第4話


 心が躍った。

 黒を流すのは、私だけではなかった!

「顔、黒くなってるよ」

「そういう赤井さんだって」

「え、うそ。アイラインかな……それともマスカラ? やばい、先生にばれたら指導室行きだ」

 赤井さんは、ポケットから小さな鏡を取り出すと、顔を見た。

 それから自席に戻ってカバンを漁り、ポーチを手に取ると、私の元まで戻ってきた。

「暑くてメイク溶けたみたい。わたし、クレンジングシート持ってるから。黒田さんも使って」

「え……」

 彼女の黒は、体から染み出した黒ではなかった。顔にのせた黒だったんだ。

 そんなこと、少し考えればわかったはずなのに。目に映ったものを見て、何を考えるでもなくすぐさま心躍らせた過去の自分を殴る。

 差し出されたクレンジングシートを手に、フリーズした。メイクをしていない私には、どこをぬぐえばいいのかわからない。

「どこ拭いてんの? ここだよ、ここ」

 気づけば赤井さんの顔からは、不自然な黒が消えていた。黒を消した、赤井さんの肌をなでたクレンジングシートが、私の顔へと近づいてくる。

「ここが黒……って、あれ?」

 ああ、気づかれた、と思った。

 どうすればいいのか、考える余裕が私にはなかった。

 完全に、焦りの渦に落ちた。

 私の体にある穴という穴から、何かが漏れ出していくのを私は止められなかった。

 私はこの雨に、「このまま世界を終わらせて」と願わずにはいられなかった。今この瞬間に、なんて贅沢は言わないから、このまま、と。

「た、大変!」

 赤井さんは、叫ぶと私の手を掴み、走り出した。

「なんで言ってくれなかったの! 調子悪いならすぐに言ってよ! クラスメイトでしょ⁉︎」

「いや、別に、平気だから」

「平気じゃないよ」

「これはいつものことで」

「え……?」

 赤井さんの足が止まった。

「言ってなかったけど、私――」

「え? 黒田さんの顔は、いつも真っ青なの?」

 差し出された鏡を見る。

 するとそこには、ゾンビか何かのように青ざめた顔があった。

「大変だ!」

 男子の大きな声が響き渡る。

「水が逆流してる!」

 緊急事態が、一部の人を興奮させていた。怯えて動けなくなる人がいるように、興奮してじっとしていられなくなる人もまた、たくさんいた。

 廊下を走り出す人たちは、みな同じ方向へ向かう。

 そして、しばらくすると、その人たちが臭いとともにゆっくりと歩いて戻ってきた。

「一階が腰の高さまで沈んだ。で、いつ二階にくるかわかんないから、みんな今のうちに三階に避難。さぁ、急げ!」

「ねぇ、なんでみんなそんなに汚れて臭いの? 一階に行ったせい?」

「ああ、まぁ、一階に行ったやつもいる。けど、行ってないやつのほうが多いんじゃない?」

「ん? じゃあ、どういうこと?」

「上で流したもんがさ、二階で噴水みたいになってんだよ」

 二階にいた生徒たちが三階へ上がる。

 私も赤井さんに連れられて、三階へ上がる。

 

 三階は、一階の生徒たちも上がってきているために、座るのもままならないほどに人があふれていた。

「せめて、屋上が使えたらな」

「この雨じゃ、無理でしょ」

 密集しすぎているだけではなく、窓を開けることもできない。建物の下からは、入り込んだ水が湿気を送り込んでいる。

 熱気がすごい。

 みんなの体から、水分が染み出す。

 私の体から黒が染み出してしまう。

 焦れば焦るほど、鼓動は速まり、体温は高くなり、汗が噴き出る。

 そんなことはわかっているけれど、わかっていたらどうにかできるというものではない。

 私には、どうにもできない。

「あれ、黒田さんも下いっちゃったの?」

「……え?」

「なんだ、黒田さんもあたしたちみたいなタイプだったの? 知らなかった」

 普段はろくに話すことがないクラスメイトに声をかけられ、いよいよ心のストッパーが外れた。

 体を制御しようとするものが機能不全に陥ったことをいいことに、穴という穴から黒が逃げ出していくのを、肌という肌が感じる。

 もう、私の高校生活は、おしまいだ。世界よ、今すぐ――終わってしまえ!

「もういっそさ、みんなで泳いでこない? 下の泥水」

「いや、衛生的に問題ありでしょ」

「いや、こんなことになったらさ、もう世界の終わりも同然じゃん? それなら、楽しいことしてさ、ワイワイやったほうがいいと思うんだよね」

「ほら、行こう。黒田さんも。っていうか、黒田さんってなんか距離あるからさ。クロちゃんでいい?」

「おーっし、行こう、クロちゃん! カスミンもおいで」

「うん!」

 赤井さん――いや、カスミンに連れられて、みんなと一緒に階段を下りた。

 先生の目から逃げて、泥水が広がる一階まで行くと、そこには数人の生徒がいた。

 同じようなことを考えた生徒は、ほかにもいたのだ。

「いえーいっ!」

「うっわ! 冷たい! やったなーっ」

 普段だったら触りたくないと思う、汚い水をかけあって、笑っている。

 体から、また黒が染み出した。

 もう、いっそのこと――。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る