第二章 妖鬼に隠された真相(1-1)
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訛りの譜面をするにあたり、詩響は三名の村民に参加してもらうことにした。長老を含めた二名の高齢者と、三十代の男性一名だ。
(専門家に聞くほうがいいわよね。私は共通語で育ったから、訛りには詳しくない)
村で訛りを使い続けてる人は多くない。高齢者は訛りを使うけれど、一つ下の世代、五十代から四十代は共通語も使う。街へ買い出しへ行くことを始めたからだ。
三十代から二十代は共通語の使用が多く、十代はほとんど共通語になっている。近隣の集落も共通語を使うので、交流の拡大につれて変化するのは必然だった。
譜面化には、朱殷にも付いてきてもらっている。朱殷も訛りは知らず共通語を使うけれど、妖鬼に遭遇したばかりで不安だからだ。
さあ、いよいよ譜面を作るぞ――と意気込んでいたら、譜面化の進行をするのは詩響ではなかった。いつも陵漣の傍にいた、美しい衣装を着た綺翠蘭という女性だ。
当然といえば当然だが、気合を入れていただけに落胆した。
(期待されてる廉心とは大違いだわ。いや、廉心が認められればいいんだけど……)
口を尖らせながら自分に言い聞かせ、翠蘭の隣に座って紙を広げて筆を手に持った。
譜面を書くために使えと用意してくれたのだが、艶やかな紙と黒々と光る墨、滑らかに流れる筆は、すべて高級品だ。さすが皇太子は贅沢だ、と言いかけてやめた。
詩響は感情の入り混じった息を吐いたが、翠蘭は我関せず、たおやかに微笑んでいる。
「綺翠蘭と申します。この度はご協力くださり有難うございます」
翠蘭の微笑みは華やかで、天女のごとき美しさは同性の詩響も見惚れるほどだ。
長老と高齢者は仏頂面だったけれど、三十代の男性には大いに効果があったようだ。真っ赤になり、でれでれと笑っている。
さらに若い朱殷を見上げると、興味ないとばかりに欠伸をしていて、少し安心した。
けれど翠蘭は、善悪問わず、周囲の反応で表情は変えず譜面化を進行した。
「私が質問するので、詩響は譜面にしてください。まずは『普段どこで過ごしますか』」
やはり村民の感情など気にもせず、翠蘭はさらりと話を進めた。田舎でも咲き誇る花のような美貌に反して、冷静な人物のようだ。
いきなり始まった質疑に、詩響は慌てて筆を走らせる。
(廉心ほど文字を知らないのよ、私は! ゆっくりしてもらえると助かるんだけど……!)
村では文字を必要とする場面は少ない。だからろくに学んでいないが、仇になった。慌てて翠蘭の質問を書き、その下に訛りと、訛りの音程を書いていく。
だが、村民から返答はなかった。長老を見ると、ぶすっとしたまま翠蘭を睨んでいる。
「訛ってるといったって、そないに変わらへんどす。おちょくってるんどすか?」
「とんでもない。翻訳だけでなく、変化の程度を知りたいのです。『そんなに変わらない』というのは、『わずかに変わる』ということ。わずか、を詳しく教えていただけませんか」
翠蘭は狼狽えることなく微笑んだ。美しい微笑みは、より長老を苛立たせたようだ。眉間の皺は深くなり続けている。
(ま、好意的にはなれないわよね。殿下への協力は、廃村化の促進だもの)
長老たち、村を愛する者の気持ちはわからないでもない。当然といえば当然だ。
けれど、廉心の将来という最高の褒美を得た詩響の気持ちは、すっかり陵漣へ寄っている。そして、翠蘭は陵漣の部下だ。協力する相手は決まっている。
「長老さま。訛りの譜面化は私の課題です。廉心も理人さまのご指導で頑張ってます。私たちが良い成果を出せば、きっと村の待遇も良くなります。どうか協力してください」
「……言われんでもわかってる」
長老は詩響を軽く睨むと、ふいっと目をそらした。不愉快を露わにした表情はまるで、裏切り者め、と言われているような気にさせられる。
それでも長老は、子どもの、ひいては村のためと思ったのか、ゆっくりと口を開いた。
「……普段はどこらへんで過ごしてはるん?」
「有難うございます。では次。『今住んでいる場所は、もともと地元ですか?』」
「今住んでるとこって、もともと地元なん?」
「有難うございます。次はお隣のかたにお聞きします。『これまでに住んだ場所の中で、一番好きな場所はどこですか?』」
「はあ。これまでに住んだ場所の中で、一番好きやった場所ってどこなん?」
「お隣の若いかた。『地元に戻る時、必ず立ち寄る場所はありますか?』」
「地元に戻った時、必ず寄りはる場所ってあるん?」
「なるほど。詩響、ちゃんと書き取れていますか?」
「はい。大丈夫です」
書き取りは、問題なくできている。だが不思議だった。
(もっと特殊な言葉にすればいいのに。『しぶちん』とか『わや』みたいに、共通語では見当の付かない言葉。というか、村の人に書き出してもらえばいいのでは?)
訛りといっても、犬のようにまったく理解できないなんてことはない。まるで、人並に会話できるのかを試されているようにみえる。つまり、馬鹿にしているのだ。
長老たちも同じことを思ったのか、より険しい表情になっている。
けれど、しばらく同じような聞き取りが続いた。どれも書き留めるほどのことではなく、眠くなってしまう。朱殷は完全に居眠りをしていて、ぺんっと何度も膝を叩いた。
書き取った紙が十数枚に及んだ時、ようやく翠蘭は大きく頷いた。
「これくらいでいいでしょう。有難うございます。お戻りいただいて大丈夫です」
「ああ、そうかい。しょうもない時間やった。二度とせんといてほしおすな」
長老と高齢者は腹を立てて、どすどすと足音を立てて去って行った。ばしんっと殴りつけるように扉を閉めると、翠蘭に見惚れていた三十代の男性だけが残されてしまう。
「すんまへんね。こう、なんちゅうか、気ぃ立ってるんどす」
気を使った言葉選びに、長老さまよりよっぽど大人だ――と、詩響は思った。そう思ったのは、どうやら詩響だけではない。朱殷は聞こえるほど大きなため息を吐いた。
「あれじゃ、身を挺して民を守った皇太子へなびかれても、文句は言えないな。情けない」
「朱殷。思ってても言わないの、そういうことは」
朱殷は繊細そうな品のある容姿のわりに、言うことは辛辣で容赦がない。だが、翠蘭も朱殷と同じように感じたのか、ふう、と呆れの感じ取れる息を吐いた。
「ご協力くださっただけ良しとしましょう。あなたは代々、雀晦村の家系なのですか?」
翠蘭は残された三十代の男性村民へ笑顔を向け、微笑まれただけで頬を赤らめている。
「や、親は移住どす。南のほうに住んどったけど、水害で住めんようになって」
「南ですか。文化は同じなのですか? 独特で、美しい服を着ていらっしゃいますが」
「ああ、こらあ南の民族衣装どす」
翠蘭は村民の服をじっと見た。服は大きく分けて二種類だ。
男性の多くは『
女性は『
けれど、一部の村民は異なる服を着る。長方形の布を縫い合わせた服で、袖が縦に長いのが特徴だ。丈は長袍と同じで足首まであるが、横に切り込みはない。
「動き難いんで、長袍みたいに切れ込みを入れて長褲を履く者もいてはる。どっちを着てもいおすけど、亡くなった親の物なんで、よう着てます」
男は襟をつかんで、自慢げにぴんっと引っ張った。
(へー。そうなんだ。気にしたことなかった。違う土地の服なんだ)
これといって気に留めたことはなかったが、言われて見れば全く違う地域の服装だ。
なんだか面白いなと思っただが、翠蘭は、そうなんですか、と興味があるのかないのか、感情の見えない笑顔を浮かべている。
聞いておいてどういうつもりなんだ、と、朱殷に小声で話しかけようと思ったが、ふと見れば、朱殷は険しい顔をしていた。口元に手を当てて、唇を噛んでいる。
「朱殷? どうしたの? 唇、傷ついちゃうわよ」
「なんでもないよ。翠蘭さま。そろそろよろしいですか? 彼も仕事がありますので」
朱殷は逃げるように詩響の横を離れて、男と翠蘭の間に入った。
「ああ、そうよね。ご協力、有難うございました」
「なんのなんの。なんかあったら、いつでも声をかけとぉくれやす」
男はぺこぺこと頭を下げ、最後まで翠蘭を眺めて帰って行った。男の姿が見えなくなると、翠蘭は、はあ、と嫌そうに息を吐く。じろじろ見られたのが気に障ったのだろう。
詩響は膝を付いて腕を重ね、翠蘭へ深々と頭を下げた。
「彼の無礼をお許しください。天女のような美しさに魅了されるのは、男の性でしょう」
「慣れているので大丈夫ですよ。それより、譜面はできた? 立ちなさい」
翠蘭の溢れる自信に詩響は頬を引きつらせた。だが、それ以上は踏み込まず、書き取った紙を差し出す。
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