第6話「過去からの声」

 翌日の午前9時半を少し過ぎた頃、倉橋の姿が住宅街の路地に現れた。


 日差しが強くなり始める中、倉橋はダークカラーのジャージ姿にスニーカー、腰には少し大きめのチェストバッグを下げていた。チェストバッグの中には、100均で購入した道具類一式が詰め込まれている。一見すると、朝のジョギングを楽しむ一般市民にしか見えない姿だった。


 しかし、倉橋の胸の内は穏やかではない。心臓の鼓動が耳に響き、額には薄い汗が浮かんでいる。


「大丈夫、問題ない」


 何度も自分に言い聞かせながら、倉橋は桐嶋と藤堂が指示した『秘密のルート』の入り口へと足を向けた。路地を進むにつれ、周囲の建物が迫ってくるような圧迫感を覚える。


「ここか」


 民家と民家の間の狭い隙間が目に入った。普通なら目もくれない場所だ。


 実際に見ると確かに子供なら歩けそうな幅はある。しかし、倉橋の体格では、横向きになりスライドしていくしかなさそうだ。


 周囲を慎重に確認する。人気はない。ただ、遠くで犬の鳴き声が聞こえ、倉橋は一瞬身を固くした。


 深呼吸をして落ち着きを取り戻すと、隙間に体を滑り込ませた。


 幾分か進んだところで、チェストバッグが壁に引っかかり小さな音を立てた。静寂の中での擦れた音が異様に大きく感じられ、倉橋は息を止めて周囲の反応を窺った。民家の影になり直射日光は避けられているものの、蒸し暑い温度が体温と心拍数をさらに上げていく。


 幸い、異変に気づかれた様子はない。ほっと胸をなで下ろした倉橋だったが、安堵も束の間、次の難関が待っていた。


 民家の庭に面した場所を通らなければならないのだ。


「うそだろ・・・ここを通れって?」


 倉橋は躊躇したが、後には引けない。身を低くし、忍び足で庭を横切り始めた。その時、庭の隅に置かれた植木鉢に足を引っかけてしまう。


 ガタン!


 植木鉢が動いた音は、実際の音量以上に大きく聞こえた。


「しまった!」


 即座に身を伏せ、息を殺した。家の中から物音がする。


 心臓が高鳴る。発見されれば全てが台無しだ。庭木の陰に身を隠し、ほとんど呼吸を止めたような状態で動かずにいた。


「ん? 気のせいか」


 家の中の人物がそうつぶやき、窓が閉まる音がした。倉橋は、まるで永遠とも思えるほどの時間が過ぎ去ったように感じた。


 ようやく安全を確認すると再び動き出す。残りのルートも決して楽ではなかったが、先ほどまでの危機は訪れなかった。


 そして、ついに悠彩堂の裏手に到着。説明通りの窓が見える。しかし、そこには予想外の障害が待ち受けていた。


 蜘蛛の巣だ。


 大きな蜘蛛が巣の中央で獲物を待ち構えている。


 倉橋は、足がたくさんある虫が苦手だった。他の虫はそこまでではないのだが、蜘蛛やムカデといった足がたくさんある虫だけは生理的な恐怖感を感じてしまう。一瞬たじろいだが、ここで引き返すわけにはいかない。目を閉じ、歯を食いしばって蜘蛛の巣を払いのけ、窓の真下にたどりついた。


 窓に爪をかけるとかすかに動いた。


 倉橋は手袋をして、移し替えた油が入っている小さなプラスチックのボトルをとりだし、慎重にサッシのレールに油を流した。その時に再確認して気づいたのだが、思ったよりも窓が小さい。


「懸垂苦手なんだよなぁ」


 狭い場所から体を引き上げようとする。何度も脳内シミュレーションをおこない、成功のイメージがついたところで実行した。腕と腹筋がぷるぷると震えたが、ようやく窓枠のところに体を引き上げることができた。途中、ブロック塀にあった小さなでっぱりに足をかけることができたので、態勢を保持できている。そのまま、体のバランスを崩さないようにチェストバッグからルームシューズを取り出し、スニーカーにかぶせた。


 窓から室内に入ったが、フェルト底のおかげで音がほとんどしない。想定通りではあるが、自分の用意周到さに密かに満足した。物置と説明を受けた場所は埃っぽく、かすかにカビの匂いがする。倉橋は、周囲を確認しながら店内へと進む。


「鍵は1階の居間」


 桐嶋の指示を思い出し、足元を確認しながら先に進んだ。


 居間に到着した倉橋は、桐嶋が描いたイラストを頼りに鍵の在処を探し始める。


 見つけた。


 その瞬間、外から車の音が聞こえてきた。そして、店の前で止まる。


 倉橋の背筋が凍りつく。誰か来たのか!?


 ブレーキランプの赤い光がかすかに見える。


 波打つ脈拍を感じる。


 無意識に呼吸を止めていた倉橋だったが、やがて車は通りすぎていった。


 大きく息を吐き、再び鍵を確認した。


 木彫りの熊のキーホルダーが邪魔だったが、そのままチェストバッグに入れた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「桐嶋さん、終わりました。回収完了です」


 車に戻った倉橋は、汗だくになりながら桐嶋に電話をかけていた。エアコンの風が冷たく感じる。


「おまえは無事なんだな」


「無事です。誰にも見つかっていませんし、完璧だと自画自賛したいくらいですよ。ご指示通り、木彫りの熊ちゃんを保護しました」


 倉橋の言い方は桐嶋の笑みを誘った。


「ありがとう。助かったよ」


「どういたしまして」


 つけたままだった手袋に気が付き、脱ぎ捨てると手のひらにも風をあてる。


「どこかでシャワーを浴びてからそちらに行きますね。さすがにこれじゃ気持ちが悪い」


 ジャージのジッパーを半分おろし、シャツの首元部分をゆるめて空気を送り込む。


「了解した。気を付けて」


「はい」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



午後1時。


 倉橋は誇らしげな表情で秘密基地に帰ってきた。


「この鍵で大丈夫ですよね」


 小指にひっかけたキーリングの両側には、大きめのシリンダー錠用鍵と鮭をダイナミックな動きで狩っている木彫りの熊がぶらさがっていた。桐嶋はそれを受け取り確認した。


「間違いない。これだ。あとな、念のための確認だが、尾行はなかっただろうな」


「大丈夫です。ここの駐車場についてから前後のドラレコも確認しましたが、それらしいのはいませんでした」


 安堵の表情がうかぶ。


「じゃ、この借りはいずれそのうちに。精神的に」


「精神的に」


 二人は顏を見合わせて笑い出した。


 このセリフは、30年以上前に放映された、警察官が主人公のアニメで使われていたセリフだ。


 去年、倉橋が知人から紹介されたアニメだったが、倉橋から「すごい面白かったので見てください!」と言われたため桐嶋も見たところ、予想外にハマってしまいTVシリーズから映画まですべて視聴済みだった。


 もちろん、藤堂と鳴海も視聴しファンになっていた。ただ、藤堂は「警察はこんなヒーローにはなれないよ」とボヤいていたが。


「別荘の場所は岩手でしたっけ?」


「すぐにでも行って確認したいことがいろいろでてきたけどな。外出禁止令がとけたらすぐ動けるように準備だけはしておかないと」


「ですね。でも、さすがに月曜までは動けないでしょうから、おれの休みが終わったあとですかね」


 この3日間、ほぼ一緒に行動していただけに、桐嶋はそのことを忘れていた。


「ああ、そうだった。そっか、そうだな」


 倉橋の休みはあと二日間。桐嶋は少しそのことを考え始めたが、その前に昨晩のことを説明することにした。


「そういや、昨晩、鳴海から電話があってな」


 桐嶋は、鳴海から送られてきたメールの画像を表示させながら話し始めた。ただし、鳴海の恋心(?)については無視した。


「このウインストンさんの名刺にあるMonuments Men and Women Foundationってなんでしたっけ?聞いたことあるような気もするんですが」


 桐嶋は、事前に詳細を調べていたため倉橋に説明した。


 モニュメンツ・メン・アンド・ウィメン財団は、第二次世界大戦中に文化財を保護した「モニュメンツ・メン」と呼ばれる人々の功績を称え、その使命を引き継ぐために設立された非営利団体のことである。通常は「モニュメンツ・メン財団」と呼ばれることが多い。


 主な活動は、ナチスによって略奪された芸術作品や文化財の回収と、正当な所有者への返還。戦時中、連合国軍に所属した美術史家や博物館員たちが、破壊や略奪から文化遺産を守るため奔走した。


 その精神を受け継ぎ、今もなお行方不明の作品の捜索や、歴史の教訓を伝える活動を続けている。


「確か映画にもなっていましたね。だから聞き覚えがあったのか」


「日本で?」


「いえ、アメリカで。日本で放映されたかどうかまでは覚えてませんが、おれはブルーレイで見ました」


「いつのことだ?」


「アメリカでは2014年だったかな。ブルーレイの発売はその2年後だったような。日本でも上映予定があって吹替も完了していたのに突然中止になったはずですね」


「それは知らなかった」


「確か、あの団体は、国から勲章だったかももらっているような組織ですよ。そこの調査員ともなれば・・・」


 倉橋が少し言いよどむ。


「桐嶋さん、一昨日の夜、二人でクリムトの絵の来歴について話し合っていたじゃないですか。あの時って結論、というかお互いの考えの結果を話していないですよね?」


「ああ、そうだな。藤堂と鳴海に送った資料にも結論的なものは記載してなかったはずだ」


「ですよね。結局、桐嶋さんはどう考えています」


「おれはナチスによって略奪された絵画だと考えている。それなら1975年に出版されたレゾネにないことの説明もつく。1975年当時、存在を公表されていないのだから当然だな」


「おれもそう思います」


 大きくうなずいた倉橋だったが、続けて疑問を投げかける。


「だとすれば、それに関連しそうな財団が来日しているというのは、タイミングが良すぎると思いませんか。もしかしたら絵のことをなにか知っているんじゃ」


「その可能性も考えた。だがな、結局知らないだろうという結論になった。理由はこうだ。もし知っているならば、日本の警察になんらかの照会、もしくは協力依頼をしているはずだからさ。鳴海の参加したパーティーは昨晩。来日したその日にパーティーをするはずもないから、来日したのは数日前だろう。彼らの組織は公明正大な表の組織だ。裏で動くのはそれこそ考えにくいし、警察に働きかけがあったなら、部署的に藤堂も鳴海もまったく知らないなんてことはないさ」


「そうか、そうですね」


 桐嶋の言葉を咀嚼した倉橋は、藤堂や鳴海の行動、言動を考えて納得した。


「であれば、あの傷だけが謎ですかね」


「それについては一つの仮説を思いついたんだよ」


「え?どんなのです?」


「アンネの日記だよ」


「アンネの日記って・・・オランダに住んでいたユダヤ人の少女が、ナチスから逃げ隠れていた2年間で書いたというあれですか?」


「詳しいじゃないか」


「うろ覚えですよ。『アンネの日記』という単語を聞いたことがあっても、実際に読んだことがある人は少数じゃないですかね」


「そうかもな。おれはアカデミーの授業で散々聞かされたし、テストにもでてきたからよく覚えてる。あの時の講師がユダヤ人だったからかもなぁ。日記にかこつけて、ナチスの非道っぷりを魂に刻み込むまでに教え込まれた」


 当時を思い出した桐嶋がうんざりした表情をうかべた。


「でもな、そのおかげで、あの絵が同じ状況におかれていたんじゃないかという仮説を思いついたんだから、そういう意味では感謝だな」


「同じ状況?」


「隠れ家だよ」


 桐嶋は椅子から立ち上がり保管庫に向けて歩き出しながら話を続けた。倉橋は目で追ってから立ち上げり、後ろについていく。


「オーストリアでもユダヤ人の迫害はひどかった。ヒトラーはオーストリア全土を占領し、併合の宣言までしている。ドイツ本国よりも凄惨だったという話もあるくらいさ」


 例の絵にたどりついた桐嶋は、覆い代わりにしていた布をとりさった。金箔が光を反射する。改めて見ると無残な傷だ。


「倉橋、クリムトの絵は生前から価値が高かったという話をしていたよな」


「そうですね」


「1938年のナチスによるオーストリア侵攻時、ユダヤ人が資産家層の中で不釣り合いに高い割合を占めていたというのは有名だ。すべてのユダヤ人が資産家だったわけではないが、一部のユダヤ人がたくさんの金をもっていたのは間違いないのさ。つまり、この絵を当時を保有していたのがユダヤ人だとしても不自然ではない」


 桐嶋の手が額縁におかれる。額縁が記憶をもっていれば桐嶋の手に流れ込むのではと思うくらいにしっかりと、ゆっくりと握られた。


「ヒトラーがオーストリア併合を宣言したのは同年3月だが、ユダヤ人迫害はその後何年にも渡って続けられた。国境が先に封鎖され、ウィーンから外へ外へと猟犬は追いかけて行ったのさ。アンネの日記を読んでもわかる通り、ユダヤ人は同族意識が強い。この絵をもつ家族も何家族かで一緒に逃げていた可能性がある。やがて、隠れられそうな家屋を見つけ、身を寄せ合って隠れたのではないか」


 倉橋が傷を見つめている。桐嶋の言葉を元に想像しているのは明らかだ。


「人間は高い体温と水分を発する。それが狭い空間にひしめき合っていたら、その場が高温多湿環境になっていてもおかしくはない。外気温が高い時季であればなおさらだ」


「じゃあ、この傷は・・・」


「家族が隠れ住んだ日数だと推測する。一日、一日とその境遇から解放される日を信じて」


「この数が日数だというのはなんとなくわかりました。でも、なぜ、この美しい絵に傷をつけたのかがわかりません。日数を数えるだけなら額縁や木枠にだっていいと思いますが」


 倉橋の言葉を機に、桐嶋が待ってましたと言わんばかりに目を見開く。アカデミー時代の講師でも乗りうつってるんじゃなかろうか、と場違いな感想が倉橋の脳裏をよぎった。そのくらい桐嶋の言葉には熱がこもっていた。


「ヨーロッパ各地には古代から脅迫祈願の風習がある。呪術ともいえる風習だ」


「脅迫祈願・・・呪術・・・ずいぶんなワードがでてきましたね。ヨーロッパ古来のということですか」


「日本にだってあるぞ」


「え!?日本に!?」


「テルテル坊主さ」


 桐嶋の言葉で、倉橋はテルテル坊主の起源が実は悪疫退散のお守りだったという話を思い出した。首吊り人形を模したその姿には、首を吊られたくなければ願いをかなえてくださいという脅迫的な祈りがこめられているという説がある。


 指でそっと傷をなぞりながら、桐嶋は戦時中の恐怖と希望が交錯した瞬間を感じとろうとした。高価な絵画を傷つけることは、発見された際に厳しい処罰を受ける可能性があったはずだ。それでも幼子は、自由を求めてこの行為を続けた。お願いだから私たちを助けて、と毎日祈りながら傷をつけていた。


「人間の祈りの力強さを、これほど鮮明に感じたことはない」


 桐嶋は思いを口に出していた。美しい絵画に刻まれた57個の傷。それは、遠い国の家族が発した命がけの祈りの証だったのかもしれない。


 二人はどちらともなく絵を離れ、いつものテーブルに戻ってきた。


「おれは桐嶋さんの仮説を全面的に賛同します」


「ありがとう」


「それで、桐嶋さんはあの絵を最終的にどうしたいと考えています?」


「修復自体はおれがおこないたい。でもな、修復に関わらずモニュメンツ・メン財団に預けようと考えてる。おれの仮説は別としても、未発見のクリムトの真作という事実だけで財団は丁重に扱ってくれるはずさ。彼らならナチスがらみの作品だと認識するに違いない」


「でもそれじゃ、警察からの追求の手は・・・」


「ああ、なにも変わらないことになる。仮定の話だが、赤坂署と宮古署がタッグを組んでおれを疑い始めたらなおさらヤバいことになるかもな」


「それならなぜ!」


「ただ預けるだけじゃないさ。取引の材料として使う。バーターだ。モニュメンツ・メン財団の人間が大使館に常駐しているとすれば、それなりの立場なのだろう。なんらかの庇護を受けることができるかもしれない。それでもダメなら、その伝手を使ってアメリカに逃げるだけだ」


 桐嶋の表情に自重ともとれる笑みが広がった。


「その交渉をおこなうためにもウインストン女史と会ってみるさ。賛成してくれるか?」


「そういう考えならば賛成します」


「ありがとな。これで、鳴海も倉橋も賛成と。あとは藤堂待ちだな」


 桐嶋が、スマホの時計を確認しようとした時、鳴海からのメールが届いた。


『鷺沼氏の来日記録に絵画持ち込み記載なし。過去20年における絵画に関する怪しい税関記録なし。なお、鷺沼氏は毎年1回は来日していたもよう。以上』


「業務メールかよ」


 簡潔な内容に笑いがこみあげる。


「おれにも同じものがきてました。これであの絵が少なくても20年以上は日本にあったことがほぼ確定しましたね。つまり、絵の写真も日本で撮られた可能性が高い。保管者、協力者・・・なんらかの組織でしょうか」


「ああ。そして、鷺沼氏もそことセットなのか、だな」


 仮に、鷺沼が絵を保管していた組織とセットだとする。そうなると、また新たな疑問もうかびあがってくる。あの絵は、なぜ、約80年もの間、修復されなかったのかということだ。


 すぐに売却しないから?


 それにしたって最終的に売却目的ならば修復していなければおかしい。


 その考えを桐嶋は口にださなかった。そのことも含めて財団に放り投げようという気になっていたからもあるが、三人に対してこれ以上の負担になりそうな材料を増やしたくなかったからもある。


 桐嶋が思案にふけっていたころ、倉橋はノートパソコンで作業をしていた。


「そういえば頼んでいた画材は?」


「大丈夫そうです。早ければ来週の火曜か水曜には揃うはずです」


「思ったより早いな。助かる」


「いえいえ。今、藤堂さんと鳴海には報告書送りました」


 倉橋がノートパソコンを閉じる。


「ふと思ったんですが、財団からの迎えってここに来てもらいます?」


「あ、そっか。まずいな」


 ここはあくまで『秘密基地』。四人以外の第三者には、少しの痕跡でも知られたくない場所だ。


「ここから移動するにしても、警察が防犯カメラの情報を容易にとることができる公共施設のカメラには写りたくない。んー・・・」


「あそこはどうですか?砧公園」


 桐嶋はここから砧公園までのルートを考える。間に駅はない、首都高以外の幹線道路もない。公園自体も広いから場所によってはカメラが少ない。


「いいかもな」


 スマホでGoogle Mapを表示し、詳細なルートを確認する。それを見た倉橋も確認し始めた。


「このルートはどうです?」


 桐嶋が倉橋のスマホをのぞき込む。


「ここをこう通って、ここを曲がってこう行って。これなら住宅街しか進みませんし」


「いいな、そうしよう。そこをマーキングしておれのメアドに送ってくれるか?」


「はい、OKです。ここまではおれが送っていきますよ」


「月曜ならか?」


「火曜水曜でも時間帯さえ確定していれば可能ですよ。ちょっと抜け出すだけですから」


「すまんな」


「その時は念のため、別な車で来ます。カーシェアとか、手はいくらでもありますから」


「・・・もうさ、おまえらに相談して本当に良かったよ。おれ一人じゃもうどうにもならなくなってた」


「なに水臭いこと言ってんですか、今更ですよ。いつか精神的に返してもらいますから大丈夫ですよ」


「精神的にな」


「ええ、精神的にです」


二人の表情に素直な笑みが広がった。


「さて、倉橋。今日はもう帰れ」


「え?なんでですか!?」


「おまえ、一昨日からあまり寝てないだろ。だいたいの思索はまとまったし、おまえのおかげで鍵も手に入った。藤堂はキャンプ中だし、今日明日で動けることはもうないさ。家に帰って休んでくれ。その後、きっちり動いてもらうためにも、今は体力を温存しておいてもらいたい」


「・・・そういうことなら・・・わかりました。おれ的には夜通しお話したいくらいなんですけどね」


「ダメだ、休め」


「・・・了解しました。じゃあ今日のところは帰りますけど、なにかあったらすぐに連絡くださいね!絶対ですよ!」


「ああ、わかったわかった」


「じゃあ、帰ります」


 広げまくった大荷物を手際よくまとめ始めるとすぐに完了した。


「買ってきたものは適当に飲み食いしちゃっててください。三日分はもつはずですから」


「充分だ」


 倉橋はくどいくらいに食べ物に関する注意点や「あれはあそこありますからね」と必要となりそうなアイテムの所在を教えてから帰っていった。


「おかんかよ」


 扉が閉まると、桐嶋はためいきをついた。倉橋がいろいろ気を回してくれるのはありがたい。だが、四六時中それが続くと、さすがに疲れてくるものだ。休んでもらいたいのは本当の気持ちではあるが、それ以外に一人になりたい理由もあったので無理やり帰したのである。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 現在の時間は、午後5時28分。桐嶋がその時間を確認した直後、藤堂から電話がかかってきた。


「珍しいな。キャンプの最中に電話をよこすなんて」


 その言葉には、今回の一連の出来事とは違う、日常の響きがあった。


「たまにはな」


 藤堂もそれを察したのか口調が和らぐ。


「奥さんや娘さんたちは?」


「妻は忘れものだとかで近所のスーパーに買い出しにいったよ。娘たちはなんやかんや言いながら夕食を作ってくれている」


「それはさぞかし賑やかしいだろうなぁ」


「ああ」


 電話の奥から笑い声が聞こえる。


「楽しそうだ」


「まぁな。歳頃の娘たちだが、嫌な顔一つせずに、キャンプにつきあってくれるんだから楽しくて来てるのだろうな」


「ありがたいことだな」


「素直にうれしいもんさ」


 藤堂の娘たちは、長女14歳、次女12歳、三女9歳の三人。たまに桐嶋が藤堂の家に遊びに行くと、いまだにじゃれついてくる子犬のような愛くるしい娘たちだ。


「それで用件は?」


「ああ、報告書を読んだのでな。いろいろ考えたが、おまえの意思を尊重することにした」


「財団の件?」


「そうだ。・・・なぁ、最悪のシナリオも想定しての考えだろうな?」


「財団にナチス関係者として糾弾される可能性か?もしくは拘束される可能性か?」


「どちらともだ」


「当然考えたさ。だがな、どちらにしろ日本の警察に捕まるよりはマシさ。参事官様に言うことじゃないがな」


 くぐもった笑いがスマホに伝わる。


「日本という国は好きさ。でもそれは、国家や政府や関連する組織のことじゃあない。歴史や風土、風習といった、直接的な言葉では言い表しにくいものが好きなんだよ。おれに非がない理由で拘束しようとしてくる警察に捕まるくらいなら、アメリカを頼った方がマシさ」


「耳が痛い話だな」


 藤堂は、日本の警察組織とアメリカの組織イメージを比較してみた。桐嶋の言葉には一理あるが、反対したい気持ちも強い。だが、今は言う時じゃないと堪えた。


「もう一つ打算的な理由もあるんだ」


「ほう」


「報告書には書いてなかったと思うが、鳴海が言うには、財団のウインストン女史は、修復家としてのおれのファンらしいんだ」


「ファン!?」


「そう。鳴海曰く、熱狂的なファンの部類のように見えたらしい。本当にそうなら悪いようにはならんかなぁと」


 藤堂の次の言葉がでてくるまでは多少の時間があった。


「あきれたな。そんなものにすがろうというのか」


「ファンの力もバカにできないぞ。最近で言えば『推し』とでも言うのか。推しの力は無限大・・・らしい。まぁ、鳴海の直感を信じることにしたのさ」


「ああ、それならわかるし納得できる。鳴海の直感は信じるに値する」


「鳴海が板挟みになって苦しい思いをせずにすむから協力する、という一面もあるけどな」


「面会する理由がたくさんだな」


「おかげで心理的防壁を突破する理由に事欠かない」


 通話音に風の吹きこむ音が重なった。


「さぁ、そろそろパパに戻るんだな。おれの方は大丈夫だ」


「ああ、わかった。そうしよう。じゃあな」


 通話を切ると、桐嶋は鳴海に、ウインストン女史への面会依頼のメールを送った。日時はまかせるが、なるべく早い方が良いという言葉もそえて。


 約20分後。軽い食事をとっていると、鳴海からの返信がきた。


『月曜、午後2時。指定の場所に車が待っているので、乗り込んでほしいとのこと。おそらく大使館の車だと思います』


「思ったよりも早いな」


 相手もあることだし、てっきり明日以降に返信がくるものと思っていた桐嶋だったが、月曜なら倉橋がまだ休みなので助かると安心した。続けて倉橋に日時のメールをした。


「さて、あとはこいつだな」


 食事の後片付けが終わると、桐嶋は保管庫に行き、例の絵の覆いをとった。


 そして、先ほどと同じ様に額縁を握る。ほぼ同じ位置。だが、先ほどと違うのは、額縁の裏を探るように指をなぞらせていたことだ。


 倉橋と話していた時、溝のようななにかがあると感じていた。


「やはりなにかあるな」


 裏にまわり、違和感を感じた箇所を確認する。なにかがあるのはわかるが、色が他と同化していてわかりにくい。あたりを見渡し、近くの作業机の上にあったルーペを使った。


「あった」


 微細な溝だ。軽く見たくらいではわかりにくい。桐嶋のように、指を当てなければわからないくらいの細く浅い溝だった。


「模様?いや、文字か?」


 ポケットからメモ帳を取り出し、文字らしき形を一つ一つ書いていく。


「N・・・e・・・かな。んー、tか」


 かなりの時間は要したが、おそらく全部書き写した。すべてを繋げると。


 Ne tradideris Aurae Noctis


「英語じゃないな。ドイツ語でもない・・・ラテン語か・・・?」


 桐嶋は、額縁に刻まれた不思議な文字列を見つめながら、その意味を考え始めた。ラテン語であることはほぼ間違いない。しかし、その意味は依然として謎に包まれている。


 部屋の静寂の中、桐嶋の頭の中では様々な可能性が巡っていた。この文字列は単なる装飾の誤読なのか、それとも何か重要な意味を持つメッセージなのか。そして、もしメッセージだとすれば、誰が、何のために、このような隠された場所に刻んだのか。


 桐嶋は深いため息をつきながら、メモ帳に書き写した文字列を何度も見返した。この謎めいた文字列が、絵画の真の来歴や、鷺沼の死、そして自分の父の死とどのように関連しているのか。それらの謎を解く鍵になるかもしれない。


「これも財団に相談するべきかな・・・」


 桐嶋は呟きながら、ウインストン女史との面会に向けて準備を始めた。月曜日の午後。その時が、全ての謎を解く糸口になるかもしれない。桐嶋は静かな決意と期待を胸に、来るべき時を待つことにした。



(第6話 終)

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