ほほえみヶ丘 希望の森キャンプ場

北野裕司

第1話 餃子とビール

 はぁ、はぁ、はぁ。


―いったいどこまで行くつもり?


 もう1時間は歩いている気がして時計を見ると、まだ30分しか経っていない。相方は私の倍以上の荷物を抱えているにもかかわらず、軽快に、しかも私が遅れを取らないようなペースで歩いてくれている。


「ねぇ、まだ着かないの?」


 これで3回目の質問。返事ももう予想がついている。


「んー、もうすぐだよ。疲れた?荷物持とうか?」


「大丈夫」


 このやり取りも3回目。お互い呑兵衛だからと、サプライズでリュックに忍ばせた2本のボトルワインが恨めしい。こんなことなら、アルコール度数の高いウィスキーをペットボトルに入れて持ってくればよかった。




 相方との出会いは、家の近くの町中華だった。ラーメン屋と言うにはラーメンに力を入れている風でもなく、どちらかと言うと居酒屋に近いような店だった。当時住んでいたアパートから徒歩圏内と言うこともあり、足しげくというまでにはいかないにせよ、ひとりで外食するときは大抵その店を選んでいた。


 その日は朝から調子が悪かった。仕事でも小さなミスが重なり、Suicaのチャージを忘れて電車を一本逃したり、気づかないうちにスマホのWi-Fiが外れていて、動画を見続けてしまったり。定期的にこんな日がある。さすがに25年も生きているとそれなりに自分のバイオリズムもわかってくる。こんな日は何もしないに限る。きっと買い物しても帰りに卵は割れるだろうし、牛乳は豆乳に変わる。料理したって、米に芯が残るだろうし、仮にうまくできたとしても分量を間違えて大量に作ってしまい、それを何日もかけて食べる羽目になるのが目に見えている。こんな時は、できるだけ波風をたてないように、安定の店で安パイの料理を食べて、飲み過ぎない程度にお酒を飲んで早く寝るに限る。


ガラガラガラ


「いらっしゃい」


 店の引き戸を開けると、元気過ぎず、静かすぎない店主の声が耳に届く。その声だけで、下降していたバイオリズムが少し持ち直したような気がした。


「お好きなところにどうぞ、テーブルでもかまいませんよ」


 店内を見ると、客は3組だけ。カウンターには一人、そしてテーブル席にサラリーマン風の男たちが2組、楽しそうに談笑している。


 いつもならカウンターで、店主の鍋さばきをみながら飲むのだが、鍋を振ったときに飛び出した麻婆豆腐の直撃で店主と気まずい感じになるのも嫌なので、トイレから最も遠い、入口近くのテーブル席に腰を落ち着けた。


「いらっしゃい」


 イスに座ると、すぐにおかみさんが水とおしぼりを持ってきてくれた。


「すみません。ひとりなのに」


「いいよ、どうせ満席になんかなりゃしないんだから。ゆっくりしてってね」


 ほとんど話したこともないはずなのに、覚えてくれているのか、おかみさんは優しい笑顔でそう言いながら、厨房の方へと引っ込んでいった。


 調味料の奥に立ててあるメニューを手に取る。


―うん、特に変化はない。


 壁に貼られているメニューもいつも通り。「本日のおすすめ」と書かれた黒板に目をやる。旬の魚や野菜が使われたメニューが並んでいる。甘鯛の中華蒸し、牡蠣の四川風中華炒め、ここの料理で失敗したものはひとつもないのはわかっている。


「すみません、ピータン豆腐と餃子とビールください」


 ちょうど通りかかったおかみさんに注文をして、誘惑に負けなかった自分を誇らしく思った。


―今日はこれでいい、いやこうでないといけない。


 すぐに栓の開けられた大瓶のビールと、つきだしのザーサイが入った小鉢が運ばれてきた。ビールを慎重に注ぎ、ゆっくりとのどに流し込む。油断してはならないと頭ではわかっているのに抗えない解放感が押し寄せてくる。塩味の効いたコリコリとした食感のザーサイの後押しも効いてあっという間に大瓶のビールは半分ほどになった。


「はい、ピータン豆腐お待ち。餃子は今焼いてるから、もう少し待ってね」


 テーブルに置かれたピータン豆腐は、粗目に刻まれたピータンの上にたっぷりと薬味が乗っていて、特性のたれがかけられている。豆腐を箸で切り、ピータンと薬味をたっぷり乗せて口に運ぶ。すぐに濃厚なピータンのコクが口の中に広がる。豆腐のさっぱりとした後味がそれを和らげ、薬味とごま油の効いたタレが全体を絶妙に調和させる。


―間違いない。この選択は正解!


 この安定感が、、低迷していたバイオリズムをきっと安定させてくれるはず。ピータン豆腐を半分ほど平らげたところでビールがほとんど残っていないことに気付いた。


―なんてこった!この後、餃子が来るのに私としたことが…


 せっかく上昇しかけたものが、下降していく気がした。お酒にはそれなりに強い自信があるが、ビールはどうしても腹にたまる。本来なら、ここで紹興酒のぬる燗に切り替えて、ゆっくりとチビチビやるのが定番なのに…。


「はい、餃子お待ち」


「すみません、ビールおかわりお願いします」


 黄金色に焼きあがった餃子のビジュアルに、軽く理性が吹き飛び、反射的に注文してしまった。


―締めの炭水化物は今日は無理かな。


 カリカリのおこげでつながった餃子のひとつに箸を入れる。


 パリッ


 その音だけで、すでに美味しいことがわかる。パンパンに具の詰まった餃子を持ち上げて、フーフーと息を吹きかける。こんなことをしても中の具が冷めないことはわかっている。危険であることは頭ではわかっていても止められず口に運ぶ。


 カリッ


 焼き目のカリカリともちもちの皮を噛み切ると、中から無情なまでの熱々の肉汁があふれ出てきた。


―熱っ!


 わかっていた、わかっていたけどどうしようもない。ハフハフと息を吐きながら耐えるが、耐えきれずビールで流し込む。半分になった餃子をしっかり冷まして口に運ぶ。野菜の甘みと肉の旨味が口いっぱいに広がり、それをビールで追いかける。


―最っ高!


 やはり、紹興酒ではこの餃子には対抗できない。自分の選択は間違っていなかった。卓上の調味料の酢とコショウを皿にとり混ぜていたらお代わりのビールが届いた。


 2個目の餃子をタレに浸して、かぶりつく。タレのおかげで少しは冷めたが、それでも溢れ出る肉汁はまだまだ熱い。この肉汁の量は尋常じゃない。急いでキンキンに冷えたビールで流し込む。


  あらためて餃子の断面を見つめる。一般的にはキャベツが使われることが多いが、ここの餃子には白菜が使われている。それも、ほんのりとした酸味から、発酵した白菜が使われているのが分かる。脂身の多い豚ひき肉と乳酸発酵した白菜が絡み合い、肉汁がたっぷりと溢れるが、意外とさっぱりと食べられる。他にも干しシイタケとニラが程よく加わり、餃子の深い旨味と豊かな香りを一層引き立てている。皮は店主の手作りで、少し厚めでカリッと焼かれた部分とモチモチとした食感が絶妙なバランスを生む。


―ヒートアップ&クールダウンの無限ループ。餃子ほどビールを奪う食べ物はきっと存在しない。


 料理も残りわずかになり、ビールもグラスに残る分だけになった。腹はまだ7分目。追加の料理と酒を頼むべきかどうか、慎重に考え始める。


ガラガラガラ


「いらっしゃい」


 新しい客が入ってきたようだ。


―こんなにも美味しくてリーズナブルなんだから、もっと繁盛してもいいのに。


 メニューとにらめっこしていると、ふと前に人の気配を感じた。顔を上げると、男の人が立っていて、目が合うと笑顔で会釈してきた。


「すみません先生、お待たせしてしまって。いや実は担当の長谷川が例のやつにかかっちゃって、一応その日接触した人間は、お忙しい先生方との接触は避けるようお達しが出ちゃって、急遽、僕がお伺いする形になっちゃたんですよ」


 男は矢継ぎ早に話し続け、こちらが間違いを正す余地も与えてくれない。やはり、店主の優しい声と美味しい料理だけでは、下降したバイオリズムを立て直すには不十分だったか。酔いが回り、この状況を少し楽しんでみようという気にもなったが、あくまで静観に徹することにした。


「あ、立ってるのもなんですから座りますね。」


―それはこっちが言うべきセリフ


「すみません、僕にも餃子とビールお願いします。それで、僕、アウトドア系の担当でして…大変申し訳ないんですが、先生のSNSも拝見したことなくて、今日は担当が来られなかったお詫びと、先生の進捗状況だけお伺いするようにと言われておりまして…」


 男のマシンガントークがまだ終わらないうちに、ビールと小鉢が運ばれてきた。


「あ、ありがとうございます」


 男はビールとグラスを受け取ると手酌でビールを注ぎ、グビグビと一息に飲み干した。


「くぁー、うまい!」


 すぐに2杯目のビールを注ぐために瓶を手に取る。


「あのー」


 そろそろ人違いを正そうと口を開いた瞬間、ピリリリリリと男のスマートフォンが鳴った。


「あ、すみません。いいですか?」


 こちらの返事も待たずに、男は瓶を置き、上着からスマートフォンを取り出して耳に当てた。


「はい、今着いたところで…えっ!」


 男の目が見開かれ、目が合った。どうやら、電話越しの相手から何かを聞き、自分が勘違いをしていたことに気づいたようだ。


「あ、はい、聞いてます。はい、わかりました。では…」


 電話を切った男は、驚きと戸惑いを隠せないままの顔でこちらをじっと見つめた。


「アナタダレデスカ?」


「ブッ」


 思わず吹き出してしまった。


―それもこっちのセリフ


 それがきっかけで、何度か食事をするようになり、顔がタイプだったこともあって、いつの間にか付き合うことになった。




「あ、見えてきた」


 顔を上げると、だだっ広い芝生の広場の先に、真っ白なコンテナがポツンと置かれているのが見えた。

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