夢
市之瀬 春夏
春
桜の降る春の中。
私は一人、本を読んでいた。
彼女と出会ったのは私がまだ中学生の頃。席替えで席が近くなって、何個かに分かれるグループも一緒だったから、よく話すようになった。確かその頃、私はただ本を読んだり文字を書いたりと1人で過ごすことが多かった気がする。そんな私の隣に彼女がいるようになり、それが当たり前になった。
周りと関わろうともしない私と、病気がちで休んでばかりいた彼女は必然とクラスから孤立していった。私はただ本に囲まれていれば楽しかったから、特に気にしたことは無かったけれど。彼女も私と似たような気持ちだったのかと聞かれれば、よくわからない。そのことについて話すことはほとんどなかったから。それでも1度不思議に思ったことがあって聞いたことがあったっけ。その時彼女はなんと言っていたか。あまり覚えていない。
当時、彼女に誘われ病院に訪れたことがある。病気が酷くなってまた入院しなくてはならなくなったから、暇潰しに来ないかと。ちょうど書きたい小説もひと段落ついていたし、読み途中の本も特になかったし。暇が続いていたから、本当に暇潰し程度に向かうことにした。
そうして来た病院の匂いは、独特な匂いだった。健康体であまり病院に来たことのなかった私は、あまりその匂いが好きではなかったけれど。それでも約束したからと少し意気込んで彼女の病室に向かって、――どこか驚いてしまった自分がいた。
この時には彼女と知り合って半年くらい経っていたけれど、ほとんど病気に関する話はしたことがなかった。彼女から少し病気のことを教えてもらって、それくらい。彼女自身も日常会話で話すことは無かったから、あまりそんなに深刻に捉えたことはなかった。
――だから恐らくだけど、その時私が感じたのは衝撃なのだと思う。命のやり取りが行われる場所で、彼女はテレビ越しでしか見たことのない点滴を付けて、そして平然と笑っていたのだから。
苦しくはないのか。泣きたくはないのか。ふとそう問いたくなった自分がいた。けれどすぐに頭を振って、彼女が座っていたベッドの近くにある椅子に座って彼女と他愛もない世間話をすることにした。教室で行っていたいつも通りの会話を、何の気兼ねもなく。少なくとも私はそんな素振りを見せないように気をつけて。
私が読んでいた本の話や、書いている小説の話。彼女の最近の話。そんなことをただ喋って。そうしていれば時間は過ぎ去っていくから、当たり前のように帰りの時間も訪れた。
お土産に持ってきていたメロンを食べ終えたあとのお皿やら箱やらを丁寧に片付けて。帰るねと声をかけて出ていこうとすれば、背中に降りかかる声がある。振り返れば彼女はどこか寂しげな表情で「……また学校で」少し空白を置いてからそう声をかけてきた。私も頷いて病室を出る。彼女の言葉も、最後の私の頷きも。どこか震えていたのが印象的だった。
風の吹く音が耳に届いてくる。
本を読んでいたはずなのに、いつの間にか回想に耽っていたようだ。本のページは風によって捲れていて、一度本を閉じる。栞はきちんと挟まっているようで、どこまで読んだかわからなくなることは無かった。
日差しが眩しい。でもどこか春らしい暖かな日差しで、気持ちが良かった。
辺りは一面桜の絨毯で、もう桜の散る季節か。そんなことに思い至り自然と笑みが溢れる。
もう一年も経つのか。彼女がその人生を閉ざしてから、もう一年。当時は時間が巻き戻ってしまえと願っていたのに、一年も経てばある程度心の整理はできてしまっていた。それがどこか寂しいなぁ、なんて。ふと思ってしまってから微笑が溢れる。彼女ならきっとこんな笑みも逆に笑って見てくれるだろうから。少し安心して。
彼女と出会ってから消えてしまうまで。とても、楽しかったのだと思う。もちろん楽しいだけではなかった。苦しいことも、辛いこともきっと沢山あった。それでも今思い浮かぶのは楽しかったり幸せな出来事がほとんどで。彼女と出会ってよかったなぁ。ふとそう思って、今度は目を瞑る。彼女との幸せな思い出を頭の中に思い浮かべたかったから。そんな些細な理由で、でも今1人で誰もいないから自由に。ただ思い浮かべることにした。
彼女と出会って1年が経った頃。その頃には彼女が入院した際に病室に招かれるようになり訪れるのが当たり前になっていた。初めて行った頃とは変わる。きっと慣れたからとかそんな些細な理由ではあるだろうけれど。それでもどこか不安は心の中に残っていた。
その日もちょうど彼女が入院をしたので、お土産を渡しにと向かっていた日だった。もちろん彼女から了承は得ているので彼女の好みのものを買うことにした。柑橘系が好きらしく、それ関連のものだったら嬉しいと。そう話していた彼女の顔はどこか嬉しげだった。
他愛もない話をただ当たり前のようにその日も話した。私の話を聞き、彼女が相槌を返す。彼女の話を聞き、私が相槌を返す。そんなごく当たり前の会話の途中でふと、彼女が何気ない口調でこう口にした。
「――私が死んだら、私の夢巡りをしてほしいの」
少しだけ驚いて彼女の顔を見れば彼女はどこか変な表情をしていた。笑顔でいるのにどこか寂しそうな。かと思えばどこか怖がってそうな。その表情は色々なものが混ざっていて、彼女の真意があまり読めなかった。
死。誰しもいずれ亡くなってしまうことはあれど、私の身近で亡くなった人など見たことがなかったからどこか遠いものだ。だからだろうか。この時初めて死という現状が私を襲ってきたような気がする。私の生の期限が決められている訳では無いのに。何故かそう考えて、でも彼女の言葉には続きがあるようだったからそれを待つ。彼女はどこか躊躇うように視線をさまよわせながら口にした。
「私ね、小さい頃からこんな感じだったから、結構外の世界に夢を持っているの。そんな状況で、余命を伝えられちゃってね。だからこの夢を、他の誰でもない君に託そうと思った。ただ私と他愛もない世間話をしてくれて、ただ隣にいてくれる君に。あ、もちろん君にもできるような内容だよ?」
伝えられた内容を無碍にすることなど私にできようか。できない。否、したくない。彼女が私を信じてくれるなら、私は断ることをしたくない。そこにあるのはただの友人としての好意だけだ。
「わかった」
そう頷けば彼女はホッと安心したように息を吐く。慌てたようにベッドの上を通るように置かれている机に置いてあった紙を手に取り私に手渡す。どうやらここに書いてあるらしい。読もうとして、彼女が慌てて制止の声をかけたので彼女の方を見ると今度は頬が少し赤らんでいた。
「それ見るの、私が死んだ後にして。じゃないと恥ずかしさで死にそうだから」
少しだけ驚いて、でも恥ずかしそうに怒る彼女を見るとどこか面白かったから微笑んで頷いた。ホッとしたように赤みを消していく彼女に、少しだけ突っ込む。
「恥ずかしさで死んだらもっと恥ずかしくならない?」
「いやそれはそう」
即座に入ってきた肯定に頬が緩む。
彼女は、余命を伝えられたと言った。それはつまり、近いうちに亡くなるということで。……少しだけ、心の中に恐怖や不安があったけれど彼女を見ていたら少しずつ変わっていった。
ただ今は、彼女と過ごせる楽しい時間を。短い時間でも生きていてよかったと、思えるために。それだけに尽力しようと胸に誓った。
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