第2話


「本当に、一人で平気だった?」

 扉を開けた時、お母さんは玄関にいた。鍵を開ける音で私の帰宅を察したらしい。

「平気だよ。インフルエンザの予防注射も打ってもらえた」

「あー、よかった。でも、油断しちゃダメだからね。かからないように対策してよ?」

「わかってる」

「着替えるでしょ?」

「うん」

「洗濯機のスイッチ入れるの、任せてもいい?」

「うん」

「まだ洗剤入れてないから。あと、漂白剤も――」

「わかってるってば!」

 お母さんに強くあたれば私の体液が透明になる、なんてことはない。そんなこともわかってる。わかっていても、感情を抑えられなくなる。そんな自分が、私は嫌いだ。


 服を脱ぎ、似たり寄ったりの真っ黒な服に身を包む。着ていた服を洗濯機に放り込んで、洗剤と漂白剤、お母さんのお気に入りの香りの柔軟剤を入れて、スイッチを押す。

 黒を着ているのだから、黒いシミなんて気にしなくていいのかもしれない。

 でも、見えない黒が、どうしても気になった。

 洗えばストレスが一つ減るのなら洗えばいいと、いつの日か、お母さんが言った。

 それからずっと、こうしてすぐに洗濯をしている。

 おかげで洗濯は得意な家事のひとつになった。問題があるとすれば、洗剤代と水道代が半端ないってことくらい。


「ねぇ、明日から冬服だったっけ?」

「ああ、うん」

「長袖のやつ、シミ落ちなかったんじゃなかったっけ? ブラウス、急いで買いに行かなきゃだね。ごめん、他のこと考えてて……。お店、まだ開いてるかな」

「買わなくていいよ。上着脱がないから」

「そう?」

「うん」

 洗い上がった黒を干しながら、クローゼットを思い浮かべる。

 わたしは知っている。漂白剤を使ったとしても、何度も汗が染みればどんどんと黒が奥へ入り込み、脇だけグレーになったブラウスが、目が届かない端っこに隠されている。

 夏服の時は、ダボダボのベストで誤魔化していた。

 明日からは冬服。上着を羽織れば人の目には触れないはずだから、シミがあってもきっと問題はない。脱がなければいい。脱がなければ、汗が出やすくなってしまうけれど、見られるよりは、隠せたほうがいい。

 きっと、自分から「新しいブラウスが欲しい」とお母さんに頼めば、新しいブラウスを買ってくれただろう。でも、なんだか胸が痛かった。こんな体質じゃなきゃ、そんな出費は要らなかった。私がこんな体で生まれてこなければ、親こんな苦労をさせることはなかった。だから、私はねだれなかった。普通ならしなくていい出費を、さらにしてとは言えなかった。

 私は思う。

 私は親ガチャに当たったと思う。

 だけど、親は、子ガチャでハズレを引いたと思う。


「今日、暑いらしいけど」

「ヘーキ。行ってきます」

 衣替えの日は、季節外れの酷暑だった。ジャケットを羽織ると、サウナスーツでも着ているような気分になる。

 外を歩くだけで汗が出そうで、心が震えた。怯えたら余計に体から黒が染み出すことを知っているから、平静を装おうとする。

 だけど、暑い。

 ジャケットを脱げるものなら、脱ぎたいほどに暑い。

「おはよ、黒田さん」

 突然声をかけられて、驚き手のひらにじゅわりと汗をかいた。

「今日、暑いね。ジャケット羽織ってて平気?」

「ああ、うん。平気。それと、お、おはよう、赤井さん」

 ひとりがよかった。

 スピードも、立ち止まるタイミングも勝手に決められる、ひとりがよかった。

 赤井さんは、私と一緒に学校まで行きたいみたいだ。じゃあまたあとで、とは言ってもらえない。私とて、先に行くね、とは言えない。それに、ちょっと寄るところがあるから、なんて、朝一番には言いにくい。

 喉から手が出るほどひとりの時間が欲しい。だけど、私の手は短いのか、ひとりの時間に届かない。

 太陽がジリジリとした熱を送ってくる。暑い。じんわりと脇に汗をかいた気がして、手を振り歩くのをやめた。指がかゆいふりをする。風が通りさえすれば、湧き出す黒を少なくできるかもしれないという根拠のない想像に従って、脇に隙間を作る。

「ねぇ、ちょっと、聞きたいことがあるんだけどさ」

「ん?」

「黒田さんって、病気なの?」

「……え?」

「いや、その……。おばあちゃんが入院しててね、お見舞いに行った時、見た、から」

 まるで、私が太陽になったかのように、体が熱を持ち、放つ。布を纏う内側で、普通ではない液体が噴き出すのを、私は感じた。

 対して口の中はカラカラに渇いていた。全身こうならいいのに。そうだ、揺らいだ時にカラカラに渇いてしまえばいいのに。それなら、ずっと揺らいでいればいいだけだ。揺らがないようにと意識するより、揺らごうと意識する方が、私には楽だ。

「ごめん、余計なこと聞いちゃったね。え、えっと……。それじゃあ、またあとでね!」

 喉から手が出るほどに欲しかった、ひとりの時間がやってきた。



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