第2話 和牛の赤ワイン煮
その建物は、貨物コンテナを改造して作られていて、大きな窓が一つと開き戸がなければ、現代アートの作品と言われても頷けるほど異質に見えた。
恐る恐る中に入ると、意外と広く、合板の床には事務用の机と椅子が1セットあるだけで、他には何もなかった。壁に設置された棚にはチェーンソーや大きなオノ、ノコギリや用途の分からないかぎ爪のような道具がきれいに並べられている。
―猟奇殺人者の秘密の部屋みたい。
「あのーすみません、予約していた田中ですけど」
中に誰もいないことは一目で分かっているのに、律義に声をかける。そんな彼の律儀さに何度も救われたことがあるが、同時に苛立ちを覚える瞬間も少なくなかった。
「いらっしゃい」
「ひぃっ」
突然後ろから声が聞こえ、情けない声が出た。ちょうど声の方を向いていた相方は、引きつった笑顔のまま固まっている。恐る恐る声の方に目を向けた瞬間、全身が凍りついた。
「ぎゃぁぁぁ」
入口には、ゴムのエプロンにゴム手袋、黒いタオルを頭に巻いて透明なゴーグルをつけた血まみれの男が立っていた。しかも、その手には血の滴るナイフが握られている。
―死んだ
「ああこれか、すまん。今裏でシカの解体をやってたもんで」
―本当にシカの解体か?もしかしてとんでもないところに連れてこられたんじゃ…
「いやーびっくりしました。知り合いの野人太郎さんから面白い管理人のいるキャンプ場があるって聞いて来たんですけど、猟や解体もやるんですね」
「あぁ、あの『原人ライフ』とかいうチャンネルやってるやつか。あいつはなかなか良かったよ。まあ、動画撮ってるときはうるさかったけどな」
―この人が「なかなか良かった」とか言うと、食べたのかって思っちゃうよ…。
「ところで姉さん、自己防衛本能が強いんだな」
「え、私?なんで?」
「本当に驚いたとき、人は声も出ないもんなんだが、姉さんは叫んだじゃないか。強い精神力や本能的な行動力がないとなかなかできない芸当だよ」
「それはどうも…」
―ていうか姉さんって・・・
「じゃあ、おふたりさん楽しんでな」
「へ?それだけ?」
「ん?あんた予約してくれた田中良樹だろ?事前決済終わってるし・・・あ、そうか初めてか」
「そうです。初めてお邪魔します」
「俺、あんまりやりたくないんだよな。でも、これも仕事か・・・」
血まみれ管理人はブツブツと文句を言いながら、ひとつ咳ばらいをした。
「ようこそ!ほほえみヶ丘希望の森キャンプ場へ。ここは自然あふれるキャンプ場。人が野生に帰れる場所。夜には満天の星空を眺め、野生動物たちのおしゃべりに耳を傾けてください。電波状況は絶望的だけど、思う存分自然を満喫してデトックスしてください。レッツエンジョイサバイバルライフ!」
管理人は、まったく抑揚のない無感情な声でそれだけ言うと、無表情のまま、その場を立ち去ろうとした。
「ちょちょ、そんなんじゃなくて、待ってください。なんかルールとか禁止事項とかないんですか?」
「悪いと思うことはやらない。自分のやったことは自分で始末する。それだけ、あえて言っとくとゴミはちゃんと持ち帰っってもらうと助かる。後で返しに行くのに手間がかかるからな」
無表情でそれだけ言うと、管理人は振り返りもせず、さっさと姿を消した。
「何あれ?ヨッシーここ大丈夫?」
「確かに変わった管理人だけど、まあ害はなさそうだからキャンプ楽しもうかアイちゃん」
私たちは、田中良樹と高橋愛実、それぞれの名前から『ヨッシー』『アイちゃん』と呼び合っている。彼は仕事柄、アウトドアに詳しく、付き合うまでは全く興味のなかったキャンプも、今では年に数回一緒に行く程度には慣れた。しかし、ここまでハードルの高いキャンプ場は初めてだ。
良樹がテント、タープ、テーブル、焚き火台・・・コンパクトでファッショナブルなギアたちを手慣れた手つきで次々と設置していく。彼の会社は多くのインフルエンサーを抱える事務所で、アウトドア部門を担当している良樹は、自然と知識とギアを増やしてきた。
「私、薪買ってくるね」
焚き火台とトライポッドの配置にこだわっている良樹にそれだけ伝え、管理棟に向かった。
―ああなるとちょっと長いんだよね。風向きとか配置とか・・・
管理棟に近づくと、中に管理人の姿が見えた。いつもの流れで薪を買いに来たけど、やっぱ一緒に来てもらえばよかったかも、と少し後悔する。
「すみません」
「おう、姉さん。どうした?」
「ねえ、さっきは言わなかったけど、姉さんって何?私、高橋愛実って名前があるんだけど」
―そうじゃなくても、『お客さん』とか『お嬢さん』とか、ほかにも言いようはあるだろに。
「おおそれはすまなかった。ところで、高橋、何か用か?」
―もういいわ・・・
「あのー、薪って売ってもらえます?」
「売ってない」
「え?」
「だから売ってない。ここでは何も売ってない。予約の時、ホームページ見てないのか?」
「キャンプ場なのに?」
管理人は無表情のまま、静かに頷いた。
「薪なんてそこら中に転がってるし、管理棟の外の薪置き場に置いてあるやつ、少しなら持っていっていいぞ。さっき脅かしてしまったお詫びだ」
「はあ…」
「ところで高橋、鹿肉食べるか?」
「いや、大丈夫です」
逃げるように管理棟を飛び出した。ホームページに書いてあるって、電波状況が絶望的なここでは、いまさら確認なんてできない。それに、そんな大事なことを事前に話してくれなかった良樹に対して、無性に腹が立ってきた。
「薪、売ってないって」
できるだけ苛立ちを抑えて、冷静に良樹に言った。
「あ!そうだった。売店ないって書いてあった。アイちゃん、ごめん」
良樹は、ものすごく申し訳なさそうな情けない顔で謝る。その顔を見ていると、こっちがいじめているみたいな気分になって、余計に腹が立ってくる。
「俺、薪拾ってくるから、アイちゃんはゆっくりしてて」
「いいよ、私が行ってくるよ。ヨッシーはご飯の準備して。今日はご馳走作ってくれるんでしょ」
ふたりでキャンプするときは、いつも料理は私の担当なのに、今回は彼が作ると言い張った。
「大丈夫だよ。材料は切ってきてるから、すぐ戻るよ」
「じゃあ、つまみを準備しておくね」
「了解!よろしく」
良樹はそう言い残して、薪を探しに森の中へ入っていった。
―あ、管理棟の薪、少しなら持ってっていいって言われてたんだった。ま、いいか。
良樹とは付き合って3年になる。実際付き合ってみると、彼は意外と口数が少ない。彼いわく、緊張したときだけ饒舌になるらしい。初めて町中華で出会ったときの彼を思い出して、思わず笑ってしまった。律儀なんだけど時々抜けていて、優しくて頼もしいけど時折情けない。そんな彼と過ごす時間は本当に幸せだ。
シェラカップにマカロニを入れて、水を少なめに注いでおく。これは後でマカロニチーズになる予定だ。浅漬けピクルスの入ったチャック付きポリ袋をクーラーバッグから取り出し、もう一つのシェラカップに盛り付ける。良樹がメイン料理をどのくらいの量で作るか分からないので、あとは彼の様子を見ながら作ることにした。
ハイバックタイプのヘリノックスチェアに背を預け、空を見上げる。さわやかな風が心を穏やかにしてくれる。そのまま目をつむり、くつろいでいると、いつの間にか眠りについてしまっていた。
パチッパチッ
木が爆ぜる音と、煙の匂いで、良樹が戻ってきたことに気づく。目を開けると、薄手のブランケットがそっと掛けられていた。
―このちょっとした心遣いに、やられちゃうんだよな。
「ごめん、寝ちゃってた」
「全然いいよ。もう少し寝ててもいいよ」
「うん、大丈夫」
私は体を起こし、軽く背伸びをする。時計を見ると、30分ほど寝ていたようだ。まだ日没までには2時間以上ありそうなので、明るいうちにできることを済ませておこうと思った。テントにブランケットを置きに行くと、テント内のセッティングもすでに完璧に終わっていた。良樹の手際の良さに改めて感心し、自分のリュックからサプライズのワインの瓶を1本取り出した。
「じゃーん」
「え、何?ワイン?重かったでしょ?言ってくれたら俺持ったのに」
「今回は料理はヨッシー、お酒は私って決めてたから」
「ありがとう」
早速、チタン製のコーヒーカップにワインを注いぎ、乾杯した。
「なんか、いつもはビールスタートだから、ちょっとラグジュアリーな感じがするね」
「ふふっ、カップは色気ないけどね。私、チーズマカロニ作るわ」
「うわー、絶対ワインに合うよね。じゃあ僕もメインに取り掛かりますか」
そう言うと、良樹はクーラーバッグからサイコロ状に切られた肉を取り出した。
「じゃーん、黒毛和牛!今回は奮発しちゃった」
「え、何それ!すごいじゃん」
実は、私は知っていた。さっきクーラーボックスからピクルスを取り出すときにチラッと見えたのだ。それに、残りの材料から彼が何を作ろうとしているか、大体予想もついている。
良樹は嬉しそうに、次々と材料の入った袋を調理用のテーブルに並べている。小ぶりなダッチオーブンをトライポッドに掛け、牛脂を溶かし始めた。
ジュー
牛脂が溶けていく音と共に、香ばしい匂いが漂い始める。これだけで食欲がそそられる。
シェラカップをガスバーナーに乗せ、火にかける。最初はこの頼りないゴトクでの調理にビクビクしていたが、今ではすっかり慣れたものだ。沸騰したところで、アウトドアスパイスを一振りして煮込む。フォークを使ってマカロニの茹で加減を確認する。
―うん、大丈夫。
ガスを止め、熱いうちに溶けるチーズを投入。ゆで汁にしっかりとチーズが溶け込むまでかき混ぜれば、マカロニチーズの完成だ。
「あああぁー!」
突然の良樹の叫び声に驚いて、思わず彼の方に目をやった。
「どうしたの?」
「スパイスがない」
「え?」
「アイちゃんに最高のカレーを食べさせたくて、この日のために、知り合いのスパイスショップに調合してもらった特製スパイスだったのに…」
―やっぱ、どこか抜けてるんだよね。
「私、管理人さんに聞いてみるよ」
「でも、物販してないって言ってたし…」
「うん、でもいくらあんな変人でも、カレーくらいは食べるでしょ。もし持ってたら、分けてもらえるかもしれないし」
「どうした高橋、トラブルか?」
「ひぃっ」
突然現れた管理人に驚いて、またも情けない声を出してしまった。
「いや、カレーのスパイス忘れたみたいで…」
さっき「変人」って言ったのが聞かれていないかと気まずくなりながら、管理人の表情をうかがった。しかし、相変わらず無表情で何も読めない。
「もし、持ってたら市販のやつで十分なので、売ってもらえませんか?」
「ない」
「え?」
「だからない。そもそも俺はそんなにカレーは食わん」
「そんなぁ、どうしよう…」
頭を抱えてしまった良樹を見て、管理人が無言で近づいてきた。
ドボドボドボ
「え!ちょっと、何するんですか!」
管理人はおもむろに赤ワインの瓶を掴むと、残っていたワインを全てダッチオーブンに注ぎ込んだ。
「これで1時間待って、塩コショウで味付けしてみろ」
―勝手に人のワインを・・・
「腹が減ったら、心が荒む。ワインでは腹は膨れん。良樹、愛実」
「はい?」
突然、下の名前で呼ばれて、ふたりとも間抜けな声で返事をしてしまった。
「良い樹に愛が実る。最高のふたりだな。じゃ、俺は帰る。邪魔したな楽しんでくれ」
そう言い残して、管理人は颯爽と森の中に消えていった。
―帰るって、どこに?
「今の何?」
「いや、よくわかんないけど、とりあえず1時間待ってみようか」
ふたりとも状況を飲み込めないまま、言われた通り、ダッチオーブンの様子を見守ることにした。
マカロニチーズとピクルスをつまみに、2本目のワインを開けて楽しんでいるうちに、あっという間に時間が経った。
塩と胡椒を適当に入れて、フォークを肉に刺す。ふたりで意を決して顔を見合わせて頷くと、一気に口に放り込んだ。
その瞬間、口の中に広がる肉の旨味と赤ワインの濃厚な風味が絶妙に絡み合い、思わず目を見開いた。
「なにこれ!?めちゃくちゃ美味しい!」
「肉もめちゃくちゃ柔らかいし、赤ワインのコクと酸味が本当に合ってるね」
「赤ワインの料理なのに、赤ワインがどんどん進む。もうわけわかんないよ!」
朝食用にとっておいたバゲットをソースに浸しながら、心行くまで赤ワイン煮を堪能した。
「ああ、美味しかった。もうこれ以上食べられない…」
「なんか、カレーじゃなくて正解だったかも。しかも、アイちゃんがワイン2本も持ってきてくれたおかげで、料理もワインもどっちも楽しめたし!」
もし、あの管理人がいなかったら、どうなっていただろう?スマホで調べることもできないし、味の薄い煮物をお酒で流し込むだけの、なんとも気まずい夜になっていたかもしれない。
―悪い人ではないのかな。
満天の星空を眺めながら、良樹が準備した本当のサプライズ。リュックに忍ばせた小さな箱をどのタイミングで出すのか楽しみに待った。
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