第4話 扶桑型はほんとうにダメ戦艦だったのか?(1)
世界の東にある、日の昇る国ということで、「扶桑」は日本の別名となりました。
ところで、「扶桑」というと、私としてはやっぱり「これは言っておきたい」というのが、日本の帝国海軍(大日本帝国の海軍)の戦艦扶桑についてです。
この項目だけ小説との関連性がとても薄いんですが……。
帝国海軍では、戦艦の名に、
第二次世界大戦期の戦艦は戦時下で完成した武蔵まで含めて十二隻ありました(戦艦として建造されたけど当時は別の用途で使われていた艦は含めない)。
このなかで、旧国名以外の名称をつけられた戦艦が扶桑でした。
なお、その十二隻のなかで、
扶桑型は、扶桑がタイプシップ(一番艦)となり、二番艦が
扶桑型戦艦は、その前のクラスである
日本国全体を表す「扶桑」と、長いあいだ日本の都があった山城国にもとづく山城を一番艦、二番艦とし、続く伊勢は皇祖神
なお、伊勢と日向は予算不足で起工が遅れているあいだに設計のやり直しをしたので、扶桑型戦艦とは区別して、伊勢型戦艦とされています。
ところが、太平洋戦争(一九四一年対米英宣戦以後)の戦記を読むと、扶桑型戦艦の評判はさんざんです。
第二次世界大戦にはおよそ役に立ちそうもなかった、そして実際にも役に立たなかったダメ戦艦。
「この艦が出動するようになったら日本もおしまいだ」と言われ、そして、実際に出動させられたらあえなく一方的に砲撃・雷撃(魚雷攻撃)を食らって撃沈され、生存者非常に少数という悲惨な
扶桑型の二隻、扶桑と山城は、この一九四四(昭和一九)年一〇月の「スリガオ海峡夜戦」で一方的に米軍(合衆国海軍)の攻撃を受けてなすすべもなく撃沈されてしまいます。
でも、一方的敗北については、艦の性能のせいも多少はあるだろうけど、圧倒的優勢の敵が待ち構える狭い海峡に夜間に突入させるという作戦のミスが大きい。
ミスと言うより、全滅することがわかっていてやった、確信犯?
当時は基本的に有視界で目で見て戦闘していたので、夜間の海上戦闘は基本的にできませんでした。
そんななかで、帝国海軍は、個人の夜間見張り術の練度を高めることで「夜戦」を積極的に挑み、夜戦能力の低い米軍に一方的に大打撃を与えることを基本戦術の一つとしてきました。
太平洋戦争でそれが大成功を収めた例もあります。
ところが、戦争中に米軍のレーダーが発達し、米軍はレーダーを用いて夜間でも戦闘ができるようになりました。そして、ついには帝国海軍が夜戦で不意打ちを受けて敗北する例も出て来ました。
日本も艦載レーダー開発を進めましたが、なかなか使いやすくて性能のよいものにはなりませんでした。
扶桑型戦艦が戦ったスリガオ海峡夜戦では、アメリカ軍がレーダーを駆使していたのに対して、日本側は十分なレーダーを持たず、持っていても使いこなせませんでした。その結果、夜間の海峡で、敵の情勢もじゅうぶんに把握できないまま一方的に撃たれて、扶桑、山城ともどれくらいの被害を受けたのかわからない状態で沈没してしまいました。
扶桑と山城がまともに戦闘したのはこの一回きりなのに、この戦闘について実情を伝える生存者は、事実上、ほとんどいません(山城の生存者十名、扶桑は生存者なしとされるが不明)。
武蔵や大和が、圧倒的な航空攻撃にさらされながら戦った最後の戦闘の様子は、生存者によって伝えられ、第二次世界大戦後にも語り継がれています。一九四二(昭和一七)年一一月、比叡と霧島が、壮絶な夜間の水上戦闘の末、夜が明けて航空攻撃を受ける状況になり、自沈するまでの物語も語り伝えられています。
それに対して、扶桑と山城は、米軍側の資料や、戦場からの離脱に成功した重巡洋艦
その結果、作戦も無理だったけど、艦もダメだったんだよ、という「物語」が作られてしまったように思います。
でも。
ほんとに、扶桑型戦艦ってそこまでダメだったのか?
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