第一章 悪徳皇太子と獣の歌姫(2-2)
「……なんだ、お前は。犬の言葉とはなんだ。歌で躾けたのか?」
陵漣は神妙な面持ちで目を細めた。あまりにも真剣な表情に、詩響はつい笑った。
「大げさな。想いを通わせれば、襲ってきません。野犬なんて、珍しくないでしょう?」
「いや、珍しい。街に出る野犬は人を襲うから討伐する。想いなど通わない」
「それは敵意を示すからでしょう。なにもしなければ、おとなしい種族ですよ。飼うことのできる犬もいるじゃないですか。そういうことです」
「……そう、ではなくてだな」
「はあ。ではどういうことでしょうか。犬の生態には詳しくないのですが」
「詳しくない、のか……」
やはり陵漣も、陵漣の連れてきた人々も、驚き言葉を失っている。一体なにに驚いているのかわからず、気まずくなっていく。すると、廉心がすっと手を上げた。
「殿下。発言をお許しください」
「許す。なんなんだ、これは」
廉心は地面に膝を付き、軽く頭を下げた。視線を陵漣に合わせずに話し始める。
「姉の歌は、妖術の類いではございません。犬の鳴きかたと行動を照らし合わせ、私が統計を取りました。統計から鳴き声の意味を把握し、譜面にしたのが姉の歌。歌にしたのは、姉が声を発しやすいからです。鳴き真似をするのは恥ずかしいそうで」
「だが従っていた。服従させるような、特別な能力を持っているのではないのか?」
「いいえ。一方的に言葉を発しただけです。人間も、会話をせずとも発した言葉の意味はわかるでしょう? 『許してくれ』と言ったら、聞き入れてくれた。服従させたのではなく、築いた縁の成果なのです」
「そんな簡単な話か? 旋律を覚えれば誰でもできるのか? 村民は全員できるのか?」
「いいえ。姉以外にはできませんでした。姉に言わせると、譜面どおりに歌えている者はいないそうです。ほんのわずかの音の揺れも、許されないのだと思われます」
「では、娘はなぜ揺れのない音がわかる。歌謡に抜きんでた才でもあるのか?」
陵漣は廉心から詩響へ視線を戻した。表情は不審感を前面に押し出していて、まるで異形でも見つけたかのように睨んでくる。さすがに気分が悪く、詩響は口を尖らせた。
(なぜと言われても、廉心のした説明以上の話はないのよね。困ったな……)
詩響も廉心も黙り込んでいると、陵漣の後ろに控えていた女性が、ぽんと手を叩いた。
「絶対音感」
女性の涼やかな声に全員が振り向いた。振り向いた理由は、単語の意味か、それとも声と容貌の美しさか。
理由は各々あるだろうが、詩響は『絶対音感』という、初めて聞く単語に首を傾げた。陵漣もわからないようで、訝し気な顔で女性を見返した。
「なんだ、それは」
「聞くだけで、音の高さを判別できる能力です。私もかつて、収得しようと訓練をしました。ですが、まったくの無駄でした。歌謡ではなく、天賦の才です」
「ふうん。言語の解析は犬に限るのか? 鳴き声さえあれば、どの種でもできるのか」
「声は聞き分けられます。言語にできるかは、廉心の分析次第です。廉心、どう?」
「可能です。ただし、確証に足る検証を重ねる必要はあるので、即時には無理です」
「なるほど……」
陵漣は腕を組み、しばらく考え込んでいた。誰も沈黙を破ることはできずにいたが、しばらくすると、陵漣は極上のあくどい笑みを見せた。
「おもしろい! 決めたぞ。お前たちにしよう。長老。今度こそいいな。そういうことだ」
座を返上しろと言ったばかりなのに『長老』と呼ぶとは、なんという嫌味だろうか。
発言と行動のすべてに悪意を感じて、詩響はあからさまなため息を吐いてみせた。
「私と弟になにをせよと? やることがわからなければ、可否の判断はできません」
「おいおい。俺の話を聞いていなかったのか? お前たちに許すのは服従のみだ」
陵漣は、皇太子とは思えない雑さで詩響と廉心の肩を抱いてきた。馴れ馴れしい距離の詰めかたは気持ち悪く感じられたが、立場を考えれば突き飛ばすこともできない。
ぎりぎりと唇の内側を噛んで堪えていると、陵漣は詩響の顔を覗き込んでくる。
「とりあえず、滞在中の世話をしてもらおうか。二人、名は?」
答えてなどやるものか――と、心の中で毒づいた。だが表に出すわけにはいかない。ふいっと陵漣から目をそらし、ぼそぼそと呟くように名乗った。
「湊詩響と申します。光栄なお役目、謹んで拝受いたします」
「気持ちのこもった良い挨拶だ。不服であることは、しかと伝わった。少年、お前は?」
「湊詩響の弟、湊廉心と申します。僥倖に感謝し、殿下へ尽くすとお誓い申し上げます」
「ふむ。弟は処世を心得ている。姉とは大違いだな。聞いてるか? お前のことだぞ」
陵漣は、ぺんぺんっと詩響に頭を叩いた。こうも露骨に馬鹿にされると、我慢も限界に達する。もう無理だ、言い返してやる。そう思い陵漣を振り返ったが、陵漣はすでに興味を廉心へ移していた。
「わかりやすい説明だった。廉心は俺の雑役吏としよう。村の案内を頼む。書院はどこだ」
「書院はありません。村の大人による私塾でよろしければ、ご案内いたします」
陵漣も廉心にも、もはや詩響の話など終わっているようで、ささっと広場から出ようとしている。詩響も追いかけようとするが、陵漣に睨まれ足を止めた。
「お前は俺の部屋の支度でもしていろ。追うことは許さん。皇太子命令だ。従えよ」
皇太子命令と言われ、びたりと詩響は脚を止めた。庶民は従うしかない言葉だ。
廉心は『大丈夫』と表情で伝えてくれるが、見送るしかできないことは歯がゆかった。
廉心と陵漣が見えなくなるまで拳を震わせ、見えなくなったところで長老へ詰め寄る。
「長老さま! なんなんですか、あいつは! 本当にあれが皇太子なんですか!?」
「……民を焼かへん炎は、間違いなく鳳凰陛下のお力。皇太子殿下であられる証明や」
「だとしても、なにをしに来たんですか? 私になにをしろというの!」
「狙いは詩響と違う。廉心や。鳳凰国で水不足を知らへんのは、この村のみ。それも廉心の作った蒸留設備のおかげや」
水、と詩響は口の中でぽつりとこぼした。
そういえば、そうだった。辺鄙な雀晦村の価値なんて、廉心の蒸留設備しかない。
詩響に興味を持ったのは、絶対音感とやらが珍しい能力だからにすぎないだろう。
詩響は急に、どっと汗が噴き出した。鳳凰廟の取り壊しを見逃してくれても、廉心を連れていかないとは限らない。慌てて陵漣と去った方向を見たが、もう遅い。
睨むように長老へ目を向けたが、長老は気まずそうに詩響から目をそらすだけだ。
「海は瑞獣霊亀の領域や。霊亀は海を汚す行為を許さへん。霊亀の怒りを買い、沿岸じゃ、水没した集落がほとんどや。だが、廉心の蒸留設備は、陸でやるから海を汚さん。すごいもんだ。だから殿下は、廉心を取りに来たんや。詩響を手中に収めれば廉心は従う」
「……私を人質にするつもりね。なんてあくどい奴なの」
詩響は、ぎりぎりと強く拳を握った。廉心は陵漣に連れて行かれた。だが、おとなしく連れて行かせてなるものか。
追うことは許さないと言われた。皇太子命令だとも言われた。けれど、命令に従い廉心を失うくらいなら、命令を破り罰を受けるほうが何倍もましだ。
詩響は躊躇せず、陵漣と廉心の去った方向へ走り始めた。
「詩響! あかん! 立場悪なるだけや! 詩響!」
長老がなにか叫んでいた。村民を守らないなら長の座を返上しろ――陵漣の民を愛する強い言葉が、詩響の脳裏に刻まれていた。
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