第一章 悪徳皇太子と獣の歌姫(3-2)

「殿下。詩響と廉心を連れて、下がっていてください。あの程度なら俺一人で足りる」

「あの程度ならな。だが連中、厄介なことに群れを作る」


 陵漣は、くいっと顎で茂みの奥を示した。森の木々が作る影から、ぞろぞろと妖鬼が現れる。見える限りで五匹の群れだった。

 詩響はついに座り込み、全身が震えあがった。動いて敵だと思われるのが怖くて、指の一本も動かせない。動きたくないと思っていたのに、陵漣は詩響を引っぱり立たせた。


「しっかりしろ! 俺たちで倒すから、お前は子どもを守れ。犬を呼び、周囲を固めさせろ」


 子ども、と言われて我に返った。私塾前の広場で、子どもたちも動けなくなっていた。

 しりもちをついている子、逃げようと地を這っている子――……自分で身を守ることはできないだろう。


(そうよ。私たちで守ってあげなきゃ。震えてる場合じゃない!)


 泣くことすらできなくない子どもを見て、詩響は震える足を叩いて立ち上がった。

 詩響も、身を守れるかわからない。朱殷のように武器を振るう技量もない。

 でも、野犬は敵もいる自然を生き抜いている。己の爪と牙で立ち向かい生きてきた。


「野犬と同じ山から出てきた。なら、犬のほうが戦い慣れてるかもしれん。役に立つ」

「わかりました。頼んでみます」


 詩響は大きく頷き、廉心に支えられながら子どもたちの元へ走った。子どもたちは詩響と廉心にしがみつき、がたがたと震えている。


(頼むといっても、どうすればいいんだろう。守ってくれなんて、直接的なお願いをしたことはないし、餌も持ってない。服従させることなんてできない)


 陵漣が言うほど簡単ではない。人間の言語で理解できた鳴き声だって、多くない。

 せいぜい食に関することや、待て、伏せ、など、一般的な躾と、簡単な行動だけだ。

 選ぶ旋律を迷っていると、廉心にとんっと背を叩かれる。


「『待て』でいいよ。危険があることを知らせれば、犬も保身で戦う。自分たちの群れを守らなきゃいけないから、精鋭が来るはずだ。必然的に俺たちは守られる」

「あ、そっか! そうよね! わかったわ!」


 服従させられないのなら、目的に沿った行動をとってもらえばいいだけだ。発想の転換に感嘆しながら、詩響はすうっと息を吸い込んだ。

 詩響は歌った。慣れた、いつもの旋律を。


(危険があるの。見に来て。私のところへ来て。ここで待って)


 震える腹に力を入れ、声の揺れを抑える。旋律が乱れては、言葉は正しく伝わらない。

 恐怖と戦いながら歌い続けると、森の中から三匹の野犬が飛び出てきた。すでに表情は険しく、詩響と妖鬼の間で身構えてくれる。

 陵漣は犬の警戒する姿を確認すると妖鬼に向き直った。


「詩響! 犬たちと一緒に、建物の中まで下がれ! 地下があるなら地下だ!」

「はい! みんな、おいで! 地下の倉庫へ入りましょう! 大丈夫だからね!」


 詩響と廉心は、子どもの中でもとくに幼い二人を抱き上げた。年長の子どもは小さな子の手を引いて、一目散に地下へむかってくれる。

 子どもを見守りながら、詩響は陵漣を振り返った。

 陵漣はあくどいが、皇太子だ。万が一のことがあったら大問題になるのは明白だ。盾にして逃げるわけにはいかない。


「殿下! 殿下も建物の中へ! 裏口から団練へ戻れます!」

「馬鹿を言うな。民を盾にして逃げるほど落ちぶれていない」


 陵漣は、詩響の考えたことと同じ言葉で微笑んだ。今までは悪人のようだったのに、突然に魅せられた凛々しい表情に胸のうちが揺れた。

 力強い笑みに安心を覚えたが、なぜか陵漣は、剣を鞘に戻した。武器を手放しては戦えない。一体どうしたのかと思った時、陵漣はすうっと右腕を天に掲げた。


「朱殷。避けろよ」

「はい? なにを――っ!」


 陵漣の全身から火花が散った。いくつも弾ける火花は、集まり大きな火に姿を変える。

 火は舞うように辺り一面を照らした。すべての影は光に圧倒され、細くなっていく。


「鳳凰陛下の御前で民に牙をむいたこと、あの世で後悔するがいい」


 陵漣に微笑みはなくなっていた。眉を吊り上げ、歯ぎしりをする姿は怒りそのものだ。

 すうっと息を吸い込むと、陵漣は妖鬼たちを切るように、腕を横一線に振りぬいた。


「舞え、鳳凰!」


 詩響に見えたのは、強烈な光だけだった。

 光は目を開けていられないほどで、なにが起きているのかわからない。人の世にはありえない光の渦に、風も声も、すべての音が止まったかのように感じられた。

 ぱちぱちという火花の音だけが聴こえるようになった時、軽く背を叩かれる。


「終わった。もういいぞ」

「あ――……え?」


 陵漣の声に呼び起され、詩響は驚き、勢いよく顔を上げた。

 焦ったのは、声をかけられたからだけではない。陵漣の手は熱を帯びていた。触れられた個所からじわりと汗が滲む。とても人間の体温とは思えない。

 ぽたりと、詩響の頬に水滴が落ちてくる。ぽたり、ぽたり、いくつもの水滴に頬は湿っていく。絶えない水滴は、陵漣の顔から溢れる汗だった。

 どう見ても異常をきたしている。呼吸の荒い陵漣に手を伸ばしたが、詩響の手が辿り着く前に陵漣は地面へ倒れこんだ。


「殿下! 殿下! しっかりしてください! 殿下!」


 突然のことに、詩響は大慌てで陵漣の体を揺すった。陵漣は目を閉じたまま動かない。

 詩響は焦ったけれど、廉心が冷静に詩響の手を握って止めた。


「揺らさないで。中で寝かせよう。兄ちゃん、殿下の、そっち側を支えて」

「俺一人で担げる。それより備蓄から水を持ってこい。体内から干上がるぞ」

「わかった。姉ちゃん、手伝って。みんなは兄ちゃんと一緒にいな。一人になるなよ」


 子どもたちはまだ恐ろしいのか、震えながら無言で頷いた。朱殷は、自分と身長の変わらない陵漣を軽々担ぎ、建物の中へ入る。

 詩響と廉心は、地下に積んであった水を樽から桶に移し、陵漣のそばへ置いた。薄っぺらい布団に寝かせるのは心苦しいけれど、今は礼儀なんて気にしていられない。

 布を水に浸し陵漣の額に乗せるが、少し冷やす程度で汗は引いてくれないようだった。

 詩響はこれ以上どうすればいいかわからず焦ったが、廉心は顔色を変えずに立ち上がる。


「警鐘を鳴らしてくる。殿下の連れなら、ちゃんとした手当もできるはずだ」


 廉心は冷静だった。朱殷も子どもたちに笑いかけていて、もう大丈夫だ、と落ち着かせている。廉心と朱殷の落ち着いた様子は、詩響も落ち着かせてくれた。

 ふう、と呼吸を整えると、詩響は水に浸した布を絞り、陵漣の頬を伝う汗を拭う。けれど汗は流れ続け、皮膚を拭いても意味はなさそうだった。


「殿下。お水です。飲めますか?」


 詩響は腰に下げていた竹筒に水を移すと、陵漣の口元へ運んだ。ゆっくりと傾け水を口へ流すと、こくりと飲んでくれる。


「よかった。意識はあるみたいだわ。殿下、たくさんあるので飲んでください」


 詩響は繰り返し竹筒で水を運ぶと、陵漣はすべて飲んでくれた。落ち着きを取り戻した子どもたちは、率先して地下から水を汲み持ってきてくれる。

 けれど陵漣の目は開かない。汗は流れ続け、水を飲んで意味があるのかわからない。子どもたちに気を使って、「大丈夫」と言うことすらできない。


(ご自分を犠牲にして、守ってくださったのね……)


 守ってもらったことを思い出し、窓から広場を見た。妖鬼は灰になっていることに、今さら気がついた。先ほどの凄まじい光は、やはり鳳凰の力だったのだろう。

 詩響は再び陵漣を見つめた。いくら水を飲ませても、呼吸は荒くなるばかりだ。


(教育制度の見直しなんて、玉座から指示を出せばいいだけでしょうに。そうすれば、鳳凰陛下のお手を煩わせることだってなかった。殿下だって倒れずに済んだわ)


 わからないことが、いくつもある。

 陵漣は、村へ来たのは鳳凰廟を壊されたからだと言った。けれど真の目的は教育制度の見直しで、村で一番価値のある蒸留については一切触れていない。

 それなのに詩響に興味を示した。廉心の人質ではないのなら、絶対音感とやらだろう。だが、音を聞き分けるだけの能力がなんの役に立つかわからない。

 詩響は陵漣の汗を拭いつつ、そっと頬を撫でた。


「あなたは、なにをしに来たの?」


 陵漣の体から熱気を感じた。詩響にも伝わってきて、つうっと額に汗がつたう。

 雀晦は水源豊富で穏やかな村だ。鳳凰の熱気に苦しむのは過去のことになっている。

 だが、思い込みだった。鳳凰国の熱気は終わらないと、痛感させられたようだった。

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