第四章 詩響と犬の災害救助(1)
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地下で勤めを始めて三日が経った。
朝昼晩の食事は部屋へ戻って取るけれど、食事以外は基本的に地下に籠る。廉心だけは、昼を食べたあと部屋で勉強をしていた。
陵漣は皇太子としての仕事もあるようで、わずかに顔を出しては嫌味を言って帰る。
昼から夜は朱殷と二人になり、外へ出るのは休憩がてらにする散歩だけだ。本当に朱殷以外とは会話をすることがなく、詩響の聞く音は妖鬼の叫び声ばかりだった。
最初は朱殷にしがみつくことで恐怖を耐えていたが、三日も経つと、思いの外、落ち着いて向き合えるようになっていた。
落ち着いたとて姿は恐ろしく、歌う時は目を合わさず天井へ向けて歌っている。
今日も朝から、妖鬼は元気に叫び続けている。
詩響は聞き飽きた音でも、些細な違いがあれば書き留めた。書き留めた紙を見ると廉心は考え込むけれど、なにを考えているかわからなかった。
暇だから、とやって来た陵漣と廉心は小声で話し、時には地上へ出て話す。なにを話していたのか尋ねても、毎回教えてもらえないので、もうあきらめた。
(私って、本当に音を聞き出して、廉心の譜面を歌うだけね。あーあ……)
心的疲労の積み重なった詩響は机につっぷした。唯一の話し相手である妖鬼を見つめても、やはり金切り声をあげるだけだ。慣れた今、鉄格子を揺らす姿は同情を禁じ得ない。
「あなたも出たいわよね。わかるわ。ずっと薄暗い地下なんて、気が滅入るもの」
陵漣へ嫌味でも言ってやろうと思って呟くと、突如、陵漣に腕を引っぱられた。いきなりのことに驚き、詩響は目をぱちくりさせる。
「なんですか。いくら私でも、もう少し丁寧に扱っていただけませんか……」
「そんなことはどうでもいい! 妖鬼の言語がわかったのか!」
「え? いえ、わからないですよ。廉心にわからないなら、私はわかりません」
「だが今、会話をしていたじゃないか! 気が滅入っていると言っていたんだろう! 俺を見ただけで叫ぶのはどういう理由だ!」
陵漣は激しく驚いたように叫んだ。妖鬼の金切り声より大きくて、思わず眉をひそめた。しかも、言っていることは見当違いだ。
「わかりませんって。今のは一方的に言っただけです。だってこの状況じゃ、どう考えても『出たい』ですよ。大体、この部屋へ来る人は限られてるんですよね。なら殿下だけが叫ばれますよ。殿下しか来ないんだから」
しん、と静まり返った。陵漣も廉心も、朱殷も詩響を見て目を丸くしている。
「え? なんですか? 普通そうじゃないです?」
「それは『人間だったらこうだ』という、人間の『普通』だ。こいつらは人間じゃないのに、なぜ同列に扱うんだ」
「そうですか? 犬に話しかけたりしません? 同じことですよ」
「同じではないだろう。こいつらは異形だ。犬猫とだって同列じゃない」
「え、どうしてですか? たしかに異形ですけど、生き物です。口から音を発して、意思を持って動いて、食事をする。生きる方法は同じでしょう。種類が違うだけで同列です」
「どうだろうな。言語が違えば理解はできない。理解できなければ、『同じ』とは言えん」
「同じというか、同じ基準にいるってことです。言葉にこだわりすぎなんですよ、殿下は」
当たり前のことを言ったのに、またも全員が黙ってしまった。まずいことを言ったのだろうかと、詩響は目を宙に泳がせる。
沈黙を破ったのは、最も詩響を理解する廉心だ。
「姉ちゃんは、昔からこうです。意思疎通できると思ってるから、殺傷能力の高い犬や狼とも物理的距離が近い。心配なんですよ」
「だって、あの子たちは襲ってこないもの。大丈夫よ」
「俺たちは『大丈夫』とは思えないんだよ。言語が違うから意思疎通はできない」
「どうして? 歌えばわかってくれるじゃない。意思疎通って、そういうことでしょう?」
廉心はくるりと陵漣を見上げた。二人はわかりあっているようで、小さく頷いている。
「という感じなんです。元よりの性格を、絶対音感が輪郭を作ってしまったんでしょう」
「じゃあ詩響は、なぜ妖鬼が怖いんだ。お前にとっては、同じ生き物なんだろう?」
「意思疎通できるほど、交流を持てていないからです。あとは、単に見た目が怖いし、声も大きいからびっくりします。けど、狼のほうが怖かいです。速いし爪も牙もあるから」
「なら、言語の解析さえできれば、恐怖はなくなると思うか?」
「食生活がわかれば、たぶん。食事せずに生きられるなんて、同列の生き物ではない。けど、もしかしたら空気中の目に見えないなにかを食べてるかもしれない。食べて動くなら同列ですから、怖くないかもしれないです」
「……お前が恐れる理由は、言語の違いだけなのか。不思議な奴だな」
「はあ。じゃあ殿下は、なぜ妖鬼が怖いんですか? それとも、怖くないんですか?」
「戦闘が必要という意味では怖いな。負けたら死ぬ。死は恐ろしいだろう」
陵漣が低く重い声で語ると、空気はいっそう重くなる。深く考えず答えたのに、雰囲気を悪くするとは思っていなかった。
どうしようかと悩んでいると、地上から、かんかんかん、と警鐘が響いてくる。けたたましい音に詩響が驚いていると、陵漣は瞬間に跳んで地上へ出た。
詩響たちも追って地上へ出ると、激しく走り回る足音と叫び声がいくつも聞こえる。
「妖鬼だ! 妖鬼が出たぞ! 兵部へ連絡してこい!」
「武器庫を開けろ! 武器を持て! 宮女は戦えない者を連れて、蔵に入れ!」
男たちは、慌てながら鎧を身につけ、剣や槍を手に握っていく。村の団練とはまったく違う戦闘態勢に気が焦り、詩響は朱殷の腕にしがみついた。
「殿下! 妖鬼は街中に出るのですか!? 村では山に隠れていたんでしょう、朱殷!」
「ああ。雀晦ほど小さい村を恐れるなら、宮廷を襲うとは考えにくいな。同じ種なら、だが」
「同族でも、違う種なんろうな。ったく。いいところで邪魔してくれるよ」
陵漣が大きく舌打ちをすると、呼ばれたかのように一人の男性が走ってきた。陵漣の護衛を務める魏懍だ。
「殿下、お戻りを。街に被害が出ています。兵を出しましたが、まだ妖鬼の数を把握できていません。戦法はどうなさいますか」
はあ、と陵漣は不愉快そうに息を吐いた。
「行こう。魏懍は廉心を部屋へ連れて戻ってくれ。護衛を付けろ。それと、詩響」
「はい!」
まさか指名してもらえるとは思わず、嬉しくて背筋を伸ばした。
できることなど、怪我人の手当か、子どもの気を落ち着かせてやることくらいだろう。それでも役目をもらえるのは嬉しい――と、思ったけれど。
「お前は犬を連れて、街へ行ってくれ。民を宮廷へ誘導する。逃げ遅れた者の捜索も頼む」
陵漣の指示を聞いて、詩響のやる気は膨らみを止めた。
街へ行け、と言った。街に被害があるからだ。被害を出しているのは、妖鬼だ。
「……あの、それって、私に、妖鬼のいる場所へ行けということですか?」
「そうだ。朱殷と、兵も何人かつける。お前の身の安全を最優先にさせるから――」
「いやです! あんな、あんなの無理です! 絶対にいや!」
陵漣の手が伸びてきて、反射的に振り払った。想像していなかったのか、陵漣は目を見開いて固まっている。少しすると、ええと、と陵漣は体勢を立て直す。
「詩響。人の命がかかってるんだ。民は戦う術を持たない。隠れても、見つかれば危うい」
「私だって危険じゃないですか! 私は殿下のように、国と民を背負ってるわけじゃありません! 他人のために命をかけるなんてできない!」
詩響は全力で突き放し、朱殷の背へ逃げた。脳裏に村で襲ってきた妖鬼を思い出す。鈍かったけれど、檻にいた妖鬼は瞬発力もあるようだった。
明確に襲ってくる。意思疎通ができない以上、殺される可能性は高い。
自分の死ぬ姿が想像できてしまい、詩響の腕は振るえた。朱殷が優しく叩いてくれる手を、すがるように握りしめた。
陵漣から目をそらすと、はあ、とため息を吐かれたのがわかる。それでも詩響は顔を上げることができなかった。
「わかった。朱殷。詩響と廉心を連れて隠れていろ。戦闘や避難の判断は任せる」
「わかりました。行くぞ、二人とも。詩響。大丈夫だから落ち着け。部屋まで歩くぞ」
「うん……」
詩響は朱殷に支えられ、陵漣を振り返らずに、その場を離れた。
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