第六章 霊亀討伐(9)
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月瑤の姿をした霊亀は深く息を吸い、ふううと長く吐き切った。眉尻を下げて薄らと微笑んだのは、悲しみなのか諦めなのか。
どちらにせよ、儚くも美しい月瑤は、瑞獣を宿すに相応しい高潔さを感じた。
(荒れた国で美しさを保っているのは霊亀の力? でも、天子は聖護さまよね……?)
瑞獣が宿るのは天子だけのはずだ。だが、視界に収められる範囲に聖護の姿はない。
わけがわからず、陵漣に尋ねようと思ったけれど、詩響の胸の内で熱が蠢いた。
(熱っ! なに? 鳳凰陛下? 陛下、なにかあったのですか?)
病気で生じる発熱とは違う熱が体内に広がった。詩響の額から、ぽたりと汗が落ちる。
詩響は熱の意味もわからないうちに、陵漣の剣は霊亀の首に当てられていた。
「相変わらずのようだな。お前は会うたびに身体が違う。それは何体目だ?」
「さて……」
全員が緊張した空気に身をすくめていたけれど、詩響は一歩踏み込んだ。
(変だわ。口調の音程も音階も、いつもの殿下とは違う……)
詩響にとって、会話は旋律だ。話す時の癖は音階となり、人それぞれ異なる。
発せられた陵漣の旋律は、聞きなれた音の運びとはまったく違う。まるで別人に入れ替わったようで、そろりと陵漣に近づき顔を見る。
顔は陵漣だった。間違いなく陵漣だ。けれど、瞳が炎のように光っていた。紅玉など霞むような輝きは鋭く、恐ろしさも感じる。この揺れる赤い輝きには見覚えがあった。
(鳳凰殿下だわ! 陛下が殿下の体を使って話してるんだ! 代弁って、言葉そのまま、体を貸すっていうこと!?)
瑞獣と天子の係わりかたなんて、具体的にどうするものか考えたことはなかった。天子に宿るというのは、単に姿を現すことだとばかり思っていた。
だが、物理的に身体を貸すことが『代弁』ならば、霊亀も同じことをするはずだ。
(月瑤さまは媒介にされているんだわ。私のように力を分け与えられたのかもしれない。それじゃあ、月瑤さまは生きているんじゃ――え? 屠るって、霊亀だけよね……?)
目的は霊亀の死だ。媒介になっている人間を殺しても、霊亀は死なないかもしれない。
けれど陵漣は、月瑤の首に剣を添えたままだ。身体を動かしているのが陵漣ならば、無下に切り捨てたりはしないだろう。
けれど今の陵漣は鳳凰だ。詩響は、鳳凰がどうするか想像も付かなかった。
「私は役目を果たしに来た。道を踏み外した瑞獣を滅することが私の役目。人を焼かぬ炎は瑞獣を焼くためにあると、当然知っているな」
陵漣の声で、陵漣とは違う口調で音が紡がれる。今発せられている言葉は、陵漣のことではなく鳳凰のことだ。
(……瑞獣を屠るのが鳳凰陛下のお役目だったんだ。道を踏み外したっていうのは、侵略のこと? いえ、違う気がする。だって、聖賢は『下劣』とおっしゃった)
侵略は許されないことだが、行動への感想が『下劣』はそぐわないように感じる。
もっと恐ろしいことをしたのではないのか――嫌な予感がした。予感は的中していると言うかのように、詩響の体内で熱が弾ける。
なにかあるはずだ。詩響はじっと霊亀を観察した。
(荒廃の中でも美しいままなのは、霊亀がなにかしているかしら。けど人間の手でも保てるわ。月瑤さまを人質に、聖賢さまが世話をさせられていたかもしれないし)
ちらと聖賢を横目に見ると、恨みの火が灯る瞳で霊亀を睨んでいる。瑞獣への敬意はかけらも感じられない。
(やっぱり、下劣というのが気になる。それに聖護さまはどうなさったの? 原因は聖護さまだと言ってたけど、いったいなにを――)
詩響は、聖賢の睨む霊亀を見つめた。すると、月瑤の体の異変に気がついた。
月瑤の腹は膨れている。肥満ではなく、腹だけが丸く膨らむ様子は、詩響にも見覚えがある。廉心が生まれる前、母の腹が同じように膨れていた。
「……妊娠、しておられるのですか?」
想像しうることを言葉にすると、ずるりと聖賢が床に座り込んだ。顔は青ざめて、ぶるぶると震えている。腕で体を支えることも辛いようで、理人が抱くようにして支えた。
理人はぎろりと霊亀を睨んだ。聖賢と同じように憎々しげな表情で、切り付けるような鋭い音で言葉を発した。
「中身は霊亀だけど肉体は人間。子を成すことはできるよ。だから下劣なんだ、そいつは」
「妊婦の体に宿られたのですか? 出産は死の危険もあります。もっと屈強な人物をお選びになったほうが良かったでしょう」
「違うよ。霊亀は月瑤の肉体へ宿った後に身籠ったんだ。それこそが、天子聖護が姿を消した理由だ。下劣というのは、とても的確な表現だよ」
びくっと聖賢の体が揺れた。もう一人で座ることもできなくなってしまったのか、全身を理人に預けている。今にも倒れてしまいそうだ。
(月瑤さまの望まぬ妊娠を強いたの? けど、皇女殿下なら政治的な婚姻よね。それだけなら下劣とは言えない。それに、聖護さまが姿を隠すのは変だわ)
皇族や地位のある者は、国交を目的とした婚姻を結ぶ。想う相手と結ばれることなど、まずない。だが、子を成したならば、相手との関係は、より強固になっただろう。
それなのに皇帝である聖護が消えてしまったら、なんの意味もない。聖護の消えた先を考えようとしたが、その時、陵漣は月瑤の首にあてがっていた剣をわずかに引いた。
刃の通った皮膚はわずかに割かれ、つうっと真っ赤な血が流れる。
「聖護は鳳凰国で自害したぞ」
びくりと震えたのは霊亀だった。聖賢は、なぜかほっとしたような顔をしている。
「聖護はお前の下劣な行いに苦しみ、嘆き、死を望んだ。しかし、霊亀国内ではお前が守るから死ねない。だから鳳凰国へ来た。お前を恨みながら聖護は死んだ」
ぐっと霊亀は拳を握り震えた。俯き、長い髪に隠された表情は見えない。けれど細い肩は震え、手は縋るように腹を撫でている。
弱弱しく消え入りそうな姿は、母となり子を育てるには不安を覚えるほどだ。霊亀であり娘ならば、聖護は傍で支えるべきだろう。
「聖護さまはなぜ自害を? 霊亀に選ばれるなんて、これ以上ない名誉ではありませんか」
「天子に選ばれたことは喜んでいた。私も祝った。だが、霊亀はその想いを踏みにじった」
陵漣の体を動かし、鳳凰は霊亀の腹を指さした。
「霊亀は皇女の子――我が子を次期皇帝にすると決めた。月瑤の腹の子は皇帝の実子だ」
「実子? 皇帝は聖護さまですよね。聖護さまは皇女殿下の父君では――……え?」
詩響は一瞬で理解した。聖賢が霊亀を下劣と蔑み、聖護の死に安堵した理由を察した。
「まさか……霊亀は、皇女殿下のお身体を、使って……」
古びた扉のように、ぎぎぎと鈍く首を動かし、確かめるように月瑤の腹を擦る霊亀を凝視する。消え入りそうな月瑤の腹を、母のように撫でる姿は怒りが湧きおこる。
「瑞獣は人間と想いを交わすことなどない。だが、なにかの拍子に、人間へ強い想い入れを持つことがある。それは家族愛であったり友情であったり」
陵漣の剣の切っ先が月瑤の腹に向けられる。そして、誰もが聞きたくない言葉が出た。
「異性としての愛であったり」
鳳凰の媒介となっている陵漣の顔には、燃え盛る炎のような怒りが迸っている。涙を流す聖賢からも、同じような熱を感じた。
「天子は瑞獣に逆らえない。概念ではない。瑞獣が身体の支配権を握り、思うように動けなくなる。今の、これのように」
陵漣の剣を握っていない左手が、陵漣の胸に置かれた。やはり『代弁』は体を差し出すことだったのか。
「天子は瑞獣に従う。どんなに非人道的な命令であっても、瑞獣の意のままだ」
「では……聖護さまの自害は……」
「愛娘を絶望に突き落とし、禁忌を犯した罪の意識に耐えられなかったんだ」
聖賢が、わああ、と声をあげて泣いた。埃の積もる薄汚い床に、ぱたぱたと涙が飛び散る。悲痛な叫びは詩響の胸にも突き刺さった。
詩響の中で鳳凰の熱が蠢き、怒りという爆薬に着火した。
「それが瑞獣のすることですか。私欲を満たすために君臨するのが瑞獣なのですか!?」
霊亀は応えなかった。俯いたまま、腹を撫でるばかりだ。うう、と小さなうめき声が聞こえてくるけれど、嘆きすら不愉快だった。
「誰も同情などしません。残されたわずかな民のためにも、あなたは消えるべきだわ!」
復興などできはしない。したくもないだろう。ここまで荒廃に追いやった霊亀による新たな統治など、従う国民がいるはずはない。
怒り任せに叫んだ詩響だったが、呼吸が整う前に、陵漣の剣は鞘に納められた。鳳凰は陵漣の体で詩響の前に立ち、にいっと笑う。
「よく言った。ここからはお前に任せよう」
「……へ?」
「天子のために役目を果たせ。お前の役目を」
「役目? なんのことですか。私に任せるとは、いったい――っ!」
ぱちぱちと体の中で火花が散った。刺さるような熱さによろめくと、力強い腕に抱き留められた。腕は、陵漣のものだった。
陵漣は、いつもあくどい顔をしている。言葉も態度も悪くて、腹の立つことは多い。
けれど本当は、穏やかな人なのかもしれない。そう思えるほど、詩響を見つめる陵漣の苦笑いは苦しそうだった。
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