十月


   二〇二八年十月二日


 最近会ってくれないと喚くので彼女と別れた。


   二〇二八年十月三日


 日記に出てくる時代錯誤なマンションの住人たちは、かつてこの場所にあったという刑場に因縁のある者たちだろう。


   二〇二八年十月四日


 古地図を見ていると、このマンションの建てられた空き地だけは土地開発の進む住宅街の中で長らくそのままになってて、過去何か建設されたという情報さえ出て来なかった。どうしてこの土地だけ長らく放置されていたのだろう。呪われている……から?


   二〇二八年十月六日


 座敷の黒いシミが……人型に見える。やはり、俺の中でも何か……いやコーヒーを溢したのだったか。最近ぼんやりしている事が多いのでわからない。


   二〇二八年十月八日


「死亡後スタート」「人間合格」などの怪文書もやはり「日記の男」の脳内で起きていた妄想だろうか? 少なくとも河童やサバはそうだとわかるが……頻りに出てくるのはあの怪文書は何者の仕業なのか……クレヨンで描かれていたとあったが、「日記の男」の部屋にも使い古されたクレヨンがあったと記してあった筈だ。壁にその痕跡は見られない。


   二〇二八年十月九日

 

 屋上に上がり給水塔を見てみると、微かだが何か黒ずんだ箇所がある。クレヨンで記された文字を擦って消された様な……。と言うことは「日記の男」自らであの様々な文章は記されたのだろう。日記の後半になると「日記の男」の記憶がまだらになっていた。そして日記の語り口はまるで別人のように変異する事があった。

「日記の男」の中に、何か様々なものが入り込んで体を支配していたのかも知れない。


   二〇二八年十月十三日


 そういえば「日記の男」はあれからどうなったのか。

 日記は二〇二五年の十月で途切れている。最後の文章は「すたーーーーと」だった。

 これまでの経過から考えると、死亡後に新しい人生をスタートしたという事なのだろう。気付けば屋上のヘリに立ち尽くしていたとも書いてあったので、順当に考えれば飛び降りたのだと考えられる。

 するとそこで俺は、先日に見た「二年半前にもこのマンションで飛び降りがあった」と言うネットの書き込みを思い出した。だがやはり、日記の途切れていた二〇二五年の十一月にここで飛び降りがあったという情報は調べてみてもヒットしなかった。同日には近隣でも事件や事故のあった記事は見つけられない。一体どういう事なのだろう。しかし何と奇妙な符合だろうか、タイミング的にこの日記が途切れる時期と合致する……するとやはりこの「日記の男」は……。


   二〇二五年十月十五日


「日記の男」はここを河童の国だと言っていた。芥川龍之介の晩年の作品「河童」に影響されたのだろう。そして彼は自らを「河童」に出てくる主人公の二十三号だと揶揄していた。「河童」に出てくる「第二十三号」というのは精神病患者で、河童の国に行ったという話は、第二十三号が誰にでも話すといった話の内容の事だ。

 つまり彼は自らがおかしくなっていく事を理解していたのだろう。そしてその上で狂いゆく自分を享受していた。日記の後半にある独白めいた文面からもそれは伺える。

 彼はきっと河童の国へと旅立ったのだ。しかしここで飛び降りたのでなければ彼は何処へ行ったのか。

 ……しかし、俺も精神科の看護師として長年そういった患者たちを間近に見ていて思う事はある。

 彼らの中には少なくとも、妄想の世界から出て来ないものがいる。

 つまりあの独白は非常に的を得ている。

 彼らにとって現実の世界はあまりに辛く厳しい。そうして妄想の殻に閉じこもっていた期間が長くなればなるほどに、現実世界に対するブランクが嵩んでいって余計に生きづらくなってくる。そうすると今のままで良いと考え出す。妄想の世界は彼らに優しい。彼らの妄想は彼らにとって都合がいい事だけを嘯いてくれる。彼らにとってはその妄想の世界こそが真実……真実であるとそう、思い込まなければ、生きていられないのだ。


   二〇二八年十月十七日


 そういえば、玄関先に貼ってあったお札がなくなっている。剥がれて風に乗って行ったのかと考えながらゴミ出しをしていると、ゴミ捨てスペースの隅に丸められたお札を見つけた。

 このマンションは本当に、まずい所なのかもしれない。気が昂った。


   二〇二八年十月二十日


 向かいの広場に祠があるのはおかしいと気付いた。仮にそこに転落した早瀬翔太くんを祀るものであるとしたら、地蔵ではないのだろうか? 祠は神様を祀るものだ。


   二〇二五年十月二十一日


 外からひなまつりの歌が聞こえてくるので外に飛び出してみると、向かいの広場で猫が集まってくるくる回っていた。

 着物の少女の正体見たり。


   二〇二八年十月二十二日


 一晩中ひなまつりの歌が頭に聞こえてくる気がして、何度も何度も玄関を飛び出しては向かいの広場を見下ろした。猫はもういない。まぁ、頭の中で音楽がループするなんてのはよくある事だ。変じゃない。俺は変じゃない。

 寝不足が祟って仕事を休んだ。昼頃に起き出してあの日記を読み直す。


   二〇二八年十月二十七日


 夜中にチャイムが鳴った。早瀬翔太くんかと思って勢い良くドアスコープに顔を押し付けたが、誰もいなかった。


   二〇二八年十月二十九日


 そういえば早瀬翔太くんの言う「埋まっています。助けてください」とは何の事なのか。向かいの広場に早瀬翔太くんが転落したとすると……墜落した際の衝撃でバラバラになった遺体の一部があの広場に埋まっているのだろうか? それにあの祠は何を祀っているのか? わからない。ただ「日記の男」も一度シャベルを持って広場で何かを掘り起こしていたなと思い出す。駄目だ。思考が遅くなっている。歳だろうか? このマンションに来てから考える事がままならない。

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