藤堂に、桐嶋との関係を簡潔に説明し、さっそく本題に入った。


「藤堂様には、桐嶋様を助けるための悪事に加担していただきたいのです」


 ちゃめっけたっぷりな言い方でキャリーは説明を開始した。


 頭がいいとはよく使われる言葉だが、記憶力がいい、処理能力が高いなど、一言で『頭がいい』と言ってもその真意は様々だ。


 キャリーと藤堂は、二人とも理解力が高く頭の回転が速い、典型的な頭がいい人達だ。キャリーの提案のメリットデメリットを藤堂は即座に理解し、その改善点を提案する。するとそれにキャリーがまた改善点を提案するということをすごいスピードで繰り返していく。


 桐嶋が発言者に対して顏を交互に向けているだけで会話は終わった。


「ウインストンさん、この話は私にとっても非常に魅力的な内容だ。うまく使わせてもらうよ」


「藤堂様にご理解いただけて助かりました。兄様に類が及ばなければ、いかようにでもお使いください」


「大使と支配人への根回しは」


「この後、すぐに」


「了解した」


 二人の会話に口を挟まないよう、落ち着くのを待ってから桐嶋は確認した。


「藤堂、おれの荷物と例の絵は?」


「ああ、ちゃんと持ってきたさ」


 桐嶋のキャリーケースが一つ。そして、絵よりも少し大きめ、保護材を考えればちょうど良い大きさの持ち手つきのケースが桐嶋の前に置かれた。


「あれ?こんなケースあったか?」


「倉橋が用意してくれてた。必要になるだろうと」


「・・・みんな優秀すぎるだろ」


 頭を無造作に掻きながら桐嶋はケースを開け、中身を確認した。


「確かに。ありがとう」


「どういたしまして。それで、おれからも追加情報がある。座っていいか?」


 藤堂は目の前の椅子を指さしながら聞いた。


「あ、失礼しました!どうぞお座りください」


 藤堂が座るのを見てからキャリーも椅子に座った。桐嶋は立ったままだ。腕を組んで藤堂の言葉に耳を傾ける。


「追加情報とは?」


「赤坂署管内で新たな殺しの可能性がある遺体が発見された。それがあったからおまえへの対応が遅れたのかもしれん。そういう意味では助かった。その遺体だが、司法解剖の結果、鷺沼氏と同じだったようだ。つまり、急性心不全と例の毒物検出。数値も確認したが一緒だ」


「被害者は外国人?」


「いや、日本人だ。中川博道。・・・画商だ」


「またか」


「ああ。ウインストンさんから頂いた情報に照らし合わせれば、アウラ・ノクティスがらみの可能性が浮上してくるというわけだ」


 一拍置いてから話を続ける。


「おれはこれから本庁に戻り、今回の二つの事件とアウラ・ノクティスの情報を元に上申し、合同捜査本部を立ち上げるようはたらきかける。経緯からしても、おれが担当参事官となるだろう。つまりだ。あとのことは任せておけということだ」


 二人を見ながらニヤリと笑った。


「赤坂署の例の二人の刑事もおれの管理下に置くことになるからどうとでもなる。おまえは、絵の修復に専念するなりなんなりすればいい」


「いいのか?」


「ああ、大丈夫だ。あとは警察の仕事さ。それでどうする?」


「さっきキャリーとも話していたんだが、岩手の別荘を調べたい」


「なるほど。親父さんが亡くなった現場だしな。もしなにか今回のことに関連したものがあれば共有してくれ」


「わかった」


「ただ、そうなると、誰か警察組織の人間をそちらにつけたいな。それならばなにかあっても地元警察に応援を要請できる。・・・やっぱ、鳴海かな。ウインストンさん」


「はい」


「先日のパーティーでの伝手を使って、財団から要請をだしてもらうことはできますか?」


「問題ありません」


「では、お願いします。おれの方からもそれとなく匂わせておくから、これで大丈夫だろう。それで移動手段は?新幹線・・・ってわけにはいかないか。レンタカーかな」


「いえ、大使館の車を使います。さきほど兄様が乗ってきた車です。大使から、滞在中は自由に使ってくれてかまわないと言われておりますので」


 藤堂と桐嶋から異口同音に驚きの声があがったが、キャリーは平然としていた。


「あの車なら7人乗りですので、私の護衛3人含めても1台で移動可能です」


 護衛という単語に藤堂が反応した。


「護衛か・・・警護という観点から考えれば2台の方が対応しやすいが、外交官ナンバーが2台連なっていれば目立ちすぎる。それでいきましょう。いつ出発する?」


「そうだな。おれはいつでもいいので、キャリーと鳴海の都合がつき次第だな」


「あら、私もいつでも大丈夫ですよ?」


 桐嶋はキャリーに訝し気な表情を向けた。


「財団の仕事があるだろう?」


「当初の予定は完了しました」


「いや、鳴海から2週間くらいの滞在予定と聞いていたんだが」


「日程はその通りです。でも、仕事自体は最初の2日間で完了しました」


「・・・え?日本に来る必要あったの?」


「あります!いえ、どうしても必要だったのです!兄様を探し出してお会いするのが本来の目的でしたから!ですので、あとは自由時間です!」


 開いた口が塞がらないとはこのことだ。藤堂は苦笑し、桐嶋は呆然としている。確かに、来日してから5年間、一度も連絡はしていないが。


「桐嶋、あきらめろ。ウインストンさん、こいつのことよろしくお願いします」


「はい!」


 藤堂の笑いが止まらない。


「おまえのその顏が見れただけでここに来た甲斐があったってもんだ。じゃあな、そろそろ本庁に戻る。桐嶋、なにかあったらすぐに連絡よこせよ。気をつけてな」


「・・・ああ」


桐嶋は憮然とした表情で藤堂を見送った。



(第7話 終)

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