田辺郁弥

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   【田辺郁弥たなべふみや


 八月いっぱいまでの今住んでいるアパートを退去しないと、十万円の更新料発生するという通知ハガキがポストに投げ込まれた。

 今住んでいる二階建てのアパートは駅近だしコンビニも目の前にあるので気に入ってはいるのだが、幾分家賃が高めな事が懸念点だった。不況の煽りもあってか俺の給料では月五万八千円という家賃がやや痛手に感じられて来る頃合いでもあった。

 そう言った世知辛い背景があって、俺は近所の不動産業者へ足を向けた。

 俺の提示した条件「家賃五万円以内 更新料なし 駐車場代込み 京阪線まで十分以内 1LDK」は人気のベッドタウンでは中々に厳しいものがあるらしく、何件か物件情報をプリントしたものを見せられはしたが、提示された物件はいずれも、相当に年季の入ったものか間取りを手狭に感じたりするもの、治安の悪い所に建つものばかりで、どれも俺の食指を動かすには至らないでいた。

 せめて家賃を六万円以内にしないか。駐車場代は別でもいいか。駅から少し離れた所だがどうだろうか。俺の担当をしてくれたずんぐりむっくりとした体型でペンギンの様な顔立ちをした「岡井おかい」というまだ二年目だという若い不動産業者の男は、そんな提案を俺に持ち掛けて来た。けれど俺も、これから何年もそこに住む事になるのだから妥協はしたくは無い。今住んでいる物件よりも良い条件でなければ引越しをする意味がないではないか。しかし更新料十万円を支払うのは癪に触るので、今月中には転居を完了しておきたい。

 そんな俺の無茶な条件に岡井はしばし頭を抱え、「少し提示された条件とは違うのですが」なんて言いながら駅から三十分も離れた物件を内見させたり、共同玄関前に吐瀉物の吐かれた歓楽街の中の物件を紹介したりと、中々に腑抜けた奔走をしてくれたのだが、やはり物件選びは難航を示し続けた。

 その日の内には結局希望の物件には巡り会えず、岡井が一度持ち帰って検討すると言うので、俺は後日再び不動産業者を訪れた。

 日曜の午前中の事だった。約束した時間に俺が岡井の元を訪れると、彼は尖った口元をにんまりと歪ませながら、開口一番こう言ってのけたのだった。

「田辺さん、でもいいですか?」

 俺がやや困惑していると岡井は「え、でもさんって、本業とは別に怪談師もしているって言っていませんでした」と言われ、そう言えば岡井の運転する社用車で内見に向かう車中でそんな話もしたなぁと思い出してきた。

 岡井の言う様に俺は本職である看護師とは別に、怪談師という、趣味が高じて発生したような一面を持っていた。とは言え毎月「怪談サークル」という奇体な社会人サークルに顔を出し、車座になってそれぞれ持ち寄った怪談を披露する程度の事で、客前でやるというのも滅多にしないし、俺という人間にもこんな酔狂な一面があるぞ、と伝えたい時にだけ、時折垣間見せるささやかな一面でしかなかった。

「え、怪談師って、心霊スポットに行ったりするんですよね」

 むしろ怪談師という者の方がその手の行動の恐ろしさをよく知っているからか、心霊スポットなんかへは行かない人が多いのだが……まぁ確かに怪談師の中には心霊スポットに足繁く通ったり、事故物件に住んでみたりする体当たり系の人種が一握り程度いるにはいる。

「別にそこで殺人事件があったとか、特殊清掃が必要になった事例なんかがある訳ではないんです。築四十年なんで長い歴史の中で自然死や事故なんかはあったかもしれませんが、まぁそんな事は何処の物件にも言える事ですよね。この世に人が亡くなってない土地なんてないですから」

 ペンギンが得意げに口角を上げているのを認めて、俺はしばし考えてみた。

 確かに俺は怪談師をしているし、その活動に生きがいさえ感じていたりもする。怪談師なんてのは仮に有名になったところで金になる様なものでもないのだが、日々そうした目線で周囲の物事を観察していると、ふと違った世界が垣間見える事がある。

「怪談サークル」に参加してもうすぐ一年。最近ネタが尽きて来た。ともすれば岡井の持ち掛けて来たこの提案は俺にとって、怪談師としての今一歩の躍進と、理想の物件とが同時に叶う最高の提案なのではなかろうか。

 俺の意を決したかの様な表情にその真意を汲み取ったか、岡井は早くも勝ち誇ったかの様な笑みを携え、こう言った。

「いつからか、住んだ人が一年保たないと言われているマンションです」

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