夫婦喧嘩

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 ザー……ザー……ザー……。


 海。海波の音は周期的に鳴り、砂浜の白さと言えば太陽の光を反射するかのようで、太陽は西でも東でもない南に、少し傾いている。今は昼間である証拠だ。おかげで気温が高く、すぐに体中から汗が出てしまう。

 そんな美しい海に、2人の大人がいた。達夫たつおという名前の男と、健吾けんごという名前の男の2人である。達夫はやつれているのに対し、健吾は気持ち良さそうに海を眺めていた。2人とも、海とは少し離れた場所にある低い堤防に座っている。2人はお互いに会社の同僚であり、社内でもお互い仲の良い友人である。昼ご飯は一緒に食べるし、仕事終わりの居酒屋でもビールが入ったジョッキを共に呑み交わす仲だった。だが、普段は達夫も健吾も元気が良いはずであるが、今日は違う。健吾はいつも通り、むしろ海を見ていつも以上に元気だが、やつれてしまっている達夫が、水平線のさらに遠くを見つめてぼーっとしていた。


「まずはありがとう、健吾。来てくれて」


 海を眺め始めて数分。やっと達夫が口を開く。


「真面目で勤勉な達夫らしくないな。有給休暇使ってまで、海を見たいのか?しかもお前、昨日も一昨日も海見てたらしいじゃないか」

「ここでただ海を眺める日が続くようになって、もう一週間経つのかな」

「えぇっ!そんな前から海見てたのか」

「そうだよ。仕事が終わったらここに来て、一時間くらい眺めてる。気が付けば、すっかり空が暗くなる時間まで眺めてた日もあった」

「今は夏だっていうのに……。でも、今日までは有給休暇使わなかったんだよな?なんで今日は仕事休んでまで」

「一週間前から、ずっと休みたかったよ。でも休むのは駄目なんだ。心は休みたいと叫んでるのに、体がどうしてもそれを聞かなくて。今日やっと体も限界になった。上司に頼んで、有給使って休ませてもらった」

「普通、休暇に人誘うかなあ。ま、俺もちょっと気分転換したかったから良いけど」


 そう言った健吾が立ち上がり、うぅ~~っと声を出しながら気持ち良さそうに伸びをした。達夫はそんな健吾を見て、小さな溜め息を一つ吐く。決して、健吾に向けた溜め息ではない。健吾と自分を比較して分かった、自分の落ち込み具合に対してだ。


「……何か、あったんだな?」


 健吾が言う。


「あぁ、あった。それを聞いてほしくて呼んだんだ」

「……何があったんだ?」


 達夫は返事をせずに立ち上がる。白い砂浜の上を、達夫はスニーカーで数歩歩いた。遠いところを見るその目をやめず、やつれたままで。健吾はそんな達夫をじっと見ていた。


「妻が急に、東京の親友に会いに行くって言い出したんだ。東京はここから遠いし、なにより何があるか分からないけど、4~5日だけと妻本人も言っているし、大丈夫だろうと思ってた。しかし、4~5日どころか1ヶ月経っても帰ってこなかった。もちろん電話した。だけど、電話に出てくれるだけで、適当にあしらわれた。妻はそんなことしないはずだから、僕は心配で……不安で……」


 達夫のその目は、段々と涙目になっていく。


恵梨華えりかさん……だっけ?お前の奥さん」

「うん、恵梨華が東京に行って、帰ってこなくなったんだ」

「恵梨華さんといえば、結婚した2年前はお前がめちゃくちゃ自慢してたよな。うちの嫁は可愛いんだぞ!って。皆がウンザリするぐらいお前が自慢するけど、でも幸せそうに話すから、聞かされてる俺達だって憎もうにも憎めない感じで。はは、懐かしいな」


 健吾は達夫を慰めるようにそう過去の話をした。しかし達夫には逆効果だったようで、更に涙がこぼれ落ちそうになる。

 恵梨華は、達夫の妻だった女である。ここ海辺が近い町は都会ほど人は多くないが、田舎と比べれば人は多い町で、一人一人の人間が有名で目立つことはなかったが、それでも恵梨華の評判は高かった。この町に住む人の中に、彼女の容姿を醜いと言う人はいない。達夫はそんな女性と高校時代からの友人で、恋仲になったのも随分昔。恵梨華を恋人にした達夫を羨む人は少なくなかっただろう。


「本当に幸せだったんだ。どんなに辛いことがあっても、彼女の顔を見ればすぐに元気が出てくる。この人のためにも頑張ろうって、そう思わせてくれるんだ。彼女の美しさにはなんの穢れもない。純粋で、透き通るようで、物に例えるなら純度100%のダイヤモンドだよ!そんな人を娶った僕は、幸せ者だった……」


 先ほどまでは心地よかった海波の音が少し荒くなる。だがすぐに収まったと同時に、太陽が水平線に飲み込まれ始める。達夫はあの時を思い出していた。


「達夫さ~ん」


 恵梨華の声が遠くから聞こえる。ここは達夫と健吾がいた浜辺と同じ浜辺。立っている位置までも同じだった。達夫は遠くからの声のもとに視線を移す。そこにはもちろん、恵梨華がいた。

 恵梨華の髪は長く黒い。平均より少し高いかというところの身長に、何もかもが完璧な顔。日本人の美しさを最大限まで磨き上げたようなその容姿に、限りはなかった。


「恵梨華さん」

「どうしたんですか?急に、海が見たいだなんて」

「海が見たいんじゃないよ。海を見てる君が見たかったんだ」

「もう……!達夫さん、私に夢中すぎですよ。でも、そんな達夫さんが大好き。私、達夫さんと一緒に海が見たいです!」

「良いよ。こっちにおいで」


 そう言った達夫は恵梨華の手を引いて後ろへ歩く。低い堤防に座って、その隣に恵梨華も座らせる。

 心地良い海波の音が、周期的に聞こえる。2人とも耳をすまして、その音を聞いていた。

 太陽は着実に沈んでいく。段々と水平線で見えなくなった部分が広くなっていく。円だった太陽の形は、ゆっくり半円になっていく。


「恵梨華さんは、どうしてそんなに可愛いんだ?」

「そんなことないですよ。私を好きになってくれたのは、達夫さんが初めてだもの。達夫さんこそ、どうしてそんなにかっこいいんですか?」

「君のためだよ」


 恵梨華が達夫の肩に頭を乗せ、寄り添う。達夫はそんな恵梨華を片腕で抱き寄せた。誰が見ても2人は幸せそうだった。


「恵梨華さん」


 達夫が恵梨華の名前を呼ぶ。


「はい」


 恵梨華がそれに返事をする。


「僕と、結婚してくれませんか」


 太陽が沈みつつも、ぎりぎり半円にはまだなっていないところで、達夫は覚悟を決めて恵梨華に言った。その時2人は、2人だけの世界に入り込むかのように海波の音を聞かなくなり、聞こえなくなった。


「……はい……!!」


 海波の音がまた聞こえるようになったかと思えば、荒いのが聞こえてくる。太陽の場所は水平線なんかではない。達夫達の真上にあって、ギラギラ彼らを照り付けている。


「奥さんは、まだ帰ってきてないんだよな?」

「それが、前に一度帰ってきてくれたんだ。すぐに東京へ行っちゃったけどね……」

「どうして……!」


 達夫は健吾のほうを向き、健吾に一枚の写真を渡した。


「……真ん中にいるのが、恵梨華さん……?」


 達夫は無言で頷く。

 その写真は、東京にいる恵梨華の写真だった。髪は金色に染まり、日焼けしたのか肌の色も黒くなっており、耳と舌にピアスがついていて、2人の男を抱いていた。1人の男は恵梨華の首元にキスをしてて、もう1人は手を恵梨華の腰に回していた。

 恵梨華の首元にキスをしている男は、髪を茶色に染め上げ、襟足を不潔に見えるほど伸ばしていた。バンドマンがよくするメイクをしているところから、彼は誰かとバンドを組んでいると推測できる。また、恵梨華の腰に手を回している男は坊主だった。ただ坊主というだけだと語弊がある。彼の髪型は、お洒落坊主と言うべきか。全ての個所が同じ長さではないような、一風変わった坊主である。そんな髪型でサングラスをつけており、ジャラジャラしたたくさんのアクセサリーをいろんな箇所に身に着けたその男は、思わず人を怖がらせてしまうような格好の男だった。


「東京に行ってしまってから、2週間かな。そのくらい経った時に、僕はどうしても恵梨華が心配だったから、はがきで写真が欲しいと言ったんだ。それで送られてきたのがこれだよ。絶望した……」

「さっき、彼女の美しさにはなんの穢れもないって言ったよな?純粋で、透き通るようで、純度100%のダイヤモンドみたいって……」

「今の彼女に、そんな美しさがあるとは到底思えない!美しさは依然としてあるけれど、もう穢れてるよ。だから絶望したんだ……!」


 達夫は珍しく声を荒げる。


「なあ、健吾。教えてくれ!妻がこんなことになってしまった時、僕はどうすれば良かったんだ!?」


 達夫は健吾の肩を掴んで、真剣に健吾に訊いた。真剣でありながら悲しみを浮かばせた達夫のその表情を、健吾は初めて見た。だが、健吾は今まで彼女ができたことはない。達夫のような体験なんかできずにいて当然だった。彼にアドバイスなどできない。だが、それでも健吾は何か言うべきだと思い、自分の肩を掴む達夫の腕を離すよう手で促しながら言った。


「どんな手を使ってでも、奥さんが間違った道を歩まないように、直すべきだったんじゃないか……?」

「どんな手を使ってでも、か……。やっぱり、僕には無理だったんだろうな」


 当たり前のアドバイスだった。だが、だからこそ、達夫の中で確信したものがあった。


「……奥さんが帰ってきた時の事、教えてくれないか」


 健吾は覚悟を決めて達夫に言う。達夫は、今から一週間ほど前のことを話し始めた。

 達夫が夕飯を食べている時のこと。ガチャリと家のドアが開く音がしたと思えば、家に入ってきたのは、まるで別人のように容姿を大きく変えてしまった恵梨華だった。帰ってきたことを喜ぶ達夫は、一刻も早く恵梨華に触れたいが為に玄関まで向かったが、その豹変ぶりを見てつい足を止めてしまう。

 しかし、達夫はそれでも恵梨華に元気よく声をかけた。


「恵梨華、おかえり!1ヶ月も向こうで何してたんだ!?僕、心配で心配で……」

「あんたが帰ってこいってうるさいから、仕方なく」

「そ、そっか。それはごめんね。心配をかけすぎた。さあ、こっちへおいで。今、恵梨華のぶんの夕飯を……」

「いらない。夕飯はもう食べた」

「あ、あぁ、食べたんだね。じゃあ、大丈夫だ」


 恵梨華は容姿だけでなく、その言動までも変わっていた。そんなずかずかした態度は、今まで達夫にとったことはなかった。

 恵梨華は達夫を一切気にかけず、家に入っていく。達夫はそれを追いかけるようにして家の中へ戻っていく。


「私、明日の朝にはもうここ出る」

「えっ……?」


 達夫は思わず立ち止まった。


「私が今日ここに来たのは、あんたが何回も電話してくるのがしつこかったから、仕方なく来ただけ。私これからさ、向こうで過ごすから。良いよね?1ヶ月も1人で過ごせたなら、もうこれから一生1人でも良いよね」

「ずっと東京にいるのか!?僕達、結婚したんじゃないのか!?」

「結婚してても別々に暮らしてる家なんて、他にもあるわよ。なにより、私にはあっちの暮らしのほうが合うの。親友が色々紹介してくれてねえ、もう毎日がほんと楽しい。こっちの暮らしとは大違いよ。今思うと、こっちには何もないなって、よくここで十数年も暮らせたなって思うわ」


 恵梨華の話に説得力があったわけじゃない。むしろ、もし仮に恵梨華が達夫を頷かせるような理由を話しても、きっと達夫は首を横に振るだろう。だが、達夫は恵梨華の話に同意せざるを得なかった。


「……分かった。良いよ。恵梨華が楽しいんなら、それで良いよ」


 恋と愛は違う。恋は、自分のため。愛は、相手のため。達夫は恵梨華に対する愛が強すぎた。だから、恵梨華を許してしまうのだ。だから、自分を優先できなかったのだ。


「ま、駄目って言われても行くんだけどね。許可貰おうなんて思ってないし。というか、許可が欲しいなんて言ってないし~?何より、私はあっちで男2人待たせてるのよ。まーちゃんとたっくん」

「……」


 達夫は豹変した彼女を見て、写真のことを思い出した。写真が自分にとってどれだけ忘れたい記憶でも、どこか捨てれずにいたのだ。捨てたくても捨てれないという葛藤が自分の悩ませ、苦しませていた。そして今になって、捨ててなくて良かったと、まだ覚えていて良かったと思うようになった。


「まーちゃんとたっくんというのは、あの写真に写っていた2人の男か?」

「あの写真覚えてたの。意外」

「そりゃ覚えるさ、こんなもの。忘れたくても忘れられない」

「……私にキスしてるほうがまーちゃん。もう1人がたーくん。まーちゃんはバンド組んでて、ベース弾いてんのよ。たっくんは……」

「こんなに髪を伸ばした男のどこがいいんだか……」


 達夫は呟く。その時既に、達夫はかつての幸せを手離す覚悟ができていた。

 その覚悟を胸に、達夫は恵梨華に質問する。


「恵梨華、君はまさか不倫をしてるんじゃないだろうね?」


 達夫の一言で、家に沈黙が漂う。

 図星だったのだ。恵梨華は東京で2人の男と恋仲になり、遊び惚けていた。特に達夫のことは、きっと男と出会った時から忘れていただろう。恵梨華は東京で、達夫が想像もできないような遊びを数えきれないほどしていたのだ。男と一緒に踊ったり、酒を共に飲んだり、夜の相手をしたりと、そんなことを東京で飽きることなく続けていた。それをしていくごとに、段々と一緒に過ごす男はまーちゃんとたっくんという2人に確立され、不倫の世界に入っていった。


「なんとか言ったらどうなんだ!!」


 恵梨華の黙り込んでやり過ごそうとするその姿勢に、達夫はいよいよ怒りを抱く。事実に耐え切れず、沈黙に耐え切れず、そして恵梨華に耐え切れず、達夫は恵梨華に初めて怒鳴ったのだ。


「この1ヶ月間、僕が何も思わずにお前を待っていたと思うなよ!僕にとって、お前が家を出るのがどれだけ寂しいことか、分かって東京へ行ったんだよな!?それをまぁ、よくも当然のように言うよ。これから向こうで過ごすだと?あっちの暮らしが合うだと?夫を持つ女が言うことかぁー!!お前はもう嫁失格だ!見損なった!」

「黙って聞いてりゃ、大体あんたがここでもっと私を楽しませれば、こんなことにもならなかったんじゃないの!?今までに、あんたは何回私にキスをした?付き合い始めた時と、結婚した時の2回だけ!たったの2回だけよ!それ以外にも、あんたはただずっと『愛してる、愛してる』って言うだけだったじゃない!私がそれで満足するとでも思った!?思ったなら、大きな間違いよ!!」


 2人の声は段々と大きくなる。今まで、お互いにお互いのそんな声は聞いたことがなかった。それだけではない。お互いはお互いが怒っている姿すらも見たことがなかったのだ。


「大体、なんで僕がいるのに男2人も作ってるんだ!?ごちゃごちゃ言う前に反省することがあるだろう!それをしてから人に物言え!!」

「もういい!一晩くらいは泊まってやってもいいって思ったけど、これじゃ一晩どころか一時間も我慢できない!」


 恵梨華がさっき下した荷物を持ち、家を出ようとする。達夫は逃がさずに「待て!!」と大きな声を出して恵梨華の腕を掴み、恵梨華が拒んでも離そうとはしなかった。


「お前が僕の妻だというのに、遊んでばかりで僕のことをずっと無視するなら、もうこの家に閉じ込めてやる!東京になんて行かせない!」

「離して!!」


 達夫は仕事帰りだった。まだネクタイを付けていた。達夫は恵梨華の動きを封じるために、恵梨華の腕をネクタイで縛る。そのまま自室へ連れて行こうとするが、恵梨華はそれより前に達夫に体当たりをしてなんとか離れる。達夫はよろめく。その間に恵梨華は腕のネクタイを自力で外し、達夫の胸倉を掴んで頬に思い切ったビンタをし、床に投げ下ろし、背中を踏み、持っていた達夫のネクタイを鞭のように使って何度も何度も達夫を叩いた。何度も、何度も何度も叩いた。達夫が起き上がろうとしたら、背中を踏んでいる足に力を込め、蹴りつけ、またネクタイで達夫何度も叩く。

 もう達夫がなんの抵抗もしなくなり、動く気力すら無くしてしまった時、恵梨華はネクタイを床に投げつけ、ポケットに入れていた結婚指輪を取り出して、まるで「これであんたとはお終い」と言うかのようにわざと落とした。


 そして、再び家に沈黙が訪れる。恵梨華はさっさと荷物を持って、この家を出た。達夫はもう、それからしばらくは動けず、動きたいとも思えなかった。

 荒い海波の音がする。


「恵梨華ぁぁーー!!」


 達夫は海に向かってそう叫んだ。その姿はまるで、未練を残しているかのように見えた。


「……思い出させて悪かったな」

「いや、悪いのはこっちだよ。こんなこと聞いてもらって」

「気にすんな。それより達夫。これからはどうする?」

「何が……?」

「奥さんってか、恵梨華さんのこと、訴えるのか?裁判じゃ勝てると思うけどな」

「はぁ……訴えないよ……」

「え、マジで?」

「マジで。実際に恵梨華と喧嘩した時は、恵梨華に自分の感情をぶつけるので精一杯だったけど、いざ思い返してみると、僕にも悪いところがあったのかなって思えてきたんだ」

「例えば?」

「確かに僕は、恵梨華のことを満足させるまで愛してやれなかった気がするんだ。キスをあまりしなかったとかそういうの……」

「いや、もし仮にそこはお前が悪かったとしても、結局は間違いなく恵梨華さんが悪いだろ。気を遣う必要なんかない!」

「ありがとな、健吾。そう言ってくれて」


 その時達夫は急激に体に疲れが出てきた。堤防に座り、少し体を休ませる。


「……で、お前は新しい恋でも始めるか?訴えないんなら、こんなのさっさと忘れて次行ったほうがいいぞ」

「新しい恋もしない。女の愛で方1つ知らない男は、何度やっても同じ過ちを犯すだけだ。僕みたいに、ただ真面目なだけの人間は、恋も愛も知らずに生きるほうが良いかもしれない」

「お前ってやつは……。まぁ、俺が何を言っても変わらないとは思うが、恵梨華さんには気を遣うだけ損だ。良いな?」


 健吾は慰めるように達夫の肩を2回叩き、一旦砂浜を後にした。

 今、海には達夫一人である。海波の音は荒い。そんな海を見て、達夫はあることを思い付いた。

 達夫はポケットから結婚指輪を取り出す。これは、恵梨華がつけていた指輪だ。次に自分の結婚指輪を外す。達夫の手には、2つの指輪がある。

 達夫は自分が付けていた指輪を堤防に置き、恵梨華がつけていた指輪を持って海に近づいた。海は荒いままである。しかしそれでいい。ここで音が心地良ければ、きっと未練がましかっただろう。


 達夫はその指輪を、思いっきり海に投げつけた。


 どこに落ちたかは見えなかった。だが、ポチャリとどこかで音がした。達夫にとってはそれで十分だった。


 太陽は力強く達夫を照り付ける。砂浜の白さといえば太陽の光を反射しているかのようだ。周期的に海波の音は鳴る。それは更に荒くなっていく。心地良い音は、もうなくなってしまった。


 ザー……!ザー……!!ザー……!!!

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