第一章 悪徳皇太子と獣の歌姫(4)
4
陵漣が起き上がれるようになったのは、倒れてから三日後だった。
目が覚めて、今日は寝台から降り座卓の前に座っている。一見すれば元気そうだったが、陵漣専属の医師は檄を飛ばしていた。
「だから言ったんだよ! 軽率に鳳凰陛下の力を使うなって! 死ぬよ!」
「わかった! わかったって! 悪かった! 俺が悪かったよ!」
声高に怒っているのは、陵漣の近侍を務める
年齢は詩響よりも上に見えるが、小柄で動きが大きく、頬をぷうっと膨らませている姿は幼く感じられた。声が高いことも相まって、男性的というより中性的に感じる。
(それにしても、皇太子相手とは思えない気安さだわ。昔からのご友人なのかしら)
詩響の気にすることではないのだろうが、恐れ多い振る舞いに、はらはらする。
理人は鳳凰の描かれた陶器の小瓶を開封し、丸薬だろうか、小指ほどある黒い丸い物を掌に転がした。押し付けるように陵漣の口に入れ、白湯を流し込む。
色白で薄い金茶色の髪は柔らかな印象だが、行動は勢いがあり強い。見た目と行動の差異に、詩響はあっけにとられた。
無理矢理に飲まされたせいで、陵漣は咳き込んだ。陵漣の後ろに立っていた黒髪の青年は、陵漣の背を擦りながら理人を睨んだ。
「理人。ほどほどにしなさい。病み上がりなんですから」
黒髪の青年は
理人とは逆に、長身で寡黙な青年だった。がっしりと筋肉の付いた肉体と静かな動きは、大人の男性らしさを感じる。穏やかな低い声は、非常に聴き心地が良かった。
理人は魏懍に注意されると、不満げに口を尖らせ、ぷんっと目をそらす。陵漣は、仕方ないな、という表情で理人の肩をぽんと叩く。
「大丈夫だと言ってるだろ。鳳凰陛下は民を殺しはしない。俺なんかでもな」
「馬ぁ鹿! 人は発熱でも死ぬんだよ! 陛下は殺さなくても、二次被害で死ぬの!」
理人は、ぷんぷんと怒りながら、ぺんっと陵漣の額を叩いた。明け透けな物言いは厳しいけれど、心配している気持ちは伝わってくる。
言い合いだけれど楽しそうな様子は安心できて、詩響はほっと息を吐いた。
詩響の息を吐いたわずかな動作に気づいたのか、見つめてくる陵漣と目が合った。
「驚かせてすまない。心配かけたな。お前たちは大丈夫だったか」
「はい。お守りくださり、有難うございました」
「気にするな。獣の歌姫を失うわけには、いかないからな」
「……獣の歌姫とは、まさか、私のことをおっしゃっているのですか。私は人です」
揶揄された内容は面白くないけれど、冗談を言えるくらいに回復したのなら安心だ。詩響が微笑んで返すと、陵漣は立ち上がって詩響の目の前にやってきた。
「余裕がありそうでなによりだ。暇なお前に仕事を与える。ついてこい」
「え……」
陵漣はにたりとあくどい笑みを浮かべ、詩響は心配したことを後悔した。
やけに陽気な陵漣に、引きずられるようにして連れて行かれたのは団練の裏だった。
物置にしている小屋があることは知っていたが、入ったことはない。団練は、武器を持って訓練する者しか入らないからだ。
狭い村だというのに初めての場所に緊張すると、がちゃんと大きな音が聞こえた。
「きゃっ! なんの音ですか? なにか暴れてるような……」
がちゃがちゃと金属のぶつかるような音がする。破壊音にも近い強さで、詩響の足は地面に釘付けされたかのように動かなくなった。
だが、陵漣は構わず音のする方向へ進む。ついて行くのは嫌だったが、陵漣の行く先には廉心と朱殷の姿もあった。頼れる顔ぶれに安堵し、これっぽっちも気にしてくれない陵漣の後ろから、朱殷の背に背に駆け寄る。
「朱殷! こんなところにいたのね。なにしてるの? この音、いったいなに?」
「なにって……殿下。説明せずに連れてきたんですか? いきなりは無理ですよ」
「俺は無理じゃないからいいんだよ。お前たちが俺の都合に合わせろ。ほら、あれだ」
皇太子でなかったら怒鳴りつけていただろう。苛立つ気持ちをなんとか堪え、苦笑いで陵漣の指差した先に視線をやる。するとそこには、暴れるような金属音の原因がいた。
「え、これって」
そこにあったのは檻だった。村では見たことのない、金属製の檻だ。檻に閉じ込められているのは、どろどろの表面で四足歩行の――妖鬼だった。
「どうして! 殿下が焼き払ってくださったじゃないですか!」
「もっといたんだよ。で、お前の仕事はこれだ」
陵漣は檻を強く蹴りつけた。驚いたのか、妖鬼は錆びた金属を擦ったような鳴き声をあげる。身の毛のよだつ叫びに、詩響は思わず顔を背けた。
それなのに陵漣は、妖鬼を見ろと詩響の顎を掴んで檻へ向けさせる。人間の文字では表せない鳴き声に、詩響の体は痺れた。そして、続く陵漣の言葉は痺れを凝固させる。
「妖鬼の言語を解析しろ。連中の意図を把握する」
「……へ?」
想像だにしなかった指示に、詩響の時は止まった。妖鬼の叫びだけが聴こえてきて、まるで世界に妖鬼と二人きりのように感じてしまう。
ぐるぐると、脳内に陵漣の指示が渦になる。詩響は、ぎぎぎっと音がしそうな鈍さで、陵漣を振り返った。
「今、なんとおっしゃいましたか? 聞き間違い、ですよね……?」
「あぁ? お前の耳は飾りか? 言語を解析しろと言ったんだ。これだけ鳴くんだ。連中にも考えはあるはず。襲ってくる理由と目的を聞き出せ」
「そんな! 馬鹿なことを言わないでください! できるわけありません!」
「できなくてもやるんだよ。少なくとも、廉心は前向きのようだぞ」
「は!?」
ぐるんと首を回して廉心を見ると、檻の前に膝を付き、じっと妖鬼を観察していた。
陵漣は詩響を放り捨て、廉心の傍に立つ。
「なにかわかるか」
「俺に音の違いはわかりません。でも、ずっと同じ音に聞こえます。姉ちゃん、どう?」
「え? ええと……」
どう、と言われても困る。つんざくような妖鬼の悲鳴は、聞くに堪えない。
それなのに陵漣は、回答を急げ、と言わんばかりに睨んでくる。詩響はしぶしぶ、妖鬼の発する音へ耳を傾けた。
集中して聞くのは、耳を切りつけられているようで気分が悪い。それでも妖鬼の叫びを聞き続けると、たしかに同じ音のようだった
「ずっと同じ音で叫んでるわ。ぴったり同じだから、同じ単語だと思う」
廉心は少し考えこむと、陵漣を振り返った。
「殿下。妖鬼は食事をするのでしょうか。決まった餌や、必ず狙う生き物なんかは」
「食事をする姿は確認できていない。人間を襲うことはあるが、食ったことはないな」
「では、特定の誰かを探しているのでしょう。おそらく、鳳凰陛下」
「ほお。なぜ鳳凰陛下だと思う。根拠は」
「同じ音の繰り返しだからです。感情まかせの言葉は、一律になりません。檻に捕らえられている状況下は、人間なら『助けてくれ』『出してくれ』のような言葉が想定されます。同じ音の連続にはならないんです」
「ああ、そうよね。お腹を空かせた犬だって、肉だの空腹だの、いろいろな言葉を使うわ」
「そう。目的は一つでも、発する言葉は多岐にわたる。なのに同じ言葉しか言わないのは、代用の効かない言葉だから。すなわち固有名詞」
「それで人探しか。だが、鳳凰陛下と確信した理由はなんだ?」
「理由は二つ。『男』『お前』など、人称代名詞を繰り返しても要求は伝わらない。なら奴は、名詞で目的が伝わると思ってるんです。あの場で意味ある固有名詞は、鳳凰陛下だけだ」
一瞬で出た分析に詩響は驚き、素早くなんども瞬きを繰り返した。廉心は確信があるのか、声に迷いがない。廉心を支援するように、朱殷も横に並ぶ。
「俺も同意見です。連中は弱い。筋力が弱いのか、転がせば起き上がれません。逃げたくても脚は遅い。捕まる危険を冒してまで会いたい相手は、鳳凰陛下に考えられない」
「弱いというのはそうだな。宮廷の兵部では恐怖にならない。だが一般国民には、まあ、恐ろしい存在だ。うるさいし見た目が汚いからな。というわけだ。わかったか、詩響」
「えっ。なにをでしょうか」
突然同意を求められ、理解の及んでいない詩響は首を傾げた。陵漣は、わざとらしく大きなため息を吐き、肩をすくめて鼻で笑った。
「だから、妖鬼言語の解析だよ。解析は廉心がやる。お前はできるだのできないだの、つべこべ言わず、音の聞き分けだけやってりゃいい」
「……わかりました」
嫌味なしで会話をできないのだろうか。性根の曲がった男だ――と、口には出せず心の中で毒づいた。
一方、逆らえない詩響など気にならないようで、すでに陵漣は廉心へ向き直っている。
「廉心。解析はどれくらいでできる」
「予測を立てるのに一日。三日もあれば確定をご回答できるかと」
「理人にも手伝わせるから、二日で終わらせろ。その間に、詩響。お前には別の仕事だ」
「はあ」
詩響の口からは、ため息と同じ程度の声しかでなかった。音の聞き分けだけやれ、というのは、音の聞き分けしかできないだろうと言われたのと同じだ。
とことん馬鹿にされているのに、やる気など出るはずがない。不満を前面に押し出す詩響に、陵漣は不愉快になったようで眉間に皺を寄せる。
「なんだ。その気のない返事は」
「いえ、べつに。私にできることなんて、本当にあるのかなと思いまして」
「……ったく。面倒な奴だな」
詩響の態度に呆れたのか、陵漣はがしがしと頭をかくと詩響の肩を抱き寄せ、耳元で呟いた。陵漣の吐息が耳に触れるほどの近距離に、詩響は顔が熱くなるのを感じる。
だが、続く陵漣の言葉は、詩響の興奮を一気に冷ました。
「お前の態度で廉心の待遇は変わる。書院に通い一般職で終わるのと、皇太子の後援で太学へ入り、官吏でもなんでも好きな職選びをする――どちらがいい?」
ぴたりと詩響は動きを止めた。異性と頬をくっつけるほどの距離なんて、人生で一度も経験はない。朱殷は親しい友人だが、ここまでの接触をしたことはなかった。
きっと普通の女性なら、ときめいて、愛だの恋だのに直結したのだろう。けれど今の詩響にとって、大事なのは不明瞭な色恋などではなかった。
「廉心の将来を保証してくださるのですか」
「お前が真摯に尽くせばな。さて、もう一度聞くぞ。お前には別の仕事をしてもらうが?」
陵漣は含みのある笑みを浮かべた。悪だくみをしているのは、考えなくてもわかる。けれど詩響は迷わず、陵漣の前に膝を付いて頭を垂れた。
「なんなりとご用命ください。妖鬼の言語解析と、なにをすればよろしいでしょうか」
「よし。権力者には従順が処世術だ。覚えておけよ、田舎娘」
陵漣は長い指で詩響の顎を持ち上げ、弾くように手を放した。人差し指を上下に動かし、立て、と指示を出してくる。
指先のわずかな動きすら腹立たしいと思った。けれど、廉心の将来が確約されるならいくらでも飲み込める。詩響は背筋をぴんと伸ばし、毅然と陵漣を見た。
「お前の能力の程度を知りたい。廉心の分析作業中は暇だろう? その間に、村の訛りを譜面にしろ。譜面を見れば、誰でも意志疎通できるようにするんだ」
「訛り、ですか? それは構いませんが……」
詩響は首を傾げた。思っていた以上に簡単で、つまらない指示だったからだ。
(訛りの譜面なんかでいいの? なんだ。もっと無理難題が出るのかと思ってたけど)
詩響は安心して、にこりと微笑んだ。両腕を顔の前で組み、頭を下げる。
「承知いたしました。殿下の期待に沿う成果を出せるよう、精進してまいります」
「楽しみにしてるぞ。廉心、来い。理人を紹介するから手伝わせろ。子どもっぽいが頭はいい」
「はい!」
廉心は嬉しそうに声を張り上げた。生き生きとした表情から、もはや、今までの生活では満足できないことが伝わってくる。
穏やかな日常を過ごせれば満足だった。廉心さえいれば幸せだった。朱殷という頼もしい友人もいて、可愛い子どもたちもいる。けれど廉心には、物足りなかったのだろう。
(妖鬼でも訛りでも、なんだってやってやるわ。見てなさい、この悪徳皇太子!)
吹きすさぶ潮風は生ぬるい。詩響の頬を汗が伝った。いつもより生ぬるい潮風は不快感があるのに、詩響の気持ちは晴天を臨んでいるようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます