二月

   二〇二九年二月一日


 近所のおばさん達と話す機会があったので、前の大家である早瀬家について少し聞いてみた。家族が次々と亡くなって、遂には自分まであんな事になって気の毒だと言っていたが、集いの隅の方にいた陰気なおばさんが、旦那さんはアルコール中毒だったと言った。随分ひどい人だったらしい早瀬恵美子から聞いたらしいが、それには他のおばさんたちが猛烈に反論していた。早瀬恵美子の夫である文夫はかなりの善人で、いつも率先して地域の人の手助けをしていたらしい。早瀬恵美子が陰気なおばさんに話した内容とは正反対の心象だった。「あんなに良い人が自殺を首を吊るだなんて、一人で抱え込んでいたんでしょうね」と一人のおばさんが言った。その後なんとなく気まずい空気になったのでその場を後にした。

 早瀬文夫は首を吊って自死したらしい。

 

   二〇二九年二月九日


 お父さんはおぞましい女に僅かな金の為に殺された。と日記に書いてあったがおぞましい女、とは誰の事なのか。


   二〇二九年二月十日


 日記に感化されて芥川龍之介の「河童」が読みたくなって古本屋に行った。


   二〇二九年二月十四日


 ドアポストがパタンと開かれた。何も入っていない。


   二〇二九年二月十六日


 座敷で寝転がっていると、おしろいをした女の仮面が二つ浮き上がって、キッチンに向かって聴くに堪えない罵詈雑言を囁いている。

 ……という夢を見た。

 夢だろう。多分。


   二〇二九年二月十七日


 バブル期よりも以前は、ここは「杉沢集落」と言われる山村であったらしい。古地図にそう書いてある。


   二〇二九年二月十八日


 失業した。しばらく暮らしていけるだけの貯金はあるので、失業保険をもらって生きていけばいい。

 あまり考えたくない。考えられない。


   二〇二九年二月十九日


 サバ……? 「306号室」が開け放たれていて、そこから尖った銀色の鼻先を見た気がした。


   二〇二九年二月二十日


 どうせ今は仕事もしていないので、この生活を満喫しようと思う。


   二〇二九年二月二十二日


 この前輪に入れて貰った時にいたおばさんの一人が、庭先で花に水をやっているところに遭遇した。体の事を心配されてタッパに詰めた食べ物を貰った。

「ここだけの話よ。あまり故人を悪く言うつもりはないんだけど。早瀬さんところの奥さんね、お金目当てで文夫さんと結婚したって噂になってたの。ほら、文夫さんて不動産持ちじゃない。それに恵美子さんて昔はスナックで働いてたみたいで、それなりに綺麗だったのよ。でも文夫さんは贔屓目に言っても……ねぇ? 不釣り合いな二人だったの。しかも文夫さんの方は再婚よ。だからそんな噂になってたみたいで……まぁでも、あのマンションを建ててからめっきり景気が悪くなったみたいだけど。あ、それとあそこにマンションを建てるのも恵美子さんの方が強く言ったみたいよ。なんでも土地がかなり安かったとか。たしかこの住宅街の中でここだけ長らく空き地にままだったのよね。どうしてなのかしらね。とにかくそれで文夫さんは押し切られたみたいなの」

 あれこれとたくさん喋るので目が回ってしまった。


   二〇二九年二月二十八日


 向かいの団地のベランダから、早瀬翔太くんが俺を見ていた! 間違いない!

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