第一章 悪徳皇太子と獣の歌姫(3-1)


 詩響は呼吸が荒くなるほど全力で走ったけれど、すぐに後ろから腕を掴まれた。腕を掴んできたのは、息一つ乱していない朱殷だ。


「落ち着け! 殺されるわけじゃない! 冷静になれって!」

「殺されなければ良いわけではないわ! なにをされるか、わからないのよ! 私にはもう廉心しかいないの! あの子になにかあったら、私……!」


 詩響に両親の死んだ実感はなかった。土砂崩れに巻き込まれ、掘り返せなかったため遺体は見つかっていない。居合わせた者の証言がなければ、死亡の事実さえ明らかにならなかっただろう。

 ある日突然、大切な人がいなくなる恐怖を知っている。廉心が土砂に埋まる様子が脳裏に生み出され、ぼたぼたと涙が零れた。

 体は倒れそうなほど大きく震えたが、倒れないように朱殷が支えてくれる。


「落ち着けって。殿下は教育制度の見直しをしてるんだよ。貧富や土地ごとで差のない教育を目指すそうだ。今回の視察は、村の教育状況を知るためだ」

「……教育?」

「殿下は子どもこそ国の未来だとお考えだ。なのに国内で教育の差は大きい。そこで、最も辺鄙な村を視察しようってことだよ。視察先に、たまたま賢い廉心がいたってだけだ」

「嘘よ。あんなあくどい奴が、教育なんて立派なことをするわけない」

「本当だよ。ほら、見てみろ」


 朱殷は前方に佇む一軒の建物を指さした。

 建物の前には小さいが広場もあり、子どもたちが笑顔で走り回っていた。

 だが、建物は潮風と雨風で傷み、木造の壁は日焼けしている。敷地内には農作業や漁に使う道具が無造作に置かれていて、遊び場にも学び舎にも不適切に思えた。

 子どもたちを見守るようにして、廉心と陵漣は真剣な表情で話し込んでいる。


「ここが私塾です。村の備蓄倉庫を使っています。生徒は総勢八名で、教師は村の大人が交代で行います。授業内容は農業に関して」

「農業? 農作業のやりかたか? 学問は? 文字の読み書きはできるのか?」

「学問はありません。文字の読み書きは、できないと言っていいです。教えられる程度に文字を習得しているのは、俺だけです。訛りもあるので、共通語を知らない者も多い」

「つまり教育体制は存在しないと。お前、よく蒸留設備の開発なんてできたな。努力こそお前の才だ。蒸留そのものではない。お前は己の価値を誇って良いぞ」


 陵漣は廉心の頭を撫でた。認められて嬉しいのか、廉心の顔はほころんでいる。

 いつも詩響が頭を撫でると恥ずかしそうにして、でも黙ってくれていた。けれど今の廉心の表情からは喜びを感じる。

 まるで、詩響の前では表面を取り繕っていた――と突き付けられた気持ちになった。

 口惜しさと己への呆れ、そして、陵漣の指導者としての行動に感謝して震える。

 朱殷は詩響の気持ちを察したのか、陵漣と同じように、詩響の頭を撫でてくれた。


「長老さまたちは拉致だ人質だなん言ってるけど、邪推だよ。殿下の指示は『子どもを街の書院へ入れろ』だ。学費は無償。家族で入れる宿舎もあって、食事も出る。希望すれば、職の手配もしてくれるそうだ」


 え、と詩響は驚き朱殷を見上げた。朱殷はいつも通りで、慌てた素振りもない。

 人質扱いになると思っていた詩響は、ぽかんと口を開けて首を傾げた。


「なんだ! 良い話じゃない! なぜ長老さまは嫌そうになさっていたの!?」

「そりゃそうだ。だってこれ、完全に移住だろ? 子どもがいなけりゃ数年で廃村だ」

「……そっか。そうよね。移住しない大人の代で、雀晦村は終わりになるんだ」

「殿下は、村を存続させられる人員を置くと言っている。けど長老さまは面白くないだろ」


 詩響はあたりを見回した。自然にあふれた、自然しかない土地だ。生まれ育った雀晦村を嫌だと思ったことはなかった。あるとしたら、両親を飲み込んだ山くらいだ。

 それでも、長老や大人にすれば、先祖代々守ってきた土地だ。失うのは辛いだろうし、殿下の用意した人が管理するとなれば、長老は一村民に降れということに等しい。

 あまりにも配慮のない話に、詩響は俯いた。けれど、俯いた理由は口惜しさではない。


「……廉心は、きちんとした書院で勉強をできるのよね」

「嫌でもやらされる。あれだけ育てがいのある子どもは、他にいないだろう」


 嬉しさで拳に力が入った。教育のない村で蒸留を果たしたことは、偉業と言っていい。

 独学しか手段のなかった廉心が、学ぶ場を得る。それも皇太子という絶対的な人物の用意する場所だ。

 廉心の未来に光が射して、詩響は鼓動が早くなるのを感じた。


(長老さまには悪いけど、廉心には最高の話だわ! でも、あの皇太子。あいつは信用できない。言っていることもやっていることも、完全に悪人だもの)


 期待に胸は高鳴ったけれど、同じくらい不安も覚えた。

 移住する先は安全なのだろうか。二度と村に戻れない覚悟で行くしかないが、移住先にいられなくなる可能性はないのか。なにかあった時、皇太子は助けてくれるのか。

 ――鳳凰陛下は、本当に廉心をお怒りではないのだろうか。

 最高の話には違いないが、陵漣を信じるしか道はないことが恐ろしい。このまま行かせていいか迷われる。

 だがその時、詩響に思考を中断しろと言うように、大きな鳴き声が響き渡った。悲鳴のような痛烈な叫びに、詩響と朱殷だけでなく、陵漣も廉心も子どもたちも驚いている。


「なに!? なに、今の鳴き声! 動物ではないわ! 朱殷!」

「わかってる。静かにしろ。あそこになにかいる」


 朱殷は森のほうを睨んでいた。視線の先では茂みが揺れている。

 犬が出てくる時も、ああして茂みは揺れる。いつものことだ。けれど今回は違う。揺れは大きく、犬の体躯よりも高い場所にある枝まで揺れている。

 詩響は朱殷の背に隠れた。朱殷は腰に挿した剣の柄を握り、臨戦態勢に入っている。

 陵漣も朱殷と同じように、廉心と子どもたちの前に立ち、剣を抜く構えをしている。

 ――全員が固唾を飲んだ。そして、それは現れた。

 詩響の体は凍り付いた。出てきた物は、なんの生き物かわからなかったからだ。

 それは詩響よりも大きい生き物だった。体中の皮膚がふやけた時のように歪んでいる。全身が黒ずんでいて、ぶつぶつと赤黒くなっている箇所は隆起している。

 体毛はないが、頭部と顔、手足にはわずかな毛が生えている。毛は絡み合い縮れていて、野生で生きてきたことを物語っていた。

 歩行は四足歩行で、のそのそと這うように前進している。速度は遅く、襲ってくる様子はない。けれど、おどろおどろしい姿は恐ろしく、耐え切れず詩響は叫んだ。


「きゃああ!」

「落ち着け! 大丈夫だ! 細いし、足取りも悪い。団練の皆を相手にするより楽だ」

「けど異形よ! 人間でも動物でもない! なに、なんなの!」


 混乱し叫び狂う詩響の肩を、朱殷から奪うようにして陵漣が抱き寄せた。宥めるように肩をぽんぽんと叩き、見上げると、陵漣は穏やかに微笑んでいた。


「あれは妖鬼だ。朱殷の言うとおり、見目は恐ろしいが弱い。宮廷付近にはよく出る」


 抱き寄せられた手の大きさと力の強さに、詩響は驚き動くことを忘れた。代わりに廉心が動き、陵漣から詩響を取り返すように抱きしめてくれる。

 朱殷は詩響と廉心を後ろへさがらせて、剣を抜いて妖鬼を睨んだ。


「よく出るなら、殿下は戦い慣れているんですね。妖鬼とは、あの異形の名称ですか」

「俺たちはそう呼んでいる。宮廷のほうでは、もっと大きな妖鬼も出る。あれは小物だ」


 朱殷は顔色を変えなかったけれど、詩響は血の気が引いた。


(小物、なの? 私より大きいのに、もっと大きい物もいるの? こんな異形が……?)


 詩響の足は目に見えるほど震えた。気づいてくれたのか、廉心はさらに強い力で抱きしめてくれる。朱殷と廉心は目を見合わせて、お互い頷いた。

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