第5話「記憶の扉」

 午後5時40分。


 藤堂啓介が地下室にたどり着くと、入口の扉に一枚の紙が貼ってあった。


 『秘密基地』


 達筆な字でそう書かれてある。一瞬、激情にかられてやぶいて剥がしそうになったが「悪くないか」と思い直して扉を開ける。


 扉の向こうでは、桐嶋と倉橋がカップラーメンを食べながら討論をしていた。まるで学生時代に戻ったかのような光景だ。二人は来訪者に目線を向けた。


「さて、桐嶋よ。納得のいく説明をしてもらおうか」


 藤堂の声には、わずかな苛立ちが混じっている。


「まぁ、待てよ。食い終わってからな」


 桐嶋は平然とした様子で答えた。麺をすする音が重なる。


「もうちょいだから」


 さぐり箸で麺を拾い集めて口に放り込み、水を流し込んだ。長年の習慣なのだろう。これまでの生活感が垣間見える。


「さあOKだ。まずはこいつを見てくれ」


 そう言いながら一枚の紙を藤堂に渡した。


 倉橋は、自分と桐嶋が食べきった空のカップをもちシンクに向かった。ただし、耳は二人の会話をロックオンしている。


「死体検案書?親父さんのか」


 藤堂の声には、驚きと疑念が混ざっていた。死体検案書には、桐嶋の父親である桐嶋武夫の名が記載してある。その文字を見つめる藤堂の目には、複雑な感情が浮かんでいた。


「そう。そこの・・・ここだ。見覚えのある単語がならんでいるだろ?」


 藤堂に見せたい箇所を指で探してから示す。そこに目線を移した藤堂は唸るように言葉をだした。


「ヘレブリンとタキシン」


「おれもまさかと思ったよ。ただな、5年の間があるとはいえ、自分に関係がある二人の状況が同じ急性心不全じゃあな。さすがに多少の関連性は疑うさ。だから、記憶に残っていた名称を聞いてみたというわけさ」


「なるほどな。理解した」


 なにかに気づいた藤堂がスマホを操作しながら言葉を続ける。


「おれはな、この検案書を見て多少ではない関連性を疑うことになったぞ。どうしてくれる」


 藤堂の言葉に、桐嶋が怪訝そうな表情になった。


「これを見てみろ」


 それは鷺沼氏の死体検案書の写真だった。スマートフォンの画面に映し出された情報が、部屋の空気を一変させる。


「おいおいおい、冗談だろ」


「そう思うしかないよな」


 そこに写っていたのはヘレブリンとタキシンの検出された成分量。その数値は、武夫氏の死体検案書に記載されていた成分量とほぼ同じだった。小数点以下の誤差でしかない。


「5年前、警察から聞いた説明は、ヘレブリンもタキシンも致死量にはほど遠い数値のため、死因として特定することはできないということだった」


 桐嶋の声には、過去の記憶を掘り起こす苦痛が滲んでいた。


「赤坂署の鑑識による見解も同じだ。致死量には届いていない。死因に結び付けることはできないだとよ。だがな、同じものが二つあるとなると話は変わってくる」


「どういうことだ?」


「どちらとも身体的な異常を認める所見なし」


 藤堂はスマホの画面と、桐嶋のもつ死体検案書を再度確認しながら続けた。


「だとすれば、このような結果がでるように調整された毒薬という可能性がでてくる」


「・・・ああ、そうか。・・・そうだな」


 5年前に突然おこった父親の死。自然死ないしは病死という結論で桐嶋は納得していた。しかし、そうではない可能性がでてきたせいで胸がざわつき始める。過去の記憶が、まるで古い映画のフィルムのように、桐嶋の脳裏に次々と蘇っていく。


「赤坂署の刑事は検死の結果から他殺を疑っている。そしておまえを疑っている。というより唯一の接触者である、おまえにすがるしかないと考えている節がある」


 藤堂が桐嶋を見ながら言い聞かせるように話した。


「じゃあ、その二つの関連性を教えてやれば・・・」


 洗い物を終わらせた倉橋が椅子に座りながら疑問を口にしたが、語尾には藤堂の怒声が重なった。


「バカかおまえは!唯一の肉親の死因と唯一の接触者の死因が同じだったら疑う人間も一人しかいなくなるだろうが!」


 藤堂の声が地下室に響き渡る。


「・・・あ、そうですね・・・考えなしでした。すみません」


「いや、おれこそ大声だしてすまん」


 二人のやりとりを桐嶋は無表情で見ていた。


「さあて、どうしましょうかね」


 椅子に深くもたれかかりながら天井を見上げる。考えが頭を巡るが、妙案と呼べるものが簡単にでてくるわけがない。地下室の天井に浮かぶわずかな影が、まるで桐嶋の混沌とした思考を映し出しているかのようだった。


「桐嶋、疑問なんだが、毒性成分が検出されていたのに、えーと、宮古?宮古署ではなぜすんなりこの状況で不問にしたんだ?」


「ああ、それはな、ヘレブリンとタキシンがたくさんあるところで死んでたからだ」


 藤堂の表情が困惑に変わる。眉間にはシワが寄り、桐嶋の言葉を理解しようと努めている様子が窺えた。


「どういう状況だ・・・」


「親父は岩手の早池峰山のふもとにある別荘で亡くなっていたんだよ。配達にきた郵政の職員が発見してくれてね。その別荘の周辺には、ヘレブリンをもつクリスマスローズと、タキシンをもつイチイの木が群生してるんだわ」


「それだけ聞くと、とんでもない魔境にしか聞こえんのだが」


「どちらとも適正に扱ってさえいれば問題ないのさ。特にクリスマスローズなんかは注意は必要だが、普通に栽培している家庭もたくさんあるくらいだ。イチイの木だって、果肉の種子は要注意だが、なにもしなければ毒になるくらいに接種するわけがない代物だ。・・・いや、待てよ。言われてみれば確かにそうだ」


 桐嶋が勢いよく体をおこした。


「なぜ、あんなにあっさり不問にしたんだ?当時は、警察からの説明でもあったことだし、親父を早く東京に連れ帰ってやりたい気持ちが強くて、田舎の警察だから仕方ねぇかくらいにしか思わなかった。でも、今回のことを併せて考えるとおかしいと思えてくる」


 桐嶋の声には、過去の自分の判断への後悔が混ざっていた。


「別荘の状況は?」


「あの後にいろいろ片付けに行って、最後に行ったのは2年前かな。良いところではあるんだけど、やっぱり不便な場所でね。あまり長居はしたくないのが正直なところだ」


 桐嶋は当時の状況を思い出していた。


「あの時、警察の話では、親父は10日くらい前から滞在していたらしい。あんな僻地に?周囲になにもない。買い出しに行くとしても車で30分はかかる・・・待て待て待て!親父は車を持っていないぞ!?」


 桐嶋の上ずった声には、突如として気づいた真実への驚きが込められていた。


「桐嶋さんがアメリカに行っている間に車を買ったんじゃ?」


 倉橋が疑問を口にしたが、桐嶋が即座に否定した。


「親父は免許も持っていなかったんだ。仮に、おれがいない間に免許をとって車を買ったと仮定するなら、別荘に車がなければおかしい。そんなものはあそこにはなかった」


「第三者の関与を疑うのが自然だな」


 藤堂の重々しい言葉が響く。長年の捜査経験から来る冷静な判断から導き出されたのは明白だ。


「別荘の鍵は?」


「悠彩堂に置いたままだ」


「さすがに持ってきてはいないか」


「そりゃあな」


「桐嶋、今動くのはマズいからな」


 藤堂の声には、友人を守ろうとする強い意志が込められている。


「なぜだ」


「さっきも言ったが、赤坂署はおまえを疑っている。おれが抑えてはいるが、あちらがあせっていれば検察に逮捕状を請求していてもおかしくない状況だ。仮に状がおりれば、おれでもおまえの身柄を拘束されればなにもできなくなる。だから外出は絶対にダメだ」


「そこまでやるかね」


「やるさ。あの工藤という警部補を舐めちゃいけない。最近は、このご時世もあっておとなしくしちゃいるが、昔は剛腕で知られた、現場たたき上げの刑事だ。そのくらいすると思っていた方がいい」


 藤堂の言葉には、警察組織の内部事情に精通した者ならではの確信があった。


「時間との勝負ということか」


「そうだな」


「じゃあ、おれが悠彩堂に行ってきます?」


 倉橋が遠慮がちに手を挙げた。


「おれなら面もわれてないし。何度も訪れた場所ですから、鍵のありかさえ教えてもらえれば」


 確かに良い案には思えたが、桐嶋は懸念を口にする。


「昨晩、偵察に行ってもらった時、見張りっぽいのがいただろう。つまり正面から入るのはリスクがありすぎるな」


「他の入り口は?」


「ないな。ひしめき合った住宅街の店舗兼住宅だから、店の入り口しかない」


「手詰まりですか・・・」


 倉橋の声には、わずかな落胆が混じっていた。


「いや、そうでもないぞ」


 藤堂の表情に、いたずら小僧の笑みが広がる。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「あっただろ、桐嶋。ガキの頃、おまえが閉め出しをくらった時に親に内緒で帰ったルートが」


「そんなことあったか?」


 桐嶋が過去の記憶を思い出そうとする。だが、自分にとって都合の悪い記憶は得てして思い出せないものだ。


「一度と言わずに二度三度あっただろうが。悪ガキなら誰しも経験がありそうなやつだ」


「あー・・・あれか?道と言えず、入り口とも言えないやつ」


「そう、それだ」


 顎に手を当てて考えていた桐嶋が、不安そうな倉橋の目線をとらえた。


「倉橋、悠彩堂周辺の地図を印刷してくれるか?裏手から周辺道路まで繋がる感じので」


「わかりました」


 倉橋はノートパソコンにとりつき、手際よく必要な地図を作成していく。普段から緊急事態に備えているかのような慣れた手つきだ。


「しっかし、よくそんなことを覚えていたな、藤堂」


「おまえにとってはそうではなかったのかもしれんが、おれにとってはドキドキの大冒険だったからな。忘れはせんさ」


「そんなにか?」


「それはそうだ。おまえにとっては手段はどうあれ、自分の家に入るだけのことだが、おれにとっては無断侵入だったからな。そりゃあドキドキワクワクだったさ」


 藤堂は昔の自分を思い出して笑っている。幼少期にわきおこった冒険心の発露はなかなか忘れられないものだ。


「できました!」


 倉橋が印刷した地図をテーブルに広げた。その地図には、悠彩堂の周辺が詳細に描かれており、まるで宝の地図のような魅力を放っていた。


「ありがとうな倉橋。じゃあさっそく」


 桐嶋はあらぬ場所から線を引き始めた。おそらくそれがルートなのだろう。


「桐嶋そこじゃない。こっちだろ」


「いや、こっちの方が近いって」


「バカだなぁ、そこじゃ、あのおっさんに見つかるって」


「えー、そうかなぁ」


 倉橋の目には、二人が童心に帰って楽しんでいるようにしか見えない。ある意味、微笑ましい光景なのだが、実際に引かれていく線を見ていると疑念しかわいてこない。


「・・・そんなとこ、人が通れる場所があるんですか?」


「あるさ。大丈夫。30年前くらいの記憶だが、あの辺りがその程度の年月で変わるわけがない」


 確信をもって書き続ける桐嶋の線を藤堂が修正を入れていたが、ようやく悠彩堂の裏手まで繋がった。


「これだ。これで完璧!建物の一番奥が物置になっていて、そこの窓は鍵がかかっていない。よじ登れば入れる!」


 満足そうな二人だったが、実際にそのルートで侵入することになる倉橋の目にはまったく道らしきものが見えなかった。


「これ、完全に民家と民家の隙間じゃあ・・・」


「そうさ。その通り。だから誰の目にもふれずにたどり着くことができる。注意点があるとすれば、こことここの箇所だけだ」


 桐嶋の指が示したのは大通りが見えそうなスキマにしか見えない。


「スリムな倉橋ならいけるさ。おれはちょっとなぁ、腹がつかえそうだ」


 たいして出てもいない腹をさする。桐嶋の仕草には、自嘲気味の笑いが込められていた。


「いやまぁ、それしか手がなさそうなので行きますけどね。実際に行って通れなさそうだったら帰ってきますよ?それで別荘の鍵はどちらに?」


「1階の居間にある」


 桐嶋はそう言いながら、先ほどの地図の裏に簡単な居間のイラストを描き、鍵の置き場所には『ココ!』と大きく赤字で書き込んだ。


「頼んだぞ倉橋。おまえにすべてがかかってる」


 藤堂は再度、腕時計で時間を確認しながら言った。


「さて、おれはそろそろ帰るぞ。倉橋も突入は明日だな。暗くなってからはリスクしかない」


 明かりが必要な状態で懐中電灯をつければ、それだけで誰かに見つかりやすくなる。道理な話だ。


「そうですね。明日の午前中に動くことにします。必要なものは、手袋、タオル、ルームシューズ、油、万が一のペンチくらいですかね?」


 倉橋はすらすらと言ったが、桐嶋はすぐに思考がつながらなかった。


 指紋をつけないための手袋。


 汚れ等を残さないようにするためのタオル。


 屋内で音が立ちにくいようにするためのルームシューズ。


 窓を音もたてずに開けやすくするための油。


 窓開け等で必要になるかもしれないペンチ。


 一つ一つ確認してようやく納得した。


「おまえは空き巣狙いの泥棒か」


「失敬な!さっきお二人が熱心にルートを書いている時に必要なものを考えていたんですよ!」


「そういうことか。普段からそういうことをしているのかと勘繰っただろうが」


「そんなわけないでしょう」


 倉橋から苦笑がもれる。


「おれが妻に嫌われそうなことをするはずがありません!」


「ああ、うん、すごく納得する言葉をありがとう?」


 真剣な表情でのろける倉橋を見ていた二人には笑みがこぼれた。


「頼んだぞ倉橋。だがな、くれぐれも危険だと思ったら引き返してくれ。現在の状況だと自由に動けそうなのがおまえしかいない。重要な役割だと認識してくれるとありがたい」


「わかりました。藤堂さんのキャンプの邪魔は誰にもさせません」


「ああ、それもお願いする」


 倉橋は茶化そうとしたが真剣な表情のままの藤堂を見て失敗を悟った。


「大丈夫ですよ。期待には応えます」


「頼む」


 藤堂は倉橋の手を握りながら充分な時間をかけて念じてから離した。


「桐嶋も頼むからここを出るなよ。外には危険が一杯だと肝に銘じておけ」


「ああ、わかってるよ」


「それじゃあな。おれは帰る。月曜には連絡するからその時に状況を説明してくれ。倉橋、資料があれば送っておいてもらえると助かる」


「了解しました」


 気分で敬礼した倉橋を確認した藤堂がゆっくりとうなずいた。


「桐嶋さん、おれもこれから100均に行って必要なものをそろえます。そして今日はそのまま現場付近のホテルに泊まることにします。周囲の偵察も済ませておきたいので」


「了解した」


「今日のお話の資料はあとで作成して、鳴海含めた三人に送っておきますので目を通しておいてください。修正点があれば連絡ください」


 こうして、藤堂と倉橋は身支度を済ませると秘密基地をあとにした。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 一気に静かになった秘密基地内。


 二人がいなくなってから、桐嶋は父親のことと、自分自身のことを考えていた。地下室の静寂が、彼の思考をより鮮明にさせる。


 親父は10日も店を閉めて別荘でなにをしていたのか。


 そのことがどうしても頭から離れない。


 店を閉めていたこと自体が問題ではない。来店客はほぼいないし、絵や額を売るために店に商品を陳列していることもほぼなかったからだ。


 桐嶋は修復やコンサベーターを主な稼ぎにしているし、たまに依頼された絵を仕入れて販売するくらいだ。だから、店に残っている絵画は、父親死亡時からほぼ変わっていないうえ、在庫全体を把握しているわけでもない。それは価値のあるものがここに残っているとは思っていないからだった。


 実際、相続の時も在庫全般が低額評価の烙印を押され、家庭用財産として一括計上されて終わっていた。


 正確な資産評価をしたわけではないが、土地は借地、築79年の家屋に資産価値はない。そんな場所に乱雑に置かれた美術品に価値があるはずもないというわけだ。


 桐嶋自身もまったくその通りだと思っている。


 子供のころに贅沢というものをした覚えがない。


 毎月、ギリギリのお金で親子3人暮らしていた記憶しかない。


 その母親も桐嶋が4歳の時に亡くなったので、母親の記憶もほとんどない。覚えているのは、スモーキークォーツにも似た、印象的な濃い茶色の瞳だけだ。


 「おふくろに似てるのは瞳くらいか。他は親父似だしなあ」


 今考えるとウィーン美術アカデミーへの入学意志を示した時の父親の反応は薄かったと思う。渡航費用と1年次の学費だけを負担してもらい、その後は自分でなんとかすると宣言したからかもしれない。なんなら一人分の生活費が減るから楽になると、あの父親なら考えたとしてもおかしくないくらいだ。そのくらい桐嶋に対する興味は少ないと感じていた。


 だからだろうか。東京から早くでていきたかったし、日本に留まりたくもなかった。


 ウィーン美術アカデミーを選択した理由もそこまで大きいものではない。


 子供の頃から父親の仕事を見ていたせいで、自分もいつかは同じことをしたいと考えていた。しかし、父親は一切その技術や知識を教えてはくれなかった。桐嶋が聞いても一切教えてくれない。ある意味徹底していた。


 今考えると、自分と同じ職業にはつかせたくなかったのだろうと思う。安定した収入があるわけではないし、親からすれば、ある意味当然のことかもしれない。


 ならば自分で絵画修復の技術を学び自得するしかない。日本の学校や絵画修復家に弟子入りすることも考えたが、美術史の本で知ったウィーン美術アカデミーに魅力を感じていた。


 なぜならウィーンは、当時傾倒していたエゴン・シーレのお膝元であり、世界最大のシーレ・コレクションをもつレオポルド美術館があるからだ。いつかシーレの作品に携われる日がくるかもしれない。そういう欲があった。


 ウィーンに行くのであれば、公用語であるドイツ語を習得しなければ入学することすらできない。だから、高校時代は学校の授業もそっちのけでドイツ語を学んでいた。ただし、ドイツ語教室に通うようなお金はなかったため完全に独学だ。それもドイツ語の教本などではなく、自宅にあったドイツ語の美術史が教科書であり、ラジオで聞こえてくるドイツ語のオペラがヒアリングの教材だった。


 英語はウィーンに行ってから覚えた。忙しい毎日ではあったが、日本では考えられないほど充実した日々だった。その間、父親に連絡した覚えがない。特段、話をしたいという気持ちにもならなかったからだ。


 そろそろ卒業を考え始める時期に、同じくアカデミーに留学していた2歳下のアメリカ人女性、ソフィア・ローズ・アンダーソンと結婚した際にも連絡はしなかった。ただ、これはソフィアが両親とすでに死別していたため遠慮したという気持ちもあったかもしれない。


 教会での結婚式には、お互いの友人たちと、アメリカからやって来たソフィアの母方の叔母一家だけが参列した。


 叔母一家とはこの時に初めて出会った。快活で幸せそうな家族。叔母夫婦と男の子と女の子の兄妹。子供たちには随分と懐かれた記憶がある。


 ソフィアがアカデミーを卒業したことを契機に、自分も卒業することにした。アメリカで就職し修復家の道をスタートさせることにしたのだ。在学中に、ある程度の実績を残していたおかげで就職そのものはスムーズに決まった。


 ソフィアがせがむので、アメリカに渡る前に日本に帰国。そこで父親に初めて結婚したことを伝え、妻を紹介した。言葉少なではあったが大いに祝福されたことを覚えている。あの時は、日本に立ち寄って本当に良かったと思ったもんだ。


 その後、アメリカに渡った後もソフィアの希望や就労ビザ更新のタイミングで帰国した際には、必ず顏をだしていた。


 しかし、ソフィアが7年前に事故で亡くなってからは実家に戻らなくなった。そして、5年前に親父は死んだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 桐嶋は手元のコップになにも入っていないことに気が付いた。


 時計を見ると午後9時半。ずいぶん長いこと物思いにふけっていたもんだと妙な感心をする。


 夕食は早い時間にカップラーメンで済ませていたが、さすがにこの時間になると小腹がすいてくる。その辺に置いてあった、かき燻製油漬けの缶詰を開け、冷蔵庫から日本酒をとりだし空いていたコップに注いだ。


「親父はいったい誰といたんだ」


 最も疑問に思っていたことが独り言になった。


 状況から考えれば一人でいたとは考えにくい。おぼろげな記憶をたどると、10日も滞在していたわりにはゴミも少なかったように思う。


「あの辺りにゴミ収集がくるわけがないしな」


 一つ思いつくと次々とおかしげなことが思い出されてくる。


 なぜ郵政職員があのタイミングで配達にきたのだろうか。DMなわけはないし、配達された郵便をもらった記憶がない。もしかしたらポストの中に入ったままだろうか。疑問ばかりだが、5年前の記憶を鮮明に思い出せるわけがない。推測するしかないのがもどかしい。


「やはり現地で確認したいよなあ」


 しかし、藤堂から外出禁止令がでている以上、出歩けば迷惑がかかることくらい子供でもわかる。思案しつつ、頬杖をつきながら日本酒の量を確認していた時、スマホのメール着信音が鳴った。


「鳴海か」


 内容を確認すると件名はなく、名刺の写真だけが送られてきていた。


 Monuments Men and Women Foundation

 Research Assistant

 Caroline Bell Winston


 名前を見ても記憶がない。首をかしげていると鳴海から電話がかかってきた。


「鳴海。この名刺は?あと倉橋から資料は送られてきたか?」


「わーん、桐嶋さんのバカーーーー!!!」


「・・・なんだよ、いきなり」


 大声の音量を忌避した桐嶋は、反射的に耳からスマホを離した。声が聞こえなくなったことを確認してから戻す。


「なんだよ、どうしたんだ」


「ただのやつあたりっすよ。気にしないでください。あと、資料はついさっき確認したっす」


「じゃあ、気にしないことにするが、この名刺はなんだ?」


「名前に覚えはないっすか?」


「ないな。ちょうどそれを考えていたところだ」


「キャロライン・ベル・ウインストン。たぶん20代。でも、幼い顔立ちをしてるのでもう少し下にも見えます。キュートなそばかす顏で知的な眼差しの典型的なアメリカ美人な感じです。濃紺のロングドレスがめちゃくちゃ似合ってたっす」


「・・・話の筋が見えないのだが・・・」


 鳴海は彼女と出会った経緯を話した。


 アメリカ大使館でのパーティーで、鳴海の上司がアメリカ大使からウインストン女史を紹介された。その流れで鳴海も名刺交換をしたらしい。鳴海は公安なので社交用の名刺を彼女に渡した。女史のたたずまいや笑顔が、鳴海の琴線にふれ心臓が跳ね上がったらしいが、それは割愛。


 その場はそれで終わりだったのだが、その後、幾人か集まっての歓談中に絵画修復の話になり、そこで彼女が桐嶋の名前をだしてきたらしいのだ。鳴海の状況説明を聞く限り、彼女がそう誘導したようにも思える。


「貴国には優秀な修復家がたくさんいらっしゃるでしょう」


 これは鳴海の上司のお仲間による鼻の下を伸ばしながらの言葉。おべっかのつもりだったのだろう。そしてウインストン女史による次の言葉が問題だった。


「なにをおっしゃいますか」


 流暢な日本語が少し厚みのある魅力的な唇から流れ出る。


「誰も彼も御国の桐嶋氏にはかないません」


「桐嶋・・・?」


「桐嶋悠斗氏です。5年前までアメリカにいらっしゃいましたが、残念ながら帰国されました。現在は日本にいらっしゃるはずです。何度もあのお方が修復された絵画を拝見しましたが、あれほどの御業を他に見たことがありません」


 頬を紅潮させながら話す彼女の瞳は少々潤んでいたらしい。


「ものの数分でおれの恋は終わりました。あれは完全に恋する女性の顏っすよ」


「いや・・・そんなこと言われても」


「彼女は桐嶋さんに是非とも会いたいらしいっすよ!どうします!?」


「はぁ!?」


「おれも上司から『なんとかならんか』とか言われたので、適当に言葉を濁しておきましたけど、桐嶋さんの名前は、おれや藤堂さんの協力者として警視庁の上役だけが見れるデータベースにあるはずですから、探そうと思えば探せてしまうっす。その前におれが橋渡しをすれば、穏便にすますことはできると思うっすよ?」


 なんでこんな時にそんな話がくるんだ。桐嶋が頭をかかえた瞬間、脳裏にある案が浮かんだ。


「鳴海、ウインストン女史は大使館にいるのか?」


「日中は大使館にいるらしいっすよ。2週間くらいだったかな」


 大使館がらみなら大使館の車が使える。外交官特権で。その車には日本の警察は手をだすことができない。


「会ってみるか」


「本当っすか!?彼女の肩書きも確認しました?」


「ああ、それも込みでだ」


「勝負師っすね」


「ただ、藤堂や倉橋にも情報共有して相談したうえで会いたい。まだ先方には言わないでくれ」


「わかったっす。悪い方に転んだら目も当てらんないっすからね」


「ああ、そうだな。しかし、うまくすれば恩を売ることもできるかもしれん」


「立ち回り次第ってことっすか。おー!背筋がぞくぞくしてくるっすねぇ!」


「楽しんでやがる」


「ちょっと楽しくなってきたっす」


「ところで、おまえのところで例の赤坂署の動きはわかるか?月曜までは藤堂が役立たずだから」


「可能です。赤坂署が状を手配する時の検察もだいたいわかりますので、そっちも手配しときます」


 こういうところが公安の怖さだ。桐嶋は工藤警部補に少しだけ同情した。


「よろしく頼む。じゃあ、後は連絡を待っててくれ。あと、倉橋の上首尾も祈っておいてくれるとうれしい」


「ですね。倉橋さんの成果次第っすね。では、また」


「ああ、またな」


 桐嶋は電話をきった。


 ウインストン女史の肩書に気づいた時、もう一つの可能性が頭をよぎった。暗闇の中で突如として光る火花のような閃きだった。


 今回のクリムトの絵。グスタフ・クリムト、オーストリア出身。


 ナチスによるオーストリア侵攻によってクリムトの絵の多くが略奪された。


 そして当時、クリムトの絵は裕福なユダヤ人が所有していることが多かったという。


 長期間の高温多湿環境。爪の刺し傷と指紋の跡。


 これらの事実が、桐嶋の脳裏で一つの可能性へと収束していく。その思考の過程は、まるで複雑な糸がほどけていくかのようだった。


「アンネの日記か・・・」


 その言葉が、重い空気の中に静かに響く。桐嶋の表情には、新たな真実に直面した者特有の緊張と覚悟が浮かんでいた。地下室の静寂が、その言葉の重みをさらに増幅させていく。



(第5話 終)

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