夏
静かな水音が耳に届く。
海面はキラキラと輝いていて、どこか眩しい。
海に面した喫茶店であるそのお店で、アイスコーヒーを頼みパソコンを開いて小説を書き始める。
店内に流れているBGMは海に面した喫茶店らしくさざ波の音が混じっている音楽だ。それがどこか耳に心地よい。
視界が明るく、どこか落ち着く音楽が耳に届くからか家にいるときよりも書くペースは早くなる。そのことも相まってここに来てよかったな、なんて一瞬だけ考えすぐに文章へと向き直った。
書いているものは少しだけ今の夢巡りを元にしていたりする。内容はあまり決まっていなくて、でも小説の軸の部分は決めていたから結構スラスラと書けていた。暇潰しのようなそれは書いていて案外楽しいものだ。
頭の中に自然と浮かぶ想像をそのまま文章にする。そんな私にとって当たり前のことは、一時期当たり前ではなかった。
いつからそうなったのかは明確には覚えていない。気づけばその瞬間まで出来ていたことが出来なくなっていた。私の中の普通が普通ではなくなっていた。それに気づいた時、感じた絶望は如何程か。当時のことはあまり思い出せないが、日常的に楽しく読んでいた小説すらも読めなくなったくらいには落ち込んでいたのだろう。
そんな絶望の只中にいた私に気づいた彼女は真摯に話を聞いてくれていた。大丈夫だなんて励ましはなく。ただ話を聞いて、改善点や提案を話してくれる。その姿が有難くて、涙を流しながらお礼を言ったような気がする。あまり鮮明には覚えていない。何せ当時の私の心はとてつもない程に落ち込んでしまっていたから。
……ただ、恐らくだけど彼女はどこか悲し気に表情を歪めていたような気がする。記憶は朧気で、真意を聞きたくても当の本人はもう手に届く場所にはいない。だからもう聞くことはできないんだろうな。
集中していた文字の羅列から顔を上げて辺りを見回す。どうやらいつの間にか時間は過ぎてお昼を超えた時間になっていたようだ。ほうっと自然に溜息を吐き、ほんの少し自分の文章を読み返す。何日か後になって読み返さないと自分の文章を客観視することはできないから、誤字脱字を確認する程度に留めた。そうして顔を上げてパソコンを閉じて帰り支度を始める。涼しく居心地の良い喫茶店を離れたくはないけれど、そろそろ海の方へ行かないと時間がなくなってしまう。なんて誰に言う訳でもない言い訳を頭の中で浮かべてから丁寧にパソコンをリュックの中に入れて机の上にあった他に出していたものもリュックの中に仕舞う。そうして机の上に中身のなくなったアイスコーヒーの容器とスマホだけになったら、リュックを背負って容器とスマホをそれぞれ片手で持った上でカウンターに向かった。入ったときに確認したけれど、どうやらこのお店は空になった容器やお皿はカウンターの横にある戸棚に置く様式らしい。空の容器を置くとタイミング良くカウンターに現れた店員さんに「ご馳走様です」と伝えれば元気よく返ってきたお礼の言葉に会釈を返してお店を出る。途端に肌を焼きそうなほどの強い日差しに手で影を作りながら海への道を向かうことにした。
ほとんど人のいない道は人が当たり前に行き交う場所で過ごしてきた私からするととても新鮮だ。耳に届く蝉の鳴き声や陽炎がゆらゆらと揺らめく様子を頭の中で書き留める。また来ることはあるかもしれないが、今この年齢この時期で来ることはもう今後二度もないだろうから。だから後で昔の私がどんな考えでどんな感じ方で生きていたのかを知るためのいつもの習慣を行って、目的地に着いたらすぐにスマホのメモ帳に書けるように片手に用意して。……そうしてふと、そんな当たり前が出来なかった時期が昔にあったのだなぁと昔を思い出した。
小説が書けないだけでなくメモ帳に文章や表現を残す余裕すらもなかったのでは、本当に大変だったのだと思う。でもそのスランプは今の私になるまでに必要なものだったのだ。そんなことを胸を張って言えるのは偏に真摯に話を聞いてくれた彼女のお陰。今では思い出して悲しい気持ちになることはないけれど、それでも出会えてよかった、彼女と僅かながらでも同じ時間を過ごせてよかったと。そう前向きに思えるのは私の心が上を向いているからだろうか。
本当に、楽しかったなぁ。
ふと漏れた笑いを気にするものなどこの場にはいない。それでも遠い場所にいるであろう彼女にこの想いが届くと信じて。ただただ頬は緩んでいた。
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