第13話 母の幻影

 黒い霧の中から現れた女性は、凛にそっくりだった。同じ切れ長の瞳、同じ艶のある黒髪。ただし、その瞳は妖しい紫色に輝いていた。


「お母……さん……」


 凛の声が震える。彼女の手が、俺の腕をきつく掴んでいた。


「凛……私の可愛い凛」


 女性、いや、凛の母は、優しく微笑んだ。その表情は慈愛に満ちていたが、どこか現実離れした雰囲気を漂わせている。


「まさか」


 俺は思わず声を上げた。


「幻術か?」


「いいえ」


 狐堂こどうが穏やかに答える。


「これは賢樹さかきりんさんの実母。その魂を一時的に呼び出したものです」


「魂を!?それは禁術じゃ……」


「禁術?」


 狐堂が笑う。


「確かに退魔協会はそう定めていますね。でも、なぜでしょう?本当に危険だからでしょうか?それとも……」


「凛……」


 母の声が、執務室に響く。まるで風のような、そして同時に深い悲しみを帯びた声だった。


「ごめんなさい。あなたを一人にしてしまって……」


「お母さん、なの?……本当に……」


 凛の声が震える。その目には涙が浮かんでいた。


「本当よ、凛」


 母が一歩近づく。


「私はずっと……ずっとあなたを見守っていたの」


「騙されるな!」


 俺は叫んだ。


「これは狐堂の術だ、凛!真実じゃない!」


 しかし、凛の目は母から離れない。


「なら……どうして?私を置いて……どうして行ってしまったの?」


 母の表情が、深い悲しみに歪んだ。


「それは……私にも選択の余地がなかったの。あの日、退魔協会が……」


「待ちなさい」


 狐堂が母の言葉を遮った。


「その話は、まだ早すぎます」


 母は一瞬、不満そうな表情を浮かべたが、すぐに柔らかな微笑みに戻った。


「凛、あなたの目に宿った力...【幽明霊瞳ゆうめいれいどう】。それは私から受け継いだものよ」


「え……」


 凛が息を呑む。俺も驚いて母を見た。


「そう、私もかつては同じ力を持っていた。でも、退魔協会は……」


「だから言ったでしょう」


 狐堂が再び遮る。


「その話は後ほど」


 母は今度ははっきりと不満そうな表情を見せた。その瞬間、俺は違和感を覚えた。目の前にいるこれは、本当に凛の母の姿かもしれない。だが、その魂を扱う術はすべて禁術と扱われている。術の発動に必要なコスト、条件、リスク、影響、効果、すべて退魔協会から開示されている。そのため、何らかの手段で、狐堂が凛の母の魂を呼び出すことはできるかもしれない。だが、一度気づいてしまったら、この反応は違和感でしかない。


「凛、注意して見るんだ」


 俺は小声で言った。


「凛の母親の様子、何かおかしくないか?」


 凛は一瞬俺を見た後、母の方をじっと見つめた。その瞳が、かすかに光り始める。


「あっ……」


 凛が小さく声を上げた。


「どうした?」


「お母さんの周り……黒い糸みたいなものが...」


 その言葉に、狐堂の表情が変わった。


「やはり、気付きましたか」


 彼が手を上げた瞬間、母の体が大きく揺らめいた。


「くっ……」


 母の表情が歪む。まるで何かに操られているかのように。


「お母さん!」


 凛が駆け寄ろうとした。しかし、俺は咄嗟に彼女を引き留めた。


「ダメだ、凛!あれは……」


「ええ、その通りです」


 狐堂が静かに言った。


「これは確かに賢樹さんの母の魂です。しかし……」


 彼が指をパチンと鳴らすと、母の体から黒い霧が立ち昇った。


「私たちの術で、多少扱いやすいように加工させていただきました」


「な……なんてことを!」


 凛の声が怒りに震える。母の魂を操るなんてそんな非道なことを。


「お前……凛の……母親の魂を、操り人形にしたのか!」


 俺は魂を解放するため、狐堂と凛の【蒼嵐】を放った。しかし、狐堂は軽々とそれを払いのける。


「操り人形?違いますよ。私たちは彼女に……新たな可能性を与えただけです」


 彼は右手を掲げた。すると、母の体が宙に浮き上がる。


「賢樹さん、あなたにもその可能性があるのです。【幽明霊瞳】の真の力を解放すれば……」


「やめて!」


 凛が叫ぶ。


「お母さんを……お母さんを離して!」


 その瞬間、凛の目が強く輝いた。【幽明霊瞳】の力が、これまで以上に強く発動する。


「おや?」


 狐堂が興味深そうに凛を見つめた。母の体を操る黒い糸が、少しずつ切れ始めている。


「素晴らしい……」


 狐堂が呟く。


「これこそが【幽明霊瞳】の……」


 その時だった。


「はあああああ!」


 俺は渾身の力で【蒼嵐】を放った。青い風が黒い霧を切り裂き、母の体を包み込む。


「凛、今だ!」


「はい!」


 凛の【幽明霊瞳】が、更に強く輝きを放つ。青い風と紫の光が交わり、母の周りの黒い糸を次々と断ち切っていく。


「く……」


 狐堂の表情が、初めて焦りを見せた。


「ここまでか……」


 彼が左手を振ると、黒い霧が渦を巻き始めた。凛の母親の体が、霧の中に消えていく。


「お母さん!」


 凛が叫ぶ。母は最後に、一瞬だけ悲しそうな表情を見せた。


「凛……気を付けて……退魔協会の……」


 その言葉は途切れ、凛の母親の姿は完全に霧の中に消えた。


「残念ですが、今日はここまでにしましょう」


 狐堂は窓際に歩み寄った。


「賢樹さん、よく考えてみてください。退魔協会は、本当にあなたたちの味方でしょうか?」


 彼はそう言い残すと、黒い霧と共に夜の闇に消えていった。


 部屋に静寂が戻る。眠っていた学院長が、ゆっくりと目を覚ました。


「くっ……狐堂め……」


 俺は凛の方を見た。彼女は、母が消えた場所をじっと見つめていた。


「凛……」


颯馬そうま先輩」


 凛が俺を見つめた。その目には、決意の色が宿っていた。


「私……知りたいんです。お母さんの言葉の意味を。そして……」


 その時、執務室の扉が勢いよく開いた。


「大変です!」


 慌てた様子の教師が飛び込んできた。


「賢樹家が……賢樹家が動き出しました!」

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