第4話


 "ドーナツの環には終わりがないように、始まりもない"、と良くそう思われている。しかし少しだけ違っている。なぜならドーナツの環は、ドーナツの終わりと始まりとが無限に連なって出来ているのである。それを言い換えれば、始まりと終わりには無限の選択肢があって、有機的生命体であるところの我々にはいつまでも選んでいられる余裕がないので、なんとなくで齧ってみた所の端と端とが、そのまま環の始まりと終わりに相当するのである。

 ちょうど胴衣ジャケットを盗まれた一人の男の運命もその様なものであり、たった今始まったように見えて、ドーナツと同じように気まぐれに噛みつかれて終わってしまったようで、それを遡ろうとしても難しく、果てがない。だけど説明しよう。なにせ終わりと始まりだけ搔い摘むようでは、話があんまり早く終わってしまうのである。


 刑事は連絡路を追いかけて白い塔から塔へと渡り、駆け下りてピロティから数多の研究棟の間を流れる渓流のようになった広い歩行者道を左右に見渡して、鳥の羽のような色をしたブルゾンが走っていくのを捉えると、再び追いかける。

 ところで本学においては、一限から遅れるからといって駈足になるといった殊勝な学生というのは片手で足りる程で、先ずもって始業時間でもなかったので、息せき切って走る二人というのは目立っていたのだけれど、その大捕り物を目撃する第三者もほとんど居ない始末だった。

 「ほとんど」というのは、つまり数人は見ていたということである。


 手も足も速い盗人は瑪瑙メノウをかち割ったような柄をしたブルゾンの背中を見せたまま、傍に寄せてあった自転車に間隙なく乗り込み漕ぎ出す。ゆらめきながら坂を降りて行ったので、地平線に消えたようにも見えた。刑事も黄色い斜線のかかったスペースに停められた一台に乗り込み漕ぎ出そうとして、"ガチッ"と金属同士の引き攣るような音がした。見ると、盗難防止のチェーンが掛かっている。彼は知らなかったが、レンタルに供する自転車があるのは進行方向に背中を向けて数分行った所だったので、どの道間に合うはずもなかった。

 けれどもそれを知らないから、刑事はがたがた自転車を揺らしたり、挙句に財布からすり減った硬貨を取り出そうとして一つが落ち、それは良くは見えなかったものの五セント硬貨であった。表にはアメリカとかいう国の第三代大統領の肖像と"2016"の印字、裏面には件の大統領の邸宅外観が彫られてあった。そしてこのコインが代わりに零れたおかげで、入ったままだった所為せいで綺麗に折り畳まれていたところが少し皺になっている馬券は落ちずに済んだ。

 自転車の持ち主は知らない大人が自分の物を弄り回しているという様子を見ていて少し考えをまとめたものの、特段の措置を取るにはまだ早すぎると感じて、足音を立てて近づいた。

「良かったですね。の自転車で」と持ち主は話しかけた。刑事は振り向いて、放っておいたココアミルクの表面のように一瞬固まった。

「すまない」刑事は一歩横に出た。「ちょっと急いでたんだ」

「"ちょっと"ですか——ところで。追いかけたら間に合うかもしれないですよ」

「見てたのか」刑事は不服そうに言った。「いや、大したものじゃない」

「実はねえ、正門の坂は今くらいから自転車通行止めです。あそこには門番さんも居ますし、律儀だったら待ってくれてるかも。乗ってきます?」持ち主はチェーンを外して跨った。

 刑事は今度こそ怪訝な顔をした。「通行止めなんだろ」

「止められなければいいんですよ」


 そして二人と自転車は車輛止めをすり抜けて坂を駆け下りた。孔雀の羽のようなブルゾンの後ろ姿はもちろん、何処にもない。



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