ふるさとと笑う

あんちゅー

いずれ忘れてしまうだろう

久井渡は故郷を飛び出してからというもの、思い通りにならない日々に我ながら呆れていた。

自分ではうまくやるつもりだと未来を信じ、明確なプランも自分自身では携えて、胸を躍らせながら出てきたつもりだった。

しかし、目の当たりにしたのは自分の不甲斐なさであり、それがあまりにも目に余るものだからこれ以上無いというくらいに情けなくて目も当てられなくなった。

学校は辞めて、実家に連絡は入れなかった。いつ頃からか仕送りは来なくなったし、部屋にいることが多くなった。けれど金はみるみる無くなって、3日ほど飯を食わない日が続いた後、仕方なく始めた最低賃金ギリギリのコンビニバイト。我慢が続かずいくつかのバイトを転々としながら、今はビル清掃を週に4日。毎夜毎夜、生活に必要なものを省いて手元に残る微々たる金を握りしめて眠る日々だ。

夢のひとかけであった本屋へ本を買いに行くことすらも億劫となっていく。

安売りの弁当を冷たいまま食べた。

自分の生活が極々萎んできたように感じつつも、それこそが今の彼に見合ったものであった。

故郷から出てきた頃にはあったものがいつの間にか無くなってしまったみたいで、虚しい穴が心に空いて、それを埋める方法を考えるのが今の彼のやるべき事だった。

最低限度の生活を送れる。

ただそれだけである。

憧れは遠のいて、すっかり自暴自棄になったのが3年ほど前、そこから堕ちるところまで堕ちるのは簡単であった。

今はもう仕事を辞めようとは思わない。

人生に折り目を付けるとしたら、彼にとって、この辺りが折り目になるのだろう。

折り目のインクは裏写りして残り続けて、それが生活の土台になる。

お金は大切なものなのだと実感がある。

だからこそ足りないのは、そこから抜け出せればもう少し楽に生きられるのに、という至極簡単なことに気が付かないこと。

いや、気が付いても実行する勇気がない事だった。

もし仮に失敗をした場合の勘案を、今の生活と不鮮明な未来を秤にかければ、最悪をばかり想定し、現状こそが幸せと感じてしまう。

この先どうするでもなく、ただ落ちぶれて落ち葉が枯葉へと変わるようにして粉々になることを薄々とわかっているのに。

彼はつまらない人間だった。


そんな頃、実家の母から連絡があったのが、言うなれば彼の人生の数少ない転換点だったのだろう。

実家の母からの着信に気が付いた彼は直ぐには電話に出られなかった。

何年も声を聞いていない、最後の別れ方がどうしようもなかっただけに、おおよそ今の自分の声を聞かせることすらも躊躇われてしまう。

彼女がどう言った要件で連絡をしてきたのか分からないが、それでも10年も連絡のなかったこの段になって来た連絡が吉報である可能性は低い。

何かあったのであろうかと勘案し、重たい頭の中をかき混ぜられているように感じる。

鮮明な思考は心拍数のあがった心臓が邪魔をして、不安が無意識に口から溢れ落ちる。何があったのだろうか分からないものの、不吉であるという思い込みを拭うことが出来ない。

そうこうしているうちにもう一度着信があった。設定した覚えのない間抜けで短な着信音が3度目を繰り返した時に彼は意を決して電話に出たのだった。

それはもう殆どうっかり出てしまったような口ぶりで。

「もしもし?」

電話先は誰なのか、わかっているけれどわかっていない振り。上手くできているだろうかと変に冷静になる。

「渡?渡やね?」

「母さん?どうしたん突然」

電話先の声を聞いてようやくわかったという素振り。白々しい。

「いや、今何しよるんかなって思ってね。ご飯はちゃんと食べとる?学校は辞めたんやってね。今は仕事しよるん?」

全て飲み込めると思わなかった自分がいた。ここ10年。色々と考えた末に結局彼女に連絡が取れなかったのは、何を言われても腹を立てないという自信がなかったからでもある。

散々言い争いをした思春期の彼に対して彼女は当然ながら厳しい言葉を使った。

そんな彼女にありったけの言葉で刃向かった記憶が割に鮮明に残っているのだ。

だが、その時彼は、彼女の言葉を自分自身でも意外に思うほど素直に聞いていられた。

「うん、仕事、してるよ。アルバイトだけど、正社員にならないかって言われてる」

負けたような気がしてとっくの昔に断ったことを誇らしく口にする自分が情けない。

けれど彼女はそれをとても嬉しそうに聞いてくれる。

「よかったやんか。頑張ってるんやね、そっちでも」

「うん、心配してくれてありがとう。でも俺は大丈夫だから」

「そっかぁ、そっかぁ」

彼女は電話口で泣いているみたいに声を震わせていた。それだけで彼もどうしようもない波に襲われたみたいに感じる。

「母さんは元気?みんなは元気?」

いつかの頃の皆の顔を思い出して、彼はまたひとつどうしようもない気持ちに襲われる。

絶え間なく溢れる涙がこんなにも心地よいものなのだと思ったからだ。

「みんな、うん、元気にしよるよ。やけん安心して」

「そっか、そっか」

上手く言葉が紡げない。

うん、そっか、そう。

そんな単調な返事を繰り返して、それでも彼女は電話口で楽しそうに話してくれる。

言葉は次第に重たくなっていく。

彼女は後悔を口にし始めた。

彼が居なくなった日のこと。そしてその間にあったこと。連絡を取ろうと思って辞めて、何度も自分の事を情けなく思ったこと。

「力になってあげられるつもりでいたのに。私が誰よりも味方だと思って育てていたのに、ごめんね」

「大丈夫だよ。僕も母さんの言うこと聞いておけばって何度も思ったんだ」

10年振りの会話はこういうもので良いのだろうか。もっと楽しい話を出来ればどれだけ良かったのだろうか。

それでも後悔ばかりが流れていって、なのに2人の間には10年の時間なんてなかったかのように素直な時間が流れていた。

「ありがとうね、渡」

「僕の方こそ、ありがとう」

そう言ってお互い恥ずかしそうに、けれどそろそろ会話が終わる頃になって彼女は訊ねた。

「こっちには帰ってこんの?」

その一言に、ああ、帰ってもいいんだと思った。

「渡が帰ってきてくれたら皆喜ぶから」

そうなんだと、彼はそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。

帰っていいんだと、今更、本当に今更に、自分では思ってあげられなかったことを、ようやく口にしてくれる人がいてくれたことに、心の底から嬉しくなってしまうのだ。

「うん、うん、帰る。帰るから」

少しだけ間を置いてから、不思議なくらい静かな彼女に向かって言った。

「直ぐに帰るから」

「ほんとうに?良かった」

それが全てだったかのようにぶつりと電話が切れた。

「母さん?」

何かあったのだろうかと思いスマートフォンの画面を見て首を傾げる。

かけ直そうかとも思ったが、まぁいいかと、それの電源を切ってからいつ帰ろうかと彼は1人予定を立て始めた。

何をしようか、誰と会おうか、どこに行こうか。

長く会っていなかった兄弟に、そして父や母に会えると思うだけで何か物凄い勢いで胸が跳ねた気がした。

銀行の残高を見て、帰るには少し足りなくて、月末の給料が入ってから帰ろうと思った。

気が付くと彼はメッセージアプリで母に来月には帰るという連絡をした。


翌月、鈍行列車に乗って故郷へ向かう。

微々たる金を握りしめて、けれど嬉しい気持ちでいられた。

途中で駅弁でも買って、久々に弁当が美味しく思えた。

逸る気持ちを抑えながらメッセージアプリを開くが、先月送ったメッセージに既読は付いていなかった。

少し不安に思ったが彼はうっかり眠ってしまっていた。

どうせ終点なのだからと気楽に構えていたのだろう。

楽観的な性格は10年経っても変わらない。

重い腰を上げるべき時に上げきれない。

どちらともつかない、どっちつかずな性格の、不安がりの楽観主義者。

もうすぐ故郷に帰れてしまう。

もう引き返すつもりは彼には無い。


彼はふるさとで笑っていた。

それは少し寂しい渇いた笑いだ。

あの日の電話の後、直ぐに向かっていれば何か変わっていたのかと思いながら、彼はただ悲しく笑うのだ。

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