Vol.2:17音の青春(〜2016年3月)

【しらせとしっと】

俳句甲子園の地方予選を終えて、しばらくが経ったある日。


5時間目が終わった教室に、丸山がすっ飛んできた。


「おい橋本! これ見たかよ!」


なんかあったっけ? と思いながら、丸山のスマホ画面を眺めてみる。

表題は、「第18回俳句甲子園 全国大会出場チーム」。


そこには「投句審査による出場チーム」、そして「立教池袋高等学校A」の文字が!!!


この年の出場チーム数は95校126チーム。そのうち投句審査をくぐり抜けたのは8チーム。(地方予選が28会場、全国出場が36チームだったので。)


その日は手放しに喜んだ。それはもうひたすらに。

当時(今もだけど)は結構イロモノとして見られてたんだけど、もう周りの目なんか関係なかったね。


史上最高の夏が始まった。



それからというもの、テスト期間中もずっと俳句を作ってた気がするし、夏休み中も練習に明け暮れていた。


でもまあ、順調とはいかない。


繰り返しになるが、僕は元々、国語の偏差値39の詩歌ダメダメ男。無いんです、文才ってやつが。

ただひたすらに作って、ダメ出しを食らって……の繰り返し。いわゆる多作多捨ですね。

7兼題、合計500句は詠んだと思う。(もちろん、もっと多く作ってますよ〜って方もいらっしゃると思います。)それでも、いくつかは納得のいくものができなかったし、メンバーにゴーサインを出してもらえなかった句もあったと記憶している。

だから、僕は毎日居残り組で、部室で歳時記や写真とにらめっこする日々が続いた。


だが、そんな僕とは対極の奴がいた。

そう、前編で述べた天才。

池田だ。


彼が作ったのは、なんとたったの13句。(だと記憶している。)1兼題あたり2句未満という脅威の数値を叩き出した。

そんでもって僕の500句より全部上手いんだからもうお手上げ。期間にしても2日とかで全部仕上げてたんじゃなかったかな。

一番乗りで句作を終えたのだ。当然、他の人が句を作っている間はやることがない。だから、彼が帰るのはいつだって早かった。来ない日すらあった。


それが、僕は気に食わなかった。

チームのみんなが頑張ってるのに、なんで帰るんだと。なんでそんなにやる気がないんだと。

みんなの前で、彼に言い放った。


記事をご覧のみなさんはお分かりだと思うが、橋本少年の主張は理にかなっていない。


・みんなが頑張ってる

→句作は、みんな「で」やるものじゃない。チームと言えど、句は個人のもの。

・なんで帰るんだ

→もう終わってるから。時間の無駄だから。

・なんでやる気がないんだ

→そんなわけない。今は句の順番を決めることも、ディベート練習もできない。やることがないだけ。


思い返してみれば、池田は勝利のために誰よりも真剣で、内なる炎を秘めた男だった。本番のディベートを聞くまで、それがわかっていなかった。


でも、お互いの主義主張がすれ違って、正誤や理屈だけで物事を語れないのも、部活にはよくある衝突だとも思う。違うかな。


そんなこんなで、提出日前日にはOBの方々も交えて、日が沈むまで提出する句と順番を決めていた。

偏差値39男は「向日葵」「日焼」「蝉」の3句が決まっておらず、チームメイトや先輩の力も借りながらやっとの思いで推敲したのを覚えている。


その後のディベート練習やレジュメ作成も、自分の句なのに理解が及ばなかったりチームメイトとの意見が合わなかったりして揉めた。

どんだけ揉めれば気が済むんだ。と言うより、僕が勝手にあれやこれや悩んでただけだったようにも。


チームがちぐはぐになりそうな時も、皆が行き詰まってムードが重くなった時もあった。

そんな時はいつも、丸山が上手いこと収拾をつけてくれた。彼がキャプテンだからこそ、このチームは大会に向けて前を向けていたのだと思う。


刻一刻と、本番が迫る。



【17音の青春、幕開け。】

大会当日。の前のウェルカムパーティーの日。

僕は地歴研究部の合宿で秋田から、メンバーと合流する形で松山に到着した。

その時の格好と来たら、オレンジのシャツにオレンジのズボン、オレンジのスニーカーと、どう見てもイタいやつだった。東海オンエアてつやじゃないんだから。(当時は知らなかったけど。)

みんなはもちろん制服。引率の永田ちゃん(現顧問)の勘弁してくれって顔、今も覚えてます。

そんなイタ野郎のシャツの後ろに「北海道」という文字がでかでかと書いてあったもんで、送迎バスの後ろがやなぎー(柳元佑太)含め旭川東高校のみなさんだったことが発覚した時はもう気まずさ満点。やなぎー、ごめん!


さすがに、ウェルカムパーティーの時は着替えましたとも。ちなみに、革靴を忘れてスニーカーはそのまま。公式の動画にしっかり残っているので、探せば見つかります。デジタルタトゥーって怖いね。



1日目。灼熱の大街道。

予選は3チーム×12ブロック→トーナメント1回戦(2チーム×6ブロック)→トーナメント2回戦(2チーム×3ブロック)→3チーム勝ち抜け。最大5兼題で戦う。

現在の予選の形式(ブロック戦(4チーム×8ブロック)→予選トーナメント(1回、2チーム×4ブロック)→4チーム勝ち抜け)とは勝手が異なる。



ブロック戦。

対戦校は岐阜県立大垣商業高校、愛媛県立伯方高校(当時は今治西高校の分校ではなかった)のみなさん。

大垣商業高校とは「向日葵」、伯方高校とは「夕立」で対戦し、いずれも2-1で勝利。

これはエゴだが、自信のなかった「向日葵」の句、自信のあった「夕立」の句。いずれも勝利を飾ることができて、素直に嬉しかった。

トーナメントの組み合わせ上「日焼」は使わず、この時点で勝ち抜けが決まった。



予選トーナメント1回戦。

ここからはメンバーの句を全て使い切る5句勝負となる。

対戦校は茨木県立下妻第一高校のみなさん。


次鋒戦で僕の句が3-2と鑑賞点で勝負が動くような辛勝だったものの、蓋を開けてみれば中堅戦で決め切るストレート勝ち。


その中堅戦で、歴史が動いた。



「君たち立教のディベートは劇場みたいだね。」



それは、夏井先生が我々に向けた講評だった。


確かに、役者は揃っていたのかもしれない。

口下手ながらも一生懸命頑張る平。

特攻ナイフの橋本。

ユーモアと核心へ迫る鋭さを併せ持つ丸山。

いつ何時もマイペースを崩さない関矢。

ここぞと言う時に一撃で決め切る池田。

とまあ、こんなところだろうか。


今やお馴染み「立教劇場」は、他称だったのだ。


だからこそ、それを「武器」として使うべく自ら名乗り、その名を背負っていった後輩たちの判断と勇気を、僕は心から尊敬している。


なお、僕の「ディベート」があまりにも鋭くデリカシーがなかったせいかは不明だが、女の子を泣かせてしまったのは反省点。本当にすいませんでした。


しかし、劇にはいずれ終わりが来るものだ。



予選トーナメント2回戦。

対戦校は名古屋高校のみなさん。


先鋒で僕の句が負けた。

だけならまだしも、自信というナイフが早々に折られ、ディベートは空を切るばかり。いや、刃の無いナイフは何も切れない。次第に先陣も切れなくなっていった。

俳句の上手さ。見聞の広さ。鑑賞力。圧倒的実力差に、橋本少年は打ちひしがれるしかなかった。


結果は副将戦で勝敗が決し、3-1で敗北。ほぼストレート負け。

その強さは、翌日に名古屋高校が優勝する姿を見れば納得する他ない。


ここで「立教池袋高等学校」の進撃は幕を閉じた。

しかし、チームでは5位タイという、地方予選を惨敗していたとは思えないほどの好成績を残すことができた。

(正直、先輩方からすれば地方予選の時から「今年は無理だな、来年頑張って今は楽しめばいいよ(笑)」と冗談を飛ばすくらいには実力不足なチームだったらしい。それがここまで来るのだから、面白い。)


悔しいには悔しい。

それでも、投句審査で上がった身ゆえに失うものが何も無く、勢いのままに試合ができていたからか、不思議と涙も後悔もなくスッキリと試合を終えた。



2日目。コミセン。

敗者復活戦。兼題は「月」。

こちらは今と同様、予め集めておいたものを発表する形式。とはいえ、トーナメントに勝ち上がったチームにシード権は無い。復活枠も、1日目で敗退した33校のうち僅か1校のみだ。


正直、僕らは誰も望みを持っていなかった。

初日の結果に満足してしまったのもある(なんて考えていたのは僕だけかもしれない)が、大きな理由が他にある。

その17音に、青春が無かったからだ。

というのも、この年に定年を迎える顧問から何やらピンチの時にと預かった封筒があった。

中身は、敗者復活戦で使えるヒント。と言うより、フレーズ。もはや答えみたいなものだった。

でもそれはぶっちゃけた話僕が見ても微妙だったし、チームメンバーも全員微妙な顔をしていたのを覚えている。

しかし、制限時間内に句ができなかったことも含め、せっかくなら顧問の思い出作りも兼ねて出そうかという話になった。

結果は選外。そりゃそうだ。

なお、これはここだけの話。読みに来てくれたあなたと僕の秘密です。


ちなみに、この時よりもずっと前、兼題で「居」「待」が来た時点で、僕は「敗者復活戦の兼題、絶対「月」だよ!」と言っていたのだが、先輩にも「そんな単純じゃないよ」と諭され、結果誰にも相手にされなかった記憶がある。

この時ちょっぴり、だから言ったじゃんって思った。

ちょっぴりね。



準決勝。

開成高校と旭川東高校、名古屋高校と敗者復活戦を制した済美平成中等教育学校がそれぞれ戦うことに。

前組は激戦の末に旭川東高校が、後組はストレートで名古屋高校が決勝へ駒を進めた。



そして決勝。

大将戦までもつれ込んだ激戦を制したのは、名古屋高校。1日目で準決勝進出をかけて戦った身として素直に嬉しかったし、何より最後まで素晴らしい試合を見せてくださった両校のみなさんに、純粋に拍手を送っていた。


個人的にこの試合はバックナンバーの中でもベストバウトだと思っていて、先鋒戦の「流星を待つ」対決、大将戦で飛び出した「素裸すっぱだかですよ、素裸!」の名(迷?)言、字題における暗黙の了解だった「夏〜秋の季語を使う」という垣根を取り払った点など、どの時代から見ても面白いはずだ。

公に見られる映像が残っていないのが残念でならない。



表彰式。

入選作品で、丸山の句が選ばれた。


長い葬列日焼の子が最後 丸山峻輝


今見ても上手い。定型に押し込まず、敢えて素直に書く度胸が功を奏している。これ高2で詠めるって何? 僕25だけど多分無理よ?

今年(2024年)の句(入選の有無を問わず)を見てもそうだったが、秀句を詠むのに年齢は関係ないと改めて思った。


さて、橋本少年がワクワクしながら待っていたのは、ディベート賞。

があると聞いてたんですけど、あっれぇ〜……?


ないじゃん。


ってなったのを覚えてる。そのために頑張ってきた面もあったんだけど……って。


この年から、審査員の先生ごとに優秀賞が選ばれるようになった。

この改変により、俳句甲子園の個人賞はより一層「甲子園」要素から「俳句」に寄ったものになった気がする。


ディベート、今は「鑑賞」と言った方が適切だろうか。それが楽しくて、あるいはそれを得意として努力してきた子たちは、どこで報われるのだろう。

それは2024年現在にも言えるかもしれない。今や「名も無きエース」となった選手たちがいたと思うともったいない気がする。と同時に、それが好きだった子たちは、俳句甲子園が終わると同時にバッサリ区切りを付けるのかな、とも。

俳句ではなく「俳句甲子園」が好きで、俳句の面白さは俳句甲子園ありきで、「ディベート」ありき。それなら、卒業以降の「俳句」に魅力はないと考えても何ら不思議ではない。

それに、今戻すと「鑑賞賞」になってへんてこな感じになっちゃうから、もう復活は無いのかな、なんて。


俳句の面白さを知った、と記したが、当時の僕は上記の生徒のひとりで、高校生で俳句を辞めるつもりだった。

その僕が今もなお続けている理由は、後日公開予定の「Vol.3:再燃」で。


話を戻して、受賞作品の中で特に強く印象に残った句が2句ある。


夏果の優待券に海のいろ 上川拓真(開成)

まわし飲みで動く日焼の喉仏 中矢温(愛光)

                (※敬称略)


いずれも、この年の優秀賞受賞作品だ。前者は星野高士先生、後者は阪西敦子先生がお選びになられている。

この句たちを見た時ばかりはディベート全振りだった心にもグッと来る「俳句」の魅力を確かに感じたし、あんな句を作りたいと思った。

その後誰に話すわけではなかったけど。


「俳句甲子園、サイコー!!!」

そう叫んで、夏が終わった。


……の後に、フェアウェルパーティーがあったんだけど、正直よく覚えていなくて。

SNSもやってなかったから知り合いなんて居なかったし、ひたすらご飯食べてた気がする。あと、写真誘われて撮った気がする。

ちなみに、てつや(若林哲哉)と同じ席だったらしいんだけど、うっすらと覚えてるかなーくらいです。てつや、ごめん!


まさか7年の時を経て、フェアウェルパーティーの司会をやるとはね。(第25回、2022年)



【ボーイミーツボーイ】

2015年10月くらい、秋のとある日。

僕の4つ上の先輩・葛城蓮士さんから連絡が。蓮士さんは、立教池袋を全国初出場(第15回)へ導いた代の、言わば伝説の先輩の1人だ。

その彼に「十代句会」に誘われ、初めて部以外の句会を体験することになった。開成高校の文化祭にお招きいただいたり慶應義塾湘南藤沢高等部まで練習試合に行ったことはあったが、俳句甲子園が全く関係ないただの句会はこの日まで無かった。


会場には蓮士さんと堀下翔さん、丸山、そして……どこかで見たことがあるような制服を着た生徒さん達が4,5人。

その彼らが、こばやし(小林大晟)をはじめとする海城高校のメンバーたちだった。

加えて、ゲストに阪西敦子先生をお迎えし、10人ほどで行われた。


当時は羽田空港2階の吹き抜けで試合をしていた者同士チラッと見かけたくらいで、お互いのことはあまり認識していなかったように思う。

ちなみに彼らは、翌年に初の全国大会出場を決める。今や強豪と言われる海城高校のパイオニア的世代だ。


結果がどうだったかは流石に覚えていないが、何もかも新鮮で終始ワクワクしていた気がする。

今でこそZoomや夏雲システムといったインターネット上のツールを使っての句会が当たり前となっているが、一昔前は紙が基本。

ネットで行うとなるとLINEやSkype(今の高校生は知らない?)での通話しか方法がなく、誰かしらに句を預けて整理しないといけないため公平性にもやや欠ける面があった。

「句会」は、その場に行かなければ経験できない貴重な時間だった。


また、阪西先生より頂いた『俳コレ』、大変勉強になりました。今でも読み返す時が多々あり、実は先日も阪西先生の句を参考に俳句を作っておりました。

貴重な一冊を賜ったこと、ここに改めて感謝申し上げます。



【賞を、取りたい。】

時は少し遡り、2015年9月。

始業式を終えたばかりの部室で、僕らはせっせこせっせこと葉書を書いていた。

その年度を締めくくる高校生の一大イベントの賞、「神奈川大学俳句大賞」に応募するためだ。

しかし、如何せん締切が9月頭と余裕が無く、そのほとんどを俳句甲子園のボツ句(およびその推敲句)で埋めつくした。

さすがに全部は書ききれず、30通くらいに留めた気がする。

それでも3句1組で出すのだから、単純計算で90句。クオリティはともかく、なかなかの数を出したと思う。


その後は部全体の俳句へ対するほとぼりも冷め、11月の文化祭にて配る部誌に載せるための小説や詩などに力を注いだ。

あーほんと、見ないでほしい。あれは紛うことなき黒歴史。見るなら俳句だけにして。楓歌さん渾身のおねがい。



同年12月。

選考結果が出た。その結果は……

入選に、丸山、稲村(同級生、僕より少し前に入った。地歴研究部の部長。)、吉澤(1個下の後輩。当時1年生。)、そして、僕。

俳句甲子園で賞を取り逃しただけに、この結果は上々。

丸山は2組入選していた。流石。

1句入選の方には関矢が4句載っていたので、組み合わせ次第では結果が変わっていたかもしれない。

入選句については後ほど「Vol.2-2:句養②」でご紹介します。

僕以外の句は、『17音の青春 2016』で是非。



2016年3月。

神奈川大学で開かれたシンポジウムに参加。

開成高校のみなさんをはじめ、練習試合を共にするほどに交流があった慶應義塾湘南藤沢高等部の方々や東京家政学院のなおちゃん(大西菜生)、俳句甲子園でしのぎを削った名古屋高校のぱせりんさん(長谷川凜太郎さん)や竹中佑斗さん、後にビッグネームとしてその名を轟かす同期の、やなぎー、てつやの姿も。

当時認識してたのはそれくらいで、ぱらぱらと見返すと後々交流を持つ方々もこの場にいたんだ! と書きながらびっくりしました。

その先の縁がどうなっているかなんて、当時は知る由もなし。面白いですね。


こうして、高校2年生の俳句生活は有終の美を飾って幕を閉じたのでした。



次回、「Vol.3:再燃(〜2017年3月)」。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!

続きはまた後ほど!     茜﨑楓歌

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