第8話 今宵、貴方の妻になるのでしょう?
「ふふふ、駄目ねぇ、そうやってすぐ顔に出ちゃうなんて。ルビィ様を見習いなさいな。あれくらい豪胆でないと国王なんてやっていけないわよ?」
「……黙れ」
これ以上は聞いていられない。
逃げ場のない居心地の悪さに耐え切れず、ルーカスは低い声で威嚇する。
目を合わせたら最後、すべてを見透かされてしまいそうで、乱暴に席を立つなり凄みを利かせ、アンジェリカを見下ろした。
「先ほどからの様子を見るに、たいした家柄でもないだろう。どこまで真実かは
名を『アンジェリカ』と言っていたか。
まるで娼婦のように艶めかしい視線……頭はキレるようだが、あけすけな物言いを見るに良くて下位貴族。
振り回されるのも馬鹿らしい。
「……たいした家柄でもない?」
何かがアンジェリカの逆鱗に触れたのだろうか。
先程までとは一変し、怒気を孕んだ呟きがルーカスの鼓膜を揺らす。
「お前ごとき……?」
一瞬にして空気が張り詰め、迫る殺気にルーカスはゴクリと喉を鳴らした。
矢継ぎ早に襲いかかる状況に、もはや思考が追いつかない。
表情をごそりと落としたアンジェリカに、挑みかかるような強い視線を送られる。
ルビィとはまた違う、心臓を直接握られるような緊迫感に、ルーカスは必死で平静を装った。
「……まぁ、いいわ。今回だけ、特別に許してあげる」
しばらくしてアンジェリカは、まるで
そしてフワリと花開くように微笑み、見た事もない程の優雅なカーテシーを披露した。
どこぞの王女といっても遜色ない堂々とした姿。
呆然と立ち尽くすルーカスに歩み寄り、そっと厚い胸板に手を触れる。
柔らかな手のひらで押されると為すがまま、気付けばベッドの上に座っていた。
「改めて自己紹介をさせていただきます。わたくしの名は、アンジェリカ」
魅惑的な笑みを浮かべながら、ルーカスの上に乗りかかるようにして座り、アンジェリカは上目遣いに覗き込む。
「……『血濡れ王太子妃アンジェリカ・グルーニー』と言った方が分かり易いかしら?」
その名前を耳にし、ルーカスはついに天を仰いだ。
「ねぇ、一年後に処刑される王なんて、悔しいとは思わない? マーニャもきっと、まだまだ生きたいはずよ?」
ルーカスの
「次代の王に死を捧ぐ『つなぎの王』、と言ったところかしら?」
――困ったわ。
王など一人で充分なのに、もう次の王が王座に手をかけているなんて。
本当に、貴方はそれでいいのかしら? と、アンジェリカは誘うようにルーカスの耳元へ唇を寄せる。
「……わたくし達と、手を組みましょう」
何が真実で何が嘘かすら分からない。
だが頬に触れる指先が、熱を孕んだ眼差しが、ルーカスを捉えて離さなかった。
「貴方は王位を、わたくし達は自由になる身体を……身体と言っても少し借りるくらいだもの、マーニャからも了承を得ているし、何も問題はないわ」
それは生きることを諦めたルーカスへの、悪魔の誘い。
薄紅色の隙間から柔らかな舌が覗き、獲物を前にした肉食獣のように、自身の唇を湿らせる。
「……今宵、わたくしは貴方の妻になるのでしょう?」
その声に、その抑揚に。
頭に霞がかり、思考が停止する。
誘われるがまま、その背に腕を回した。
アンジェリカが何かに耐えるように表情を歪ませたが、それも一瞬のこと。
ルーカスの首へと腕を回し、唇を重ねようとした次の瞬間――アンジェリカは動きを止めて、目を閉じた。
既視感のあるその姿。
まさか……頼むから終わりであってくれと額に汗した視線の先で、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
その中には、澄んだ翠緑の瞳。
少し顔を傾ければ唇が触れる距離で、こぼれ落ちそうなくらい大きくマーニャは目を見開いた。
すぐさま小さく悲鳴をあげて、飛び上がるようにベッドの隅に縮こまる。
先程まで、死にたくば死んでも構わないとすら思っていたのに。
強烈な二人を見た後だからか、震え怯えるその姿にどうしようもなく庇護欲をそそられる。
「……短剣は、没収だ」
不幸続きの儚げな少女が、自身に剣を突き立てる姿は見たくないと今は心底思ってしまう。
さらに言うとルビィの手に渡ったら最後、どうなるか分からない危険性も排除したい。
「あの、そのなぜか気付いたらこんな感じで」
人格が変わっている間は意識が無いのだろうか、状況が理解できず、緊張のあまり身体をガチガチに固くしている。
目を丸くして警戒し、怯える姿が小動物のようで、憐れに思えて仕方ない。
共に極刑に処せられる運命のマーニャに心を傾けるつもりなど毛頭なかったが、これ以上突き放すこともできず、ルーカスは自嘲気味に息を吐いた。
「……せいぜいバレないよう、気を付けることだな」
一言だけ言い残し、自室へと戻ると、そのまま後ろ手に扉を閉める。
平静を装っていたが、もう限界……。
一人になった途端、身体中からどっと汗が噴き出した。
「夢……ではないな。あと一年も、この状態で!?」
いっそすべて夢であって欲しいが、最後に目にした、怯え戸惑うマーニャの顔が頭から離れない。
ふと自分の腕に目を落とすと、先程マーニャの背に触れた辺りだろうか、血が付いていた。
捕虜になった際、怪我でもしたのだろうか。
そういえば帰宅直後、報告があると耳にした。
……だが今日はもう、何も考えたくない。
あれだけ元気に動けているのだ、明日でも問題ないだろう。
ルーカスは放心したように、ふらふらと歩みを進め、自室のベッドに勢いよく倒れ込んだのである――。
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