第45話 混沌の予兆

 講堂の揺れが収まった後も、空の紫色は消えなかった。


「これって、まさか……」


 美奈子の声が震える。彼女の手にある八つ目の札が、不規則に明滅を繰り返している。


「異界からの干渉ね」


 沙織が<記録の書>を広げながら言った。ページには不気味な文様が次々と描かれていく。その一つ一つが、まるで生き物のように蠢いていた。


「凛、何か見える?」


 俺の問いかけに、凛は【幽明霊瞳】を輝かせる。


「はい……でも、これまでに見たことのない景色です。空の向こうに、無数の『扉』が見えます」


「扉?」


「まるで……誰かが開けるのを待っているみたい」


 その時、狐堂先生が前に出た。


「<混沌の門>とは、かつて理の根源が封印した異界への入り口だ。環境圏の確立により、その封印が緩み始めているようだ」


「先生、異界って……」


「人でも妖魔でもない、第三の存在が支配する世界だ」


 学院長が厳しい表情で説明を続ける。


「人と妖魔の調和は実現したが、それは同時に、より深い闇を呼び覚ましてしまった」


 突然、講堂の扉が勢いよく開く。


「おやおや、こんな朝っぱらから深刻な話ばかりで」


 竜二が、いつもの傲慢な態度で入ってきた。だが、その表情には見慣れない焦りが浮かんでいる。


「賢樹家の古文書に、<混沌の門>についての記述があったぞ。見たところ、俺たちの予想以上に状況は深刻らしい」


「へぇ、珍しく協力的じゃない」


 沙織が冷ややかに言う。


「ふん、誤解するなよ。ただ、このままじゃ俺たちの世界も消えちゃうからな」


 竜二は不満げに言いながらも、古ぼけた巻物を広げる。


「ここに書いてあるのは……」


 その瞬間、巻物が紫色に輝き、文字が浮かび上がる。


『混沌の門が開かれし時、八つの鍵は共鳴し、新たなる扉を示すだろう』


「八つの鍵?」


 凛が首をかしげる。


「ああ、待てよ」


 美奈子が八つ目の札を掲げる。


「これって、もしかして……」


 その時、八つ目の札が強く輝き、講堂の空間に八つの光点が現れた。


「これは……八つの試練の守護者たちの位置?」


「いいえ」


 美奈子が首を振る。


「八つの鍵の在り処です。わたくしたちは、それを集めなければ」


 突然、講堂の天井に巨大な魔法陣が現れる。狐堂先生が驚きの声を上げた。


「これは<時限召喚陣>! 誰かが意図的に仕掛けていたものが発動したんだ!」


 魔法陣から、一枚の古い羊皮紙が舞い降りてくる。


「お母さんの筆跡……!」


 凛が震える声を上げる。確かに、そこには八葉千鶴の文字が記されていた。


『愛する娘へ

 この手紙があなたの手に届く頃には、世界は大きく変わっているはず。そして、新たな試練が待ち受けているでしょう。


 <混沌の門>の封印を完全にするには、八つの鍵が必要です。それぞれの鍵は、人と妖魔の境界に隠されています。


 でも、気を付けて。鍵を探す者は、私たちだけではありません』


「他にも探してる奴がいるってことか」


 俺は眉をひそめる。その時、沙織の<記録の書>が大きく揺れた。


「これは……!」


 ページが勝手にめくれ、新しい記述が現れる。


『混沌の探求者たち。彼らは古くから、理の根源に対抗し、混沌をもたらそうとしてきた。人でも妖魔でもない、第三の存在に導かれし者たち』


「そういえば……」


 美奈子が思い出したように言う。


「八つ目の守護者として見た光景の中に、黒いローブを着た集団がいました。彼らの目的は、<混沌の門>を開くこと」


「じゃあ、僕たちは彼らより先に……」


 その時、突然校舎全体が大きく揺れ、窓ガラスが砕け散った。


「なっ……!」


 紫色の空が渦を巻き始め、その中心から、得体の知れない存在が姿を現し始めていた。


「アレは……」


 狐堂先生の表情が凍りつく。


「まさか、もう侵食が始まっているのか……!」


 空からの威圧感に、誰もが息を飲む。その時、凛の<幽明霊瞳>が強く輝いた。


「あっ!」


「どうした、凛?」


「見えます……あの存在の背後に、お母さんが……!」


 八葉千鶴の姿が、かすかに浮かび上がる。彼女は何かを必死に伝えようとしているように見えた。


 その瞬間、凛の体が青白い光に包まれ始めた。


「凛!」


 俺が駆け寄ろうとした時、彼女の口から思いがけない言葉が漏れる。


「理の果ての先に……第五の扉が……」


 そして、凛の意識が途切れた。急いで抱き止めると、彼女の体は熱を帯びていた。


 空では、異界の存在が徐々にその姿を現しつつある。人と妖魔の世界に、新たな脅威が迫りつつあった。


 だが、俺たちには急がねばならない理由が増えた。八つの鍵を集め、<混沌の門>の封印を完成させる。それが、理の果てが俺たちに託した使命なのだから。


(凛の母が見せようとしたものは、いったい……)


 俺は気を失った凛を抱きながら、不気味に輝く空を見上げた。その紫色の渦の中で、何かが確実に目覚めつつあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る