第四章 詩響と犬の災害救助(3-2)

 詩響と朱殷が宮廷に戻ったのは、夜が明け空の白む頃だった。

 廉心が言うには、犬は宮廷に入らず。鎮火したらすぐにいなくなったそうだ。きっと、犬を恐れる人もいるから帰ろう――そう、犬たちは配慮してくれたのだろう。

 犬の代わりではないが、猫は宮廷内に残っていた。庭や門の近くなど、手当ては必要ないけれど、気が滅入っている人の傍で愛らしく尻尾を振っている。

 子どもたちは喜び、遊ぶ元気を取り戻す者も多かったようだ。子どもが笑顔だと大人も気持ちが浮上したようで、手当てや瓦礫の片付けへ率先して参加してくれた。

 これかでのことがあっても前向きになれたのは、言葉の通じない動物のおかげだ。


(有難う。本当に有難う)


 詩響は感謝を綴る旋律で歌った。陵漣は絶対音感の意思疎通は素晴らしいと言ってくれたけれど、本当はそんなものは、必要ないのかもしれない。

 そう想いながら、詩響は歌い続けた。いつしか足元に犬と猫が集まり、人々の視線をも集めていたと気付くのは、まだしばらくあとだった。


 詩響は倒れるように一晩眠った。目が覚めると昼を過ぎていて、廉心と朱殷は災害の救援作業を手伝いに行っていた。

 付きっきりで看病をしてくれていたのは翠蘭で、陵漣も同じように倒れて寝こんでいると聞かされた。今もまだ眠っているらしく、会いたいと頼んだけれど、皇太子の寝所へ異性が入ることは許されない。

 お世話をさせてほしかったけれど、できるのは備蓄品の配布の手伝いだけだった。

 もどかしい気持ちと、なにもできない口惜しさで落ち着かない。夜になってもなかなか寝付けず、詩響は散歩に出た。行っても入れないけれど、なんとなく妖鬼を捕らえている檻――職場へ足を向ける。


「……あれ? こっちだっけ?」


 珍しく妖鬼と対話したいと思ったけれど、陵漣の言ったとおり、あっさりと迷った。

 あっちだろうか、こっちだろうか、とうろうろするうちに本格的に迷ってしまう。廉心にも黙って出てきたので、下手をすれば夜を明かすことになってしまう。

 詩響は焦って来た道を戻ろうとしたが、暗いので道を見誤りそうで危うい。これはもう、大人しくしているほうがいいかもしれない。


「救援活動の忙しい最中に、こんな馬鹿な理由で迷惑かけるなんて……」


 自分自身に呆れて座り込むと、ふいに通路の奥に灯りが見えた。人がいるのだろうかと、詩響はぱっと顔をあげ、慌てて駆ける。

 灯りの元へ行くと、隠されているような祠があった。宮廷の建物にしては、妙に手作り感がある。隣には小さい石碑もある。暗くて刻まれている文字は読めない。

 石碑の前に、誰かの座り込む影があった。手を合わせて祈っているのは、倒れて眠っているはずの陵漣だった。


(殿下? こんな時間にどうなさったのかしら。もう具合はいいの?)


 そっと陵漣に近づいたが、詩響の足は固まった。横から見える陵漣の頬に、涙が伝っていたからだ。


(涙⁉ あ、どう、どうしよう。ここにいてはいけないわ)


 見てはいけないものを見てしまった――詩響は逃げようと脚を引いたけれど、小枝を踏んでしまい、ぱきんと音がした。音に気づいた陵漣は振り向き、目が合ってしまう。

 陵漣はぱっと涙を拭い、平静を装って上着を詩響に掛けてくれる。


「なにをしてる、こんな時間に。いくら宮廷内とはいえ、女一人では不用心がすぎる」

「殿下こそ。こんな時間に一人歩きは感心しませんよ。お立場を考えてください」

「ははっ! お前に説教されるようじゃ、俺もおしまいだな」

「どういう意味ですか……」


 陵漣は楽しそうに笑った。けれど、本音を隠す笑いであることは、さすがに分かる。

 思わず陵漣の手を合わせていた石碑を見たけれど、やはり暗がりで文字は読めない。

 詩響の視線に気づいた陵漣は、ようやく、寂しそうに微笑んでくれた。陵漣は石碑の前に膝を付き、そっと石碑を撫でた。


「これは、俺の個人的な慰霊碑だ。鳳凰陛下が殺したすべてのいしぶみ


 ぎゅっと、心臓が縮こまる気がした。

 鳳凰陛下が殺した、という不遜な言葉を平然と言うことは恐ろしい。けれど実際、今回の一件による死傷者は鳳凰の熱による被害も大きい。

 瑞獣を足蹴にするような言葉は、許されるはずがない。それなのに、陵漣はけろりとしていた。身に宿す鳳凰は、陵漣の言葉を受け入れているということだ。

 詩響にはなにも言えなかった。そうですか、とも、言いすぎです、とも。なにも言葉はでなかった。詩響の心中を察してくれたのか、陵漣は優しく微笑んでくれる。


「今回は助かった。おかげで、被害は最小限にとどめることができた。死人もいない」

「……いえ、そんな」


 少し前なら、褒められて喜んだだろう。けれど詩響は見ていた。妖鬼に襲われた怪我で亡くなった者、犬の脚と嗅覚でも間に合わず重症に陥った者。多くの民は家も財も失い、これからの生活に不安を抱えている。宮廷職員も、突如降りかかった救援活動と生活支援に東奔西走し、疲労困憊していた。

 仕方ないことだ。妖鬼に殺されるよりは、ずっといいだろう。それでも思ってしまう。


(私が最初から協力していれば、炎による死傷者はなかったかもしれない……)


 妖鬼襲撃の報せが来た時に生じていた死傷者は、詩響ではどうしようもなかった。けれど、最初から陵漣と救助へ出ていたら、助けられた人数はもっと多かったはずだ。

 詩響は俯き、声を絞り出した。


「申し訳ありません! 私が隠れたりしなければ、こんなことにはならなかった!」


 陵漣が涙し、石碑に祈ることはなかっただろう。陵漣の涙は、詩響のせいだ。


「謝ってすむことじゃないけど、でも……申し訳ありません……!」


 泣いていい立場ではないだろう。けれど、涙はとまらなかった。炎や熱で死んだ者がいるとは聞いていない。けれど、気を使って言わないでくれているだけかもしれない。今は無事でも、後遺症の残る者はいるかもしれない。

 涙は流れ続けたけれど、陵漣はいつものような悪態はつかず、涙を拭ってくれた。


「俺も配慮が足りなかった。妖鬼を恐れるのは当然だ。それに、お前のせいではない。災害の備えをしない政治体制に問題がある」

「政治体制? 災害の備えっていうと、廉心が村でやっていた、備蓄とかでしょうか」

「廉心はしっかりしてる。宮廷にも、お前たちのように思いやりで即動く者が必要なんだ」

「ええと、政治というのは、民の生活を良くするための物ですよね。なら、思いやりだと思います。殿下だって、教育の充実をお考えなんですよね」


 詩響は不思議に感じて首を傾げる。すると陵漣は、苦笑いを浮かべてから、宮廷の建物を見上げた。


「鳳凰国は問題の多い国だ。水不足は最たるものだが、他国に比較すれば文明が低いのがなによりの課題。だから鳳凰陛下の熱気対策もとれない」

「そうなんですか? すみません。他の国のことはあまり知らなくて」

「だろうな。書院で学ばなければ知らない話だ。だが他国の庶民は、鳳凰国のことを知っている。水や食に飢えることがないから、遊び、学び、成長する余裕を持っている」


 ああ――と、詩響は即座に理解した。生活に精一杯で学ぶ余裕を持てないのは、廉心がそうだった。きっと、国内のあちこちに廉心と同じような子がいるのだろう。


「鳳凰陛下は、四霊の中でも特別なお役目を担われておられる。灼熱の炎は致し方のないこと。だが民へ苦労をかけることは憂いておられる。これ以上は苦を増やすまいと、ご自身の活動を制限なさっている。だがそれは、国力の低下と同義。民は自ら生活を支えねば、いつまでたっても鳳凰陛下はお力を発揮することができない」


 当然のように語る陵漣の話に、詩響は少しばかり驚いた。詩響の瑞獣への認識から、ずれているからだ。


(瑞獣は象徴のような存在と思っていたけれど、そうじゃないのね。鳳凰陛下の役目とは、なんなのかしら)


 この世界の創世記は史実だとされる。だが『なるほど』と理解してる者は、多くないだろう。瑞獣を肉眼で見ることなど、まずないからだ。

 瑞獣に選ばれた天子が瑞獣の意を代弁するというのは、そういう伝承だと思っていた。


(そういえば、鳳凰廟を壊したことも知ってらした。鳳凰陛下と国民は、目に見えないけれど、物理的なつながりがあるんだわ)


 そこまで考えて、はたと思いだした。陵漣が村へ来た理由は鳳凰廟ではなく、子どもの教育だと言っていた。


「もしや殿下は、鳳凰陛下を支えるに足る人材の教育をお考えなのですか?」

「そうだ。だから廉心には太学を首席で卒業してもらい、禁色を持たせるつもりだ」

「……へ?」


 話が神に等しい瑞獣から、もっとも身近な弟に移って詩響の声はうわずった。

 賢い子だと思っていた。今回だって、猫にも頼もうと提案してくれたのは廉心だ。認められ、良い教育を受けさせてもらえるなら、こんなに嬉しいことはない。

 けれど禁色なんて、良い教育どころの話ではない。皇太子という存在の価値を軽く見すぎていたと、詩響は今更ながらに理解した。

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