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   *

   

 更新期日ギリギリまでアパートでの退去作業に追われていたが、どうにかこうにか新天地での生活を迎える事ができた。

 荷下ろしを終えた引越し業者のトラックが遠ざかっていくのを、俺は一階の共同玄関先から見送っていた。

 見上げれば、それなりに年季の入った外観の白い四階建てのマンションがそびえていた。

 マンションというから数百戸規模のものを想像していたのだが、想像よりもえらくこぢんまりしている。とはいえマンションとアパートには明確な定義が無いのだから、三回建て以上の建物はマンションと呼称して相違ないのだろう。

 「……か」

 ここが自分の家になるのか、と思うも未だ実感は湧かないでいる。

 マンション――。

 岡井はそうこのマンションを表現した。入居者は一年保たずにここを出ていくか、失踪してしまう。

 家賃は二万八千円。1LDKとしては破格である。マンション前の六台あるだけの狭い駐車スペースには、塗装の掠れた古い自家用車が数台停まっていた。俺のSUVが高級車に思えてしまう始末だった。

 単に低所得層の住む様な物件であるから失踪などが相次ぐのではないかと、それくらいに考えていた。

 マンションを出てすぐの所にブロック塀で仕切られたゴミ捨て場があり、青いネットがかけられていた。一階にある集合ポストにはまちまちと名前があるくらいで、今現在このマンションの住人が三割にも満たないという事がわかった。

 岡井の言う事が本当なら、ここに名を連ねた人たちは入居して一年未満の者という事になるのだろう。……まぁそんな迷信など。多少の指標くらいにしか考えていないが。厳密には全員が全員そうでなくとも、何かそう言われる所以があればそれで良いのだ。現実にそんなホラー映画さながらのマンションなどある筈もないという事くらいはわかっているつもりだ。

 天井の隅に丸々と太った蜘蛛が這い回っていた。罠にかかった蝶が僅かにも動き出さないオブジェクトに変わり、無数の蜘蛛たちの餌食になっていた。元々濃い緑色をしていたのであろう廊下は塗装が剥げて白く掠れていて、それぞれの部屋の玄関扉は赤茶けた鉄扉だった。埃の被った洗濯機が玄関先に置かれている。向かいにそびえた団地の三号棟はどうやら無人のようで、玄関を出ると正面に無数の空室が見えるのは少し不気味に思えた。

 部屋の間取りは思ったよりも広く、やや陰鬱とした外観と比較して小綺麗にも思われた。玄関上がってすぐのところが台所で、左手にユニットバス。襖で仕切られた先は座敷になっていて、畳も綺麗に張り替えられている。もう一枚襖を開くとフローリングの居間になっていて、その正面にベランダへと続いたすりガラスがある。

 これなら暮らしていけそうだ。

 改めてそう思い、少しほくそ笑むと、玄関上がってすぐの台所にある換気扇のスイッチを「強」にして、その下でタバコを吸い始めた。

 

 …………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。


 五臓六腑に染み渡る妖艶なる紫煙を吸い込みながら、俺はその頭に岡井の言っていた話を薄ぼんやりと回想していた。

 ここは数年前まで大家が自主管理をしていた物件であるらしいのだが、半年前に委託があって岡井の不動産業者が管理を任せられる事になったらしい。大家側に何か事情があったのか、岡井の不動産業者が管理を任せられるまでどういう訳だか新規入居者を断り続けていたらしい。それで入居者がまばらにしかいないのだ。このマンションは何年も前から曰く付きとして近隣で物語られていたので、何かその点に起因する物事があったのかもしれない。という曖昧な表現を用いるのには勿論理由がある。当時を知る「早瀬家」の大家がもうこの世にいないのだ。噂では、当時このマンションの一階に住んでいた大家にも不幸がたて続き、義母、夫、息子、娘と順々に失っていき、今から半年前に自らも……。これもまぁ脚色された様ないかがわしい話ではあるのだが、少なくとも五年前に息子の早瀬翔太くんが事故で屋上から転落死したのは当時地元新聞にも掲載された様で、確かな事ではあるらしかった。現在このマンションの所有者となっているのは「対馬眞子つしままこ」という六十代の女性で、半年前までこのマンションの所有者となっていた「早瀬恵美子はやせえみこ」の実の姉という関係であるらしかった。早瀬家には他に親類が無かったらしく、早瀬恵美子の死亡後、権利関係がこちらに移ったとの事だ。

 なんとも複雑な話だ。

 まぁいずれにせよ、以上の経緯から、現在では当時を知る早瀬恵美子ではなく、その姉の対馬眞子がこの物件の貸主となっている訳である。予想される経緯として、半年前に突如として降って湧いた曰く付きの不動産管理に辟易した対馬眞子が、岡井の不動産業者に管理を委託したとか、そんなところだろうと思う。

 すぅう、煙草を吸い上げて、けたたましい物音を立てて回転する換気扇へと煙を吹きかけた。

 少なくともこのマンションでは五年前に屋上からの転落死事件があった。そして現に入居者の出入りは非常に激しかったらしく、当時から相場の半値程の家賃で各部屋を貸し出していたとの事だ。そう思うと、一年保たないという曰くもあながち嘘ではない。もしかしたら現在このマンションに入居している者たちも、岡井の不動産業者が介入する様になってから新規入居者して来た者たちなのかもしれないと思った。

 それにしても、岡井の奴はああ見えて抜け抜けとしている。

 ――「別にそこで殺人事件があったとか、特殊清掃が必要になった事例なんかがある訳ではないんです。築四十年なんで長い歴史の中で自然死や事故なんかはあったかもしれませんが、まぁそんな事は何処の物件にも言える事ですよね。この世に人が亡くなってない土地なんてないですから」

 なんて言っておきながら、しっかり人が死んでいる。それも痛ましい事件だ。

 しかしまぁ調べて見ると、確かに集合住宅の共用スペースでの死亡事故などには告知義務がないらしい。


 令和三年十月八日に国土交通省より発表された「宅地建物取引業者による人の死の告知に関するガイドライン」によれば、

賃貸貸取引の場合 

「原則として、告げなくてもよい」

・対象不動産で発生した自然死・日常生活の中での不良の事故(特殊清掃なし)

・対象不動産の隣接住戸・日常使用しない共用部分で発生した「自然死・日常生活の中での不慮の死(特殊清掃なし)」以外の死*事件性、周知性、社会に与えた影響等が特に高い場合はこの限りではない。

「取引の相手方等の判断に重要な影響を及ぼすと考えられる場合は告げる必要」

・対象不動産・日常使用する共用部分で発生した自然死・日常生活の中での不慮の死(特殊清掃あり)

・対象不動産・日常使用する共用部分で発生した「自然死・日常生活の中での不慮の死」以外の死

 となっている。

 しかし上記のガイドラインには賃貸借取引にのみ明記され、売買取引に関しての明記がない項目がある。それが「」――いわゆる希釈期間と言われるもので、上記の告知義務に該当する項目も、という希釈期間を過ぎればのである。


「屋上からの転落死は元より、三年以上経過した案件に関しては告知義務はない……か」

 岡井の奴もああ見えて油断ならない野郎だな、と自嘲混じりに煙を吐き出すと、煙が輪になって換気扇に吸い込まれた。

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