第三章 宮廷の妖鬼調査(1-1)
1
陵漣と共に行くと決めた翌日。最低限の荷物だけを持ち、挨拶もそこそこに村を出た。
詩響と廉心は陵漣の馬車に同乗し、見慣れた山道を潮風で流れる雲と一緒に進む。
しばらく進むと、開けた場所に出た。途中の集落で休憩しながら宮廷を目指すと、集落にいる人々の数も増えていく。
そびえる建物は想像をはるかに超える高さで、まるで天まで届くかのように見えた。
始めて見る景色に廉心は目を輝かせ、ずっと窓に張り付いている。
「すごい高さだ! どうやって作ってるんだろう! 殿下! あの素材はなんですか!?」
「建築には詳しくないな。宮廷に着いたら理人にでも聞いてくれ。専門書もたくさんある」
「専門書!? 建築に関する情報だけで本になるんですか!? それもたくさん!? すごい!」
陵漣は、子どものようにはしゃぐ廉心の話し相手になってくれていた。楽しそうな廉心を見るのは嬉しくて、棄てるようにして村を出た心苦しさは和らいだ。
それでも、詩響の胸には拭えていない大きなしこりがあった。
(結局、朱殷と話せなかったな。あんな、一方的に怒鳴りつけたまま……)
時間が経って落ち着くと、朱殷を責めるのはお門違いだと納得できた。毎日の一言一句に長老の台本があるわけでもなし。笑顔も言葉も、すべて朱殷の内で作られたものだ。
(今度、ちゃんと謝ろう。会って仲直りを――……できるのかな)
外の景色は、すでに村とはまったく違う。舗装された石畳は、山道と違いまったく揺れない。整然とした街並みの道は広々として、両脇には商店や茶館が立ち並んでいる。
色鮮やかな衣装を身にまとった人々は、楽しそうに買い物をしていた。
村とは違う。村へ戻るには馬車が必要だけれど、詩響は馬車に乗る金を持っていない。
――もう戻れない。棄ててしまった村の人たちには、きっと、二度と会えないだろう。
詩響の耳には、廉心のはしゃぐ声だけが聴こえている。村の外に出ても、廉心だけが詩響の支えだった。
しばらく馬車は走り続け、やがて大きな門の前で止まった。
馬車を降りると、詩響は目の前にそびえ立つ巨大な門に息を呑む。門は真紅の漆で塗られ、金色に輝く装飾が施されている。
鋭い目つきをした衛兵の守る門をくぐると、さらに壮麗な風景が広がっていた。
宮殿の屋根は金色の瓦で覆われ、堂々たる建物は雲海のように遠く広がっている。
白く輝く石で作られた大きな階段や、鮮やかな赤や緑で彩られた柱。まるで異世界に足を踏み入れたような感覚を覚えた。
荘厳で美しすぎる光景は恐ろしくも感じ、詩響はぎゅっと強く廉心の手を握った。
「廉心。大丈夫よ。怖くないからね。お姉ちゃん、手つないでてあげる」
「怖いのは姉ちゃんだろ。大丈夫だって。手つないでてやるから」
弟に同じことを繰り返され、詩響はぐっと黙った。期待に満ちた表情をした廉心の手を離せずにいると、後ろから陵漣にぺんっと頭をはたかれた。
「弟に頼るのもほどほどにしろよ。さっさと歩け」
今度ばかりは言い返せない。それでも廉心に手を引かれ、詩響は陵漣のあとを追った。
歩いて行くと、人々は視界に入ると同時に、地に膝を付き頭を下げていく。
人々の頭を下げた相手は、もちろん陵漣だ。みずぼらしい容姿と服装をどう思われるか不安だったが、陵漣と目線を同じにしない人々の目に映ることはない。
(本当に皇太子なんだわ。こんなあくどい人、偽物じゃないかと疑ってたけど……)
心の中で嫌味を呟くと、陵漣がぐるんと振り返り、詩響の頭を掴んできた。
「俺の人柄は皇太子らしくないとでも言いたげだな。んん?」
「……とんでもございません。あまりにも立派な建物で、気後れしておりました」
どうしてわかったんだ――と、反論は心の中で飲み込んだ。
詩響は必死に笑顔を取り繕い、ささっと廉心の背後に隠れる。さらに魏懍と翠蘭が間に入ってくれて、二人は無言で「早く進め」と圧をかけている。
陵漣は面白くなさそうに口を尖らせると、ふんっと鼻息を鳴らして歩を進めた。
廉心と手をつないだまま歩くと、陵漣は一室の前で足を止める。翠蘭がさっと前に出て扉を開けてくれて、礼すら言わない陵漣に付いて部屋へ入った。
部屋へ一歩足を踏み入れると、詩響の体に熱が湧いた。
村で見てきた土壁や藁葺き屋根とは、まるで違う。窓から差し込む日差しが、天井から吊るされた役目のわからない豪華な絹の幕に反射している。
鮮やかな模様の敷物が広がる艶やかな床を見つめながら、こんなに美しい物がこの世にあった事実に目を疑う。
詩響は茫然と室内を眺めるしかできず、歩くのを忘れてしまった。
「ここがお前たちの部屋だ。急だから、まともに用意できてなくてな。あとでちゃんとした場所を用意してやるから我慢してくれ」
「我慢!?」
『我慢』の意味を思い返す。たしか、辛いことに堪える、という意味だったはずだ。
住居に関する我慢というと、温突を用いた家で夏を越せと言われれば我慢にあたる。
だが、目の前に広がる部屋は、なにを堪えればいいのか、まったくわからない。
「……殿下。この部屋は、天井から槍が降るとか、壁が迫ってくるとか、あるんですか?」
「は? なんだそれは。そんな最高の拷問部屋、お前なんかに使ってやるわけないだろ。ここは宮女用の部屋だ。隣は翠蘭の部屋だから、なにかあれば聞け」
「あ……はい……どうも……」
配慮してくれているのか本心なのか、どちらにせよ下手な慰めだ。
しかし、陵漣の変わらない悪態に気が抜けた。落ち着いて部屋を見回すと、眠るには豪奢すぎる牀に、優美な刺繍の寝具。書斎机と椅子には、美しい彫刻が施されている。
他にも複雑な模様の掘られた棚や箪笥、象牙製と思われる上品な灯籠、香炉、鏡台……ありとあらゆる家具調度が揃っていた。
(本当にいいのかしら。もっと質素でいいのに――ああ、でも廉心が落ち着いて勉強するには必要かも。良い寝具なら、眠りの質も違うだろうし。うん。それなら必要だわ)
なるほどと納得して陵漣へ礼を言おうとしたが、陵漣は奥にある扉を開けていた。
「廉心の部屋はこっちだ。元は書庫なんだが、掃除して、最低限の家具を入れてある。本は好きに読んでいい。足りない物があれば翠蘭に言え」
「廉心の部屋!? 待ってください! 今の一部屋を、私と廉心の二人で使うのでは!?」
「なんでだよ。身内とはいえ男女だろ。まさか一緒に寝てるわけでもあるまい」
またも驚きで言葉を失った。一つの牀に眠るわけではないが、一部屋しかないので並んではいる。陵漣の言う『一緒に寝ている』に該当するかもしれない。
また馬鹿にされる予感がして、詩響はきゅっと口を固く結んだ。
陵漣は翠蘭を振り返り、ん、と顎で詩響と廉心を指し示す。
「黙って恥を隠そうとしてる田舎娘と、姉よりはるかに賢い弟の支度を頼む」
「かしこまりました」
いらっとしたけれど、いちいち怒っても切りがない、大人になれ――言い聞かせて、詩響は笑顔を作る。
「あの、支度ってなんですか?」
「支度は支度だよ。いいからやってもらえ。
「鳳翎閣?」
初めて聞く名称に首を傾げたが、陵漣は説明せずに部屋を出て行った。代わりに、翠蘭がはんなりと柔らかく微笑んでくれる。
「鳳翎閣は、大きな書庫のような建物よ。伝承や物語が多くて、仕事で入ることはあまりないわね。さ、いらっしゃい。支度をしてあげる」
悪態ばかり吐く陵漣を見送ると、翠蘭は『支度』をしてくれた。なにをされるのかと緊張したけれど、慣れた手付きで施されたそれに、詩響も廉心も衝撃をうけた。
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