第二章 妖鬼に隠された真相(1-2)
「本当にこれでいいんですか? もっと特徴的な単語のほうがよくはないですか?」
「日常会話を知りたいからいいの。それに、一番の目的はあなたの能力を知ることですし」
「はあ。なら訛りじゃなくてもいいのでは? なぜ訛りになさったんですか」
「さてね。殿下のお決めになったことですので、殿下にお聞きなさい。あら、汚い字」
流れるように馬鹿にされ、詩響は苛立った。あの皇太子にしてこの部下ありだ。
だが陵漣の部下である以上、文句は付けられない。大きく呼吸をして自分を落ち着かせると、翠蘭が紙を捲るたびに揺れる袖に目がいった。
絹だろうか。薄い生地が優雅に揺れる。ふわりと軽やかな衣は、潮風と泥にまみれて生活する詩響とは大違いだ。装飾品も上品で、翠蘭の品のある顔立ちに良く似合っていた。
自分をみすぼらしいと思ったことはなかった。村の女性と比較して、可もなく不可もなく。特筆するほど汚くないし、美しくもない。平凡だ。
だが、初めて知った。自分は非常にみすぼらしく、くたびれていて汚らしい。
(宮廷の女性は、皆さま同じ衣装なのかしら。もし廉心が宮廷に入って、私も宮廷で生活するようになれば……私でも……?)
生活の実益にならない、高価な娯楽商品を欲しいと思ったことはない。自分がお洒落に興味があるのか、ないのかもわからなかった。けれど、翠蘭は美しかった。
翠蘭から目を離せなくなっていると、突如、ぐいっと後ろから襟を引っぱられる。
「ぐえっ!」
襟で首が絞まり。呼吸をできなくなった詩響は犯人を突き飛ばす。振り返ると、犯人は予想していた通りの人物で、呆れと怒りでぷるぷると震えて怒鳴った。
「殿下! もう少し普通に登場してくれませんか! 首絞める必要ないでしょう!」
「呆けているのが悪い。服くらい宮廷にあがれば好きなだけやるから、まじめに働け」
「えっ」
突然のご褒美発言に、詩響はつい黙った。即座に鼻で笑われて、良いようにあしらわれたことを理解する。
陵漣に随伴していた黒髪の青年に頭を下げられ、配慮されたことが余計に恥ずかしい。慰めるように朱殷から頭を撫でられ、さらに恥ずかしくなっていった。
けれど陵漣は気にも留めず、詩響を通り過ぎて翠蘭から訛りの譜面を受け取った。ふんふんと小さく頷きながら譜面を見ていく。
「まあ、いいだろう。この調子で、妖鬼言語も頼むぞ」
「それは廉心次第です。音がなにを意味するかは、廉心じゃないとわかりません」
「まあそうだろうな。あとは廉心に――……」
言いかけて、陵漣は詩響を振り返った。なにか思い立ったような顔をしている。
「廉心といや、あいつはどこで勉強したんだ。蒸留といい、独学とは思えない」
「独学ですよ。本を読み漁ってました。あとは、朱殷にもいろいろ習ってます。ね?」
詩響は隣に立っていた朱殷を見上げた。朱殷は、なぜかばつが悪そうに頷いた。陵漣は驚いたようで、まじまじと朱殷を見ている。
「廉心に教えられるほど賢いのか、お前は」
「いえ。学問の基礎と、外の情報を教えただけですよ。俺は外からの移住なんで、持ってる情報量がこいつらより多い。それだけです」
「移住だと?」
陵漣と翠蘭、魏懍も、全員が驚いたようだった。
朱殷は雀晦村の生まれ育ちではない。五年ほど前にやって来た。移住当初は長老の家で生活をしていたが、団練の宿舎ができてからは宿舎で生活をしている。
同じ年齢の子どもがいなかったこともあり、すぐに仲良くなった。とくに廉心には良い教師でもあったので、かなり懐いている。男親のいない中で、詩響も助かっていた。
詩響にはそれだけのことだったが、陵漣はひどく気にかかったようだ。腕を組んでなにか考え込んでいる。しばらく小さく唸ると、もう一度朱殷に顔を向けた。
「移住者がいたとは初耳だな。多いのか、移住者は。お前はいつ来たんだ」
「俺は五年前ですね。団練の大人も移住です。五年前、団練を作る時に腕利きを数名、一斉に招いたそうです。俺だけ旅の流れ者で、入村は少し遅いんですが」
「ふうん。どうりでお前だけ、顔立ちが違うわけだ。朱殷というのは姓名か? 字か?」
「ご想像にお任せしますよ。必要以上に語るのは嫌いなんです」
詩響にとって、朱殷の経歴も団練の設立経緯も、なんの不思議もない話だ。
けれど、陵漣たちにはそうではなかったようで、全員が考え事をして黙ってしまう。
(……なにこの沈黙。移住って、殿下を困らせるような大変なことなの?)
突然訪れた沈黙に、詩響はなんとなく焦った。悪いことをしたわけでもないのに、重い空気は、責められているような気持ちになる。
沈黙に耐え切れず、詩響は逃げるように朱殷へ話しかけた。
「朱殷って、なんで雀晦村に来たの? 裕福な家で可愛いご令嬢の護衛でもすれば、婿入り話くらいあるかもしれないわよ。村の女性、みーんな虜にしたくらいなんだから」
「その話を蒸し返すな。本当に面倒なんだ、色恋の話は」
朱殷は綺麗な顔をしている。都会で洗練されたのであろう精錬な雰囲気に、村中の女性が色めきだった。既婚の女性も惚れ込んだことで、一時期は問題にもなったくらいだ。
愉快な話で空気を明るくできれば、と思ったけれど、やはり陵漣たちは重苦しい顔をしている。とくに陵漣は不満げな顔だったが、なぜか詩響と朱殷を交互に見ている。
やたらと見られるのは気持ちの良いものではなくて、さっと朱殷の背に隠れた。
「あの、なんですか? じろじろ見ないでください。翠蘭さまと違って慣れてないんです」
「いや。今でも可愛いご令嬢の護衛をしてるじゃないか、と思ってね」
陵漣は軽く笑うと、すっと手を伸ばしてきた。長い指で詩響の髪を一束つまみ、すいっと持ち上げ、髪に口付けした。
「美しい赤だ。まさしく鳳凰国の民」
場にいた全員が固まった。陵漣の言葉が、詩響の脳内でぐるぐると回る。
農作業で日に焼けた赤毛は、翠蘭のように美しくない。艶もなく、藁を括っている紐で結んでいることもある。手入れなんて、していないに等しい。
田舎娘らしさを演出する、くたびれた髪に陵漣は口付けた。くすんで冴えない赤毛に。
黒く美しい陵漣の瞳で射抜かれた詩響は、言葉を失い、慌てて陵漣から離れた。
「なんですか、急に! 冗談はやめてください! 妙な噂が立ったら、どうするんです!」
「安心しろ。その時は皇太子妃にしてやる」
「はい!?」
皇太子妃とは、文字通り、皇太子の妃だ。今でいえば、陵漣の妻が皇太子妃になる。
とんでもない言葉に、詩響は壁まで後ずさり激突した。顔が熱い。鏡を見なくても、赤くなっているのはわかった。
「殿下! 馬鹿なことを言わないでください! ご自身の名誉に関わりますよ!」
「殿下と呼ばれるのは好きじゃない。陵漣と呼べ。俺の字だ」
「へ!? 殿下を字でなんて、できるわけありません! 許されませんよ!」
「俺がいいと言えば許されるんだよ。ほら、呼んでみろ」
今度はまた、なにを言いだすのか。字とは、親しい者にしか許されない呼称だ。親兄弟や師、許されれば親しい友人も呼ぶだろう。
だが詩響は血縁でも親しくもない。縁の薄い異性に字を許すなんて、ありえない。
それでも陵漣は、詩響の髪を握りしめたままだった。うっすらと口角を上げ、密やかに見せた微笑みは妖艶だ。あまりにも魅惑的で、抗うことなどできなかった。
「……陵漣さま」
礼儀を考えれば、今すぐ謝罪すべきなのかもしれない。従者は腹を立てているだろう。周りにいる人々の表情をうかがうことは、できなかった。
けれどそれは、恐ろしいからではない。ただ、陵漣から目を離せなかったからだ。
詩響の気持ちをわかっているのか、いないのか。陵漣は最後に優しく微笑むと、するりと去っていった。
わけがわからず立ち尽くしていると、とんっと翠蘭に肩を叩かれ現実へ引き戻される。
「真に受けなくていいわよ。人をからかって遊ぶのが好きなかたなの」
「あ、ああ、そう、そうですよね。すみません。私には高度すぎる冗談でした……」
翠蘭は呆れたように笑った。呆れた相手が陵漣なのか詩響なのかは、わからない。けれど、美しいはずの微笑みを見ているのは、なんだか苦しかった。
魏懍は陵漣に付いて出て行ってしまった。誰もが同じように呆れるのか、それとも違う反応を見せるのか。それだけ、知っておきたかった。
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