第一章 悪徳皇太子と獣の歌姫(1)

 詩響は非常に機嫌が良い。このところ、廉心は一日家にいるからだ。

 近隣への蒸留指導にひと段落ついたらしく、村から出る必要もなくなった。おかげで、山や森へ入ることもない。


「廉心! 水を汲みに行くから手伝って。ついでに、畑で野菜も採りたいわ」

「いいよ。蒸留の進度も確認しておきたいしね。ちゃんとできてるといいんだけど」

「確認は村の皆でやってくれてるじゃない。なにかあれば連絡をくれるわよ」

「だからといって、放っておくのは無責任だよ。小さい不備は俺じゃないと気付けないし」


 廉心は読んでいた書物を閉じると、戸棚から手袋を取り出し手に嵌めた。

 勉強ばかりしていたからか、力は強くない。水や重い荷物を運ぶ時は、手を厚手の生地で覆わないと、痛めてしまうらしい。


(神童なんて言われるよりも、健康じゃなきゃいけないわ。もっと運動もしないと)


 昔と変わらない習慣の廉心を見て、詩響はつい廉心の頭を撫でた。廉心は、むっとした表情をしたけれど、大人しく撫でられてくれている。


(私に心配をかけてる自覚も、あるのよね。だからこうして『弟』でいてくれる)


 廉心は賢く、優しい子だ。子ども扱いされることは恥ずかしいだろうに、詩響の手を振り払うことはしない。詩響は廉心の配慮に乗り、手を繋いで外へ出た。

 家の外は、やはり暑い。廉心は空を見上げ、満足気な笑みを浮かべる。


「良かった。今日も鳳凰陛下はご健勝であられるようだ」

「そうね。山にも異変はないし、水害もない。すべて鳳凰陛下のご加護あってこそだわ」


 詩響と廉心は地面に膝を付き、山へ向かって平伏した。雀晦の山には鳳凰がいる、なんて逸話はない。意味はないかもしれないけれど、祈らずにいられなかった。


(早く新しい鳳凰廟を作らないと。うちの畑を一つ潰してもいいから、きちんとした廟を)


 瑞獣と共に生き、瑞獣と共に死に逝くのは民のさだめ――そう教わって育った。瑞獣を足蹴にすればどうなるか、恐ろしくて考えたくもない。

 詩響は恐怖を吹き飛ばすように顔を振ると、ぐいっと廉心の手を引いて走り出した。


「さ! 昼になる前に水を汲んじゃいましょう! のんびりしてたら、もっと暑くなるわ」

「走らなくてもいいよ。ほんと機嫌いいね、最近。どうしたの」

「べつに、どうもしないわ。どうともなく、廉心といられるのが嬉しいだけよ」


 廉心は起きるとすぐ机に向かい、時間になれば二人で食事の支度をする。農作業をして夜を迎える日々が、詩響はたまらなく幸せだった。

 廉心と手を繋いで歩くことは最高の幸せで、思わず声高らかに歌ってしまう。歌といっても歌詞はなく、旋律だけだ。ら、ら、らと音だけを紡いでいく。

 軽快な足取りと軽やかな歌に、廉心も幸せそうに微笑んだ。


「姉ちゃん。歌うのはいいんだけど、もうちょっと声おさえてよ。でないと」

「詩響! 廉心!」


 廉心の言葉を遮って、詩響と廉心を呼ぶ叫び声が聞こえた。

 声の方向を見ると、声の主は詩響より少しばかり年が上の青年だった。長い黒髪を後ろで一つに結っていて、整った顔立ちをしている。青年の金の瞳は不安げに揺れていた。


朱殷しゅあん。どうしたの、そんなに慌てて。なにかあったの?」


 走ってきた青年は、団練の副団長、朱殷だった。

 団練は村の警備組織だ。朱殷は若いながらに剣の腕は一流で、村の誰もが信頼を寄せている。実力があるからか、朱殷が恐れや焦りを感じている姿は見たことがない。

 いつも落ち着いている朱殷だが、明らかに焦っていた。苛立ちすら感じられ、詩響の気も追い込まれていく。


「なにかあったのね。山? まさか、土砂崩れじゃないわよね」

「土砂崩れのほうがましだったかもな。早く来い。ちょっと、まずいことになった」

「なにそれ。山の事故よりもまずいことなんて、雀晦村にはないでしょう」 

「とにかく来い。団練の広場に村の全員が集められている。お前たちで最後だ。話はそこで」

「うん……?」


 わけのわからぬまま、詩響と廉心は朱殷に付いて団練へ向かった。

 団練は村で一番大きな施設だ。なにかあれば集まる場所になっている。

 けれど、村人全員を集めることは、あまりない。収穫祭のような行事ごとくらいで、緊急事態で使用したことはなかった。

 広場に集まった人々は混乱した表情をしている。誰も彼も事態をわかっていないようだけれど、異常事態であることは、すぐにわかった。


「朱殷! どういうこと! どうして長老さまが下に座っていらっしゃるの!」


 村には序列がある。細かな上下関係はないが、一番偉いのは長老で、二番目は次期長老、以下同列、といったところだ。当然、長老は村人より一段高い位置に座るのが慣例で、団練の広場にも、長老の座すべき場所を設けている。

 それなのに、長老は村人と同列に座っている。あるまじき無礼だ。

 だが、長老の周りの誰も、なにも言わずに座っている。詩響は焦り、説明を求めて朱殷の腕を掴んだ。けれど朱殷も語ってはくれず、ふいっと目をそらすだけだった。


(なんなの、一体。どういう集会なの? 今まで、こんなことは一度もなかった)


 重い雰囲気に息を呑むと、団練の訓練場の扉が開かれた。中からは、ぞろぞろと人が出てきた。二十代と思われる男女が数名並んでいて、男性は鎧に剣を携えている。

 女性は艶やかな服に身を包んでいた。なんという名称の服かすら詩響にはわからない。

 やって来た男女は全員、壇上に並んだ。だが、長老の座るべき椅子は空いている。

 長く村を率いてきた長老に辛酸を嘗めさせている状況に腹が立ち、詩響は耐え切れず檀上へ向かおうとした。

 ぎょっとした廉心と朱殷が、やめさせようと手を伸ばしているのは見えている。

 けれど、廉心と朱殷に掴まるより早く、別の誰かに掴まってしまう。何者かの腕は、男の腕だった。詩響の顔の前を通って左肩を抱くように引き寄せた。


「きゃあっ!」

「姉ちゃん! なんだお前! 姉ちゃんに触るな! 放せ!」


 詩響が男の腕を振り払うより早く、廉心が飛び掛かった。けれど朱殷は廉心を引きはがす。詩響を守ろうとした廉心をだ。


「よせ、廉心! 落ち着け!」

「なにするんだよ、兄ちゃん! 放せ! 姉ちゃん! 姉ちゃんが!」

「落ち着け! あのかたの服が見えないのか! 服の色をよく見ろ!」


 朱殷に言われて、詩響と廉心は男の全身を観察した。

 年齢は二十代の後半だろうか。一見すると黒髪だが、日に当たると赤く輝いている。

 髪と揃えたかのように、深紅と黒を組み合わせた衣を纏っている。金の縁取りに上品な刺繍は、高級品だと一目でわかった。

 高級衣類を扱う行商人なのだろうか。土にまみれて生活する雀晦村には無用の長物だ。馬鹿ではないか――そう思ったが、廉心の理解した情報は、詩響とは違うようだった。


「どうして、まさか、あなたは……!」

「廉心? どうしたのよ。知ってる人なの?」

「知ってるもなにも……」


 ごくりと、廉心は喉を鳴らした。いつになく焦っている。朱殷も、周囲の大人たちも皆、焦っている。理由をわかっていないのは、詩響を含め子どもだけだ。

 廉心は、重々しく唇を動かした。


「深紅は鳳凰国の禁色。皇族にしか許されない色だ。衣服に深紅を纏うのは、皇族のみ」

「……え? じゃあ、この人は」


 詩響が驚きで目を見開いた時だった。

 深紅の服の男から、炎が巻き起こる。広場にいた人々を包み、詩響も廉心も、深紅の炎に包まれていく。


「きゃああああ!」


 焼ける。焼け死ぬ。

 沿岸部の雀晦村は、強い潮風に吹かれる。潮風は炎をさらに強くするだろう。山火事にもなるかもしれない。そうなれば、近隣は死滅したも同然だ。

 ――終わりだ。

 前触れもなく立たされた死の淵で終焉を覚悟した。だが、詩響はふと気がついた。


「……熱くない?」


 詩響は両手を見た。掌も腕も、どこも焼けていない。それどころか、服も無事だ。炎に包まれながら、詩響はどこも焼けていなかった。

 よく見れば、周りの誰一人として焼けていない。廉心も、炎の中で焼けないことを不思議そうにしていた。


「どういうこと? どうして熱くないの?」

「当然だ。鳳凰陛下は瑞獣。瑞獣は皆、民を殺すことはなさらない」

「……今、なんて言ったの?」


 気のせいだろうか。鳳凰陛下、と聞こえた。言い間違いだろうか。

 戸惑いながら問うと、炎を纏う男は詩響の頭を掴んで、力付くで地面に伏せさせた。


「きゃあっ!」

「いい度胸だな、田舎娘。許しもなく話しかけ、あまつさえ名を問うとは無礼千万。だが、今日は機嫌がいい。特別に許そう」


 男は詩響の頭から手を放し、詩響は怒りを踏みしめ立ち上がる。文句を言ってやろうと思っていたけれど、途端に動けなくなった。目の前に、ありえない存在がいたからだ。

 男の傍らに、鳥がいた。赤く、赤く、燃え盛る鳥が。炎を放つ鳥は、詩響が毎日祈りを捧げる絵画とそっくりだった。

 男は笑う。恐ろしく、妖しく、美しく。


「鳳凰国皇太子にして鳳凰天子、こう陵漣りょうれん。鳳凰陛下の命に従い参上した」

「鳳凰陛下……!?」


 広場の全員が平伏した。詩響も、我知らず跪き、地に額を擦り付ける。長老を下に見たことに謝罪を求めることは、なんと愚かなのか。

 詩響は震えた。震えたのは、鳳凰の顕現でも嚆陵漣の横暴にでもない。


(雀晦村には鳳凰廟はない。あるのは、廉心の作った水。まさか、鳳凰陛下は……!)


 鳳凰の加護は得られないと、わかっている。けれど、直々に罰を降されるとは思っていなかった。

 ――終わりだ。

 瑞獣の怒りに触れて、生き残る道などありはしない。

 地面にぽたりぽたりと水滴が落ちた。零れたのは、焼かれずとも感じる鳳凰の熱で噴き出た汗と、最愛の弟を失う未来への涙だった。

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