第30話 父と娘、交わる想い

 霧の向こうから近づいてくる巨大な影。災厄級妖魔『幽世帝かくりょてい』——凛の実の父親だという。


「久しぶりだな、我が愛しい娘よ」


 低く響く声は、人間のそれとも妖魔のそれとも判別がつかない。


「やっと、会えた」


 霧が晴れ、その姿が現れる。


 漆黒の着物を纏った美丈夫——しかし、その目は妖しく輝き、背後には九本の尾のような影が揺らめいていた。


「ほう」


 賢樹さかき剛志つよしが、皮肉めいた声を上げる。


「これが八葉千鶴の選んだ相手か」


「剛志殿」


 『幽世帝かくりょてい』が優雅に一礼する。


「よく我が娘を育ててくださった」


「貴様に言われる筋合いはない」


 剛志の周りで黒い炎が渦巻く。しかし——


「お父さん」


 凛が、静かに一歩前に出た。


「どうして、今になって」


「ふむ」


 『幽世帝』が微笑む。


「お前の力が目覚めるのを、待っていたのさ」


「力?」


「そう」


 彼は腕を広げる。


「お前は特別な存在だ。人と妖魔の血を引く唯一の者。世界のことわりを見通す眼を持つ者」


 俺は凛を守るように『幽世帝』の前に立ちはだかった。


「凛は」


 俺は強く言う。


「道具じゃない」


「おや」


 『幽世帝』が愉快そうに笑う。


蒼宮あおみや家の後継か。面白い。まさか千鶴ちづるの計画通りに事が運ぶとはな」


「計画?」


 蒼宮かえで、母が眉をひそめる。


「あなたも千鶴さんのことを?」


「当然だ」


 彼は優雅に袖を翻す。


「私こそが、千鶴に八つの扉の秘密を教えた者だからな」


 その言葉に、全員が息を呑む。


「冗談じゃない」


 狐堂こどうがめずしく声を荒げる。


「千鶴様が、妖魔と手を——」


「ほう」


 幽世の帝の目が細くなる。


「弟子風情が、口を挟むか」


 その一瞥で、狐堂の体が宙に浮く。


「先生!」


 凛が叫ぶと同時に、母が【蒼嵐そうらん】を放っていた。


 青い風が狐堂を包み込み、優しく地面に降ろす。


「相変わらずだな、楓殿」


 『幽世帝』が感心したように言う。


「その優しさゆえに、千鶴は貴方に救われたのかもしれんな」


「何を言って——」


「待って」


 凛の声が、場を制した。


「お母さんが、どんな計画を?」


 『幽世帝』は満足げに頷いた。


「八つの扉の先には、世界の理を書き換える力が眠っている」


「理を、書き換える?」


 夜科やしな総帥が声を震わせる。


「そう」


 『幽世帝』が続ける。


「人と妖魔の境界を消し去る力だ」


「馬鹿な!」


 竜二が叫ぶ。


「そんなことをすれば、世界が——」


「混沌となる?」


 『幽世帝』が笑う。


「いや、むしろ真の調和が生まれるのだ」


「嘘だ」


 剛志が、凛を庇うように前に出る。


「八葉千鶴が、そんな狂気に与するはずがない」


「本当にそうかな?」


 『幽世帝』の声が、どこか悲しげに響く。


「彼女は、人と妖魔の間に生まれた子を、心から愛していた」


 凛の体が、小さく震える。


「彼女の願いは」


 『幽世帝』が続ける。


「凛が、どちらの世界でも幸せに生きられる未来」


「でも」


 凛が呟く。


「そのために、世界を歪めるなんて」


「歪むのか?」


 『幽世帝』が問いかける。


「それとも、本来の姿に戻るのか?」


 その時、べにさんが静かに口を開いた。


「姉さんは、最後にこう言っていました」


 全員の視線が、紅さんに注がれる。


「『世界の理は、人の心で紡がれる』」


 『幽世帝』の表情が、かすかに曇る。


「ほう」


 彼は腕を組む。


「では、我が娘よ」


 凛に向けられた眼差しが、妖しく輝く。


「お前は、どちらを選ぶ?」


 一瞬の静寂。


 そして——


「選びません」


 凛の声が、強く響く。


「世界を書き換えるのではなく」


 彼女は一歩前に出た。


「このままの世界で、私は私の道を行く」


「ほう」


 『幽世帝』の口元が歪む。



「その答え、まるで千鶴のようだ」


 その時、遠くで鐘が鳴る。


「時間か」


 彼は空を見上げた。


「では、最後の試練を与えよう」


 『幽世帝』の体が、巨大な影となって広がっていく。


「我が娘よ。その覚悟、見せてもらおう」


 ***


 伏見稲荷大社の奥社。


 美奈子の前に現れた人影は、妖しく光る目を持つ美しい女性だった。


「八葉流の血と、妖魔の血」


 女性が不敵に笑う。


「その力を知りたくはないかしら?」


 美奈子は息を呑んだ。


 その女性の姿は、まるで鏡に映ったような——自分自身だった。

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