第一章 悪徳皇太子と獣の歌姫(2-1)


 ――水不足の根本的な原因は鳳凰だが、民の生活を悪化させたのは宮廷だった。


 鳳凰国の政治は今、大きな転機を迎えている。

 始まりは一年前、当時の皇帝であり鳳凰天子・鳳君衡の逝去だ。前触れのない死は、民を苦しめたから鳳凰に見限られたから――と噂されている。

 鳳凰の怒りに触れたとされる悪政は、宮廷による水の独占だ。

 水不足であえぐ中、鳳君衡は水を税として徴収した。徴収した目的は『徴収した後、等しく分配するため』とされていたが、民にとっては水の強奪に等しい。

 水税は七年間も続いたが、鳳君衡の死と同時に撤廃された。撤廃したのが、嚆陵漣だ。

 鳳君衡と入れ替わりで天子に選ばれた陵漣は、正統な皇太子ではない。認知すらされていなかった妾腹の子で、鳳君衡の存命中は街で暮らしていた。

 陵漣の立太子が、鳳凰国の転機となった。

 皇族であるほう氏には皇女が三人おり、第二皇女には息子もいる。鳳君衡の没後、誰が皇帝になるか論争になると思われたが、議論は始まらなかった。

 天子に選ばれた陵漣が宮廷の主となるため、皇帝の座が確定したからだ。ただし、諸々の反発もあり、皇帝を見据えた皇太子になることを妥協点とした。

 陵漣が宮廷を率いるようになって、まだ一年だ。だが一年で国民の生活は向上し、水を取り戻した国民から大きな支持を得た。


 民の救世主と言っても過言ではない陵漣が、目の前にいる。

 詩響は、自分の汗と涙の染みる地面を見つめて、小さく震えた。後ろで平伏しているであろう廉心を抱きしめたい。今すぐ逃げ出してしまいたい。

 上下の歯が震えでぶつかり、かちかちと音を立てるが、がしっと上から頭を掴まれた。


「痛っ!」


 頭を引っぱられ、無理矢理に顔を上げさせられる。視界に鳳凰の姿はなく、目の前には陵漣の顔だけだ。目も口も吊り上がり、悪人さながらのあくどい笑みを浮かべている。


「なにを泣いている。そんなに鳳凰陛下が恐ろしいのか。民をお守りくださる鳳凰陛下が」


 にたにたと陵漣は笑い、ちりっと音を立てて火花が散った。火花の意味はわからないけれど、詩響はとにかく平伏した。


「とんでもありません! 生涯で拝謁できる日があるとは思わず、緊張しておりました!」

「ほお。鳳凰廟を潰しておいて、よく言えたものだ。取り壊したのは誰だ?」


 びくりと詩響の体が震えた。やはり、鳳凰廟を足蹴にしたことを罰するのだろう。

 だが『長老さまです』とつるし上げることなど、できるわけがない。かといって廉心を差し出すことは、決してできない。


(……鳳凰陛下の絵画はうちにある。いっそ、私がやったことにしてしまえば……)


 恐ろしくないと言えば嘘になる。けれど、廉心を失うことのほうが、ずっと怖い。

 詩響は意を決して、勢いよく頭を上げた。


「殿下! 鳳凰廟を取り壊したのは私――」

「な~んてな。鳳凰陛下は廟の一つ二つ、気になさらない。お前たちも気にするな」

「……へ?」


 陵漣はぷらぷらと手を振り、あははっと声に出して笑った。軽薄そうな笑いは、本当になんの興味もなさそうだった。

 詩響の心臓は、恐怖の音を立てていたけれど、期待の鼓動へ変わっていく。


(そう、なの? じゃあ今回いらしたのは廉心に関係ない? 罰せられることはないの?)


 自然と笑顔になっていくが、今度は腕を引っぱられた。釣られた魚のように跳ねて立ち上がると、陵漣は平伏している村民を見渡した。


「全員、頭を上げて立て! 平伏は好まん。顔を見なければ、悪だくみを見抜けないからな。ああ、後ろ暗いことのある奴は平伏していていいぞ。たとえば!」


 がしっと、再び陵漣に頭を掴まれた。ぐりっと長老のほうへ顔を向けさせられ、陵漣に肩を組まれて前のめりになる。


「鳳凰廟を潰した責任を、小娘が一人で背負ってくれて助かる――と思った連中とかな」


 陵漣の言葉に、びくっと長老を始め大人たちの体が揺れた。都合よく扱われると思っていたが、実際に反応を見ると悲しくなる。


「鳳凰廟はただの建築物ではない。廟を通じて、祈りは陛下へ届く。今回俺が来たのは、突如、届く祈りが少女と少年だけになったからだ。村へ異変ありと思い参じたが、鳳凰陛下へ無礼をはたらいていたとはな」


 陵漣の後ろに控えていた女性が、すっと一枚の絵画を取り出した。輝く絵画は、詩響が庭に祀っている鳳凰の絵画だった。


(勝手にうちに入ったの!? なんて――いえ、いいわ。これなら廉心は罰せられない!)


 ほっと詩響の動悸は収まっていくが、詩響の思惑に気づいたのか、陵漣は詩響を見てにやにやと笑っている。

 詩響は思わずぷいっと目をそらすと、陵漣は馬鹿にしたようにくくっと笑った。


「さてと。前置きはこれくらいにして、今後のことを話そう。長老、いいな」

「……ご提案のことには相応しい者を選出いたします。どうか、子どもはお許しください」


 のうのうと立ち上がっていた長老は、上半身を地面と平行にして頼み込んだ。

 けれど陵漣は、ふんっと鼻を鳴らすと長老の胸ぐらを掴んで、眼前に引き寄せる。


「勘違いするなよ。皇太子の言葉は提案ではなく命令だ。守るべき村民に罪をかけようとした奴が調子にのるな。恥の意味を知っているならば、長の座を返上するがいい」


 陵漣は怒りで目を燃やしていた。切れ長の目は、炎を宿しているように感じられる。口も態度も悪いが、民を守ることに強い信念はあるようだった。

 振る舞いに反して溢れる愛国心と強い意志に、緊張と感動で胸が震える。守ってくれる言葉は嬉しかったけれど、素直に喜べないところもあった。


(……助かったけど、乱暴な人ね。まるで匪賊じゃない。本当に皇太子なの?)


 場の空気は重くなり、ひそひそと隠れて話す小声も聞こえ始める。

 一体どうしたものかと息を呑むと、がさりと森に面している茂みが揺れた。小さな揺れは次第に大きくなり、ついにばきんと音を立てて茂みは潰れた。

 茂みを潰したのは、五匹の野犬だった。ふうふうと息を荒くしていて、ぐるるっと低く唸ている。五匹は村民の様子をうかがいながら、じりじりと距離を詰めてきた。


(しまった! 匂いに驚いて出てきたんだわ! 外の匂いは、山や森にはない匂いだ!)


 村人は驚いて一歩さがるが、真っ先に飛び出た人間もいた。飛び出たのは、後方で守られるべき皇太子の陵漣だった。


「ふん。こんなのがいるのか。やはり、山には手を入れなければならんな」


 陵漣は、慣れた手付きで腰に挿していた剣を抜く。村では見たことのない、鋭く輝く銀の刃を野犬へ向けた。野犬も牙をむき、陵漣へ敵意をむき出しにしているのがわかる。

 よかった、助かる――と安堵する場面だが、詩響は陵漣の腕にしがみついた。


「なにをするんです! まさか、殺すおつもりですか!?」

「当然だ。野犬は放っておけば人間を襲う。ならば切るしかない。そうしてきただろう?」

「するわけないじゃないですか! どいてください! 武器をしまって!」


 詩響の叫びに驚いたのか、陵漣は剣の柄を握る手を緩めた。その隙に、詩響は野犬へ駆け寄る。地面に膝を付いて両手を広げ、そして、歌った。

 荒れた場に、詩響の柔らかな歌声が響いた。静かに空気を振るわせて、穏やかな旋律が広がる。歌詞はなく音を発するだけだったが、場の空気は優しさで満たされていく。

 だが、野犬に殺されるかもしれない場面で呑気に歌う詩響に、陵漣は目を丸くした。


「あぁ!? お前、馬鹿か! なに呑気に歌ってんだ! 戻れ!」


 陵漣の呆れている叫び声は聞こえている。けれど詩響は歌をやめなかった。

 歌は、ただの歌だった。けれど詩響は、規則のある旋律に想いを込めて歌った。


(驚かせてごめんね。危ない時は教えるわ。食事をあげるから、山へ戻ってほしいの)


 動物に人間の言語は通じないし、歌など知りもしないだろう。それでも詩響は歌った。同じ旋律を、何度も、何度も。

 すぐに野犬たちは唸るのを止め座った。野犬たちは落ち着いてきたが、剣を持ったままの陵漣に空気を壊される。


「おい、お前! なにをしている! その歌はなんだ!」


 陵漣は歌う詩響の肩を掴もうとしたが、廉心が陵漣の腕を引いて接触を防ぐ。


「お静かに。犬を説得してるんです。雑音が入ると、犬に言葉が届かなくなります」

「犬に、言葉だと……?」


 陵漣は詩響をじっと見ていた。じろじろと見つめられると気が散るけれど、詩響は犬たちに意識を集中した。少しすると、すべての犬は体の力を抜き、尻尾を振り始めた。

 犬の落ち着いた様子を見ると、詩響は鞄から包みを一つ取り出した。包みを開けると、肉が入っている。犬たちの前に置いてやると、犬たちは肉を加えて去っていった。

 犬が立ち去ると、しんと静まり返り、詩響はようやく立ち上がった。


「もう大丈夫ですよ。わかってくれました。でも、あまり騒がないようお願いします」


 詩響はお互い傷つかずに済んだことに安堵して微笑んだ。村民も笑顔を見せているが、陵漣と、陵漣の連れてきた人々は目を丸くして詩響を見ている。


「え? なんですか? あ、怪我した人でもいましたか?」


 詩響はきょとんと首を傾げたが、やはり陵漣たちは目を丸くして微動だにしない。しばらく沈黙が走り、陵漣は声を絞り出した。

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