第19話 死が二人をわかつとも(1)

***



 エドワードは腕の中で震えているフィルを見て、ああなんて可愛いのだろうと思った。怖いのに必死に我慢して、殺されないように、大嫌いな義弟のために一生を捧げようとしているなんて。


 本当に哀れで可愛い。


 エドワードはそんな義兄のことが大好きだった。


 思い出の中のフィルは、いつもエドワードを虐めてきた。玩具を取り上げられて、害虫だと罵って。ただちょっかいを掛けてきてもその程度だったので、エドワードはフィルのことをよく動く子という認識しかしてなかった。

 周囲に同世代の子供がいなかったというのもあるし、ブラッドリー家の屋敷の中で、エドワードのことを見つけて側に来るは、フィルくらいしかいなかったのだ。父のライオネルは一緒に遊んではくれるものの、母が見ているときだけで、すぐに二人で部屋へと入ってしまう。

 父と母が部屋に入っている時は、エドワードは近付いてはいけなかった。メイドのミロスは、エドワードの面倒をよく見てはくれたものの、大抵は母の若い頃から今までの話で、聞き飽きていた。だからフィルが、お母様に買ってもらったのだと玩具を自慢しにきたり、お前はどうせ行けないけどなと出かける話をしに来るのは、割と楽しみだったりしたのだ。

 だからわざと中庭に出て走り回ったりしたものだ。だって少しすると、フィルが怒った顔で中庭に出てきて、エドワードを追い掛けて来るのだもの。

 フィルともっと一緒に遊びたかったけれど、フィルの母親がそれを許してはくれなかった。本邸と呼ばれるところに住んでいる、意地悪な人。でも彼女が本妻だということは知っていた。エドワードの母は愛人だ。

 まだ子供だからと母は事情を話さなかったし、ミロスは母のことを奥様と呼んでいて、エドワードに悟らせないようにしていたけれど。屋敷の使用人が全員優しい人間ばかりではない。幼いエドワードに聞かせるような内容じゃない事を、声高々に話していたりしたのだ。なによりフィルはエドワードのことを害虫と言っていたから、図書館へと忍び込んで意味を調べたりもした。

 だからエドワードは、幼いながらに自分の立場というものをなんとなく理解していた。

 でもそれでも、やっぱりフィルとはもっと仲良くなりないなと思った。きっとフィルは、本当にエドワードのことが嫌いだったかもしれないけれど。


 ある日、母が今日からは絶対にお家から出ては行けませんよと言ってきた。いつも家から勝手に出ては行けないと言うが、父が来た時は部屋に近付けないので、エドワードはフィルと遊んでいたのだけれど。

 どうやらそのフィルが熱を出したらしい。病気になったのなら仕方ない。中庭に行ってもフィルは出てきてくれないだろう。早く元気になってほしいなと、エドワードは思った。

 最初の二日は大人しくしていたけれど、三日ほど経つとまだ元気にならないのか心配になってしまった。フィルのよくわからない自慢話が聞きたいし、エドワードを見ると駆け寄ってくる姿が見たかった。だからエドワードは、そっと本邸へと忍び込んだのである。といっても、使用人たちはいつも本妻の奥様の機嫌を取るために必死で、フィルのことなんてあまり気にしていない。

 フィルがそこを歩いていたら、余計なことを言われないようにと身を縮こませはするものの、何をしていても誰も注意を払わない。エドワードとおんなじだなと思った。でもそれを指摘したら、二度と口を聞いてくれなさそうなので、絶対に言わないけれど。

 部屋の場所は知っているから、エドワードは使用人たちの目を掻い潜り、廊下を走った。途中、本妻の奥様がお買い物をしている声が聞こえてきたので、しばらくフィルの部屋には行かないのだろう。

 扉を開けると、大きなベッドにフィルが寝かされていた。いつも怒って睨みつけてくるフィルの目は閉じられていて、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

 父譲りの黒い髪。エドワードはずっとフィルの髪の毛を触ってみたかったので、眠っているのを良いことに引っ張ってみた。起きていたら顔を真っ赤にして怒るんだろうなと思ったけど、目を覚ます気配はない。

 つまんないのと、エドワードは思った。フィルはやっぱり元気な方がいい。早く目を覚まして、エドワードを追いかけ回しに来てくれないかな。そんなエドワードの願いが通じたのか、フィルは寝返りをうって体を動かした。その際に、額に乗せられていたタオルがずり落ちてしまう。

 熱が出た時に額に乗せるやつだと、エドワードは知っていた。けれどタオルは随分と生温い。エドワードが熱を出した時は、母が何度も取り替えていた気がしたけれど。

 周囲を見渡して、近くに水桶があるのを発見した。エドワードはタオルを濡らして絞ると、フィルの額に乗せてやった。すると眉間によっていた皺が、ほんの少し緩んだような気がした。

「……えへへ」

 なんだかそれが可愛く思えて、エドワードはフィルの頭を撫でてあげた。そしてまた、来た時と同じようにソッと扉を開けて、本邸から抜け出したのである。


 その次の日も、フィルの体調は良くならなかった。


 エドワードはさすがにおかしいと思って、母にそのことを言ってみたけれど。

「ちゃんとしたお医者様が診ているのだから、きっと大丈夫よ」

 困ったような表情を浮かべて、エドワードの頭を撫でるだけだった。ちゃんとしたお医者様の姿なんて、エドワードはみていない。フィルの部屋にはメイドすらいなかったのに。それから本妻の奥様は、お買い物に夢中だった。父はエドワードの家に来るなり、母と部屋にこもってしまって、話すらできない。

 誰も、フィルの心配なんてしていなかった。

 エドワードはフィルが死んでしまうんじゃないかと不安になり、もう一度様子を見に行こうと決めた。今度は夕方、昨日とは違う時間にだ。何かわかるかもしれないんじゃないかと思っての行動だった。

 父が母の部屋にいる時は、夕食の時間がいつも遅くなる。ミロスは何か仕事をしているから、エドワードが何をしていようとも、気にする人間はいない。

 使用人たちが出入りする裏口から本邸へと入り込むと、昼間と違って薄暗く、そして静かだった。途中、使用人たちが奥様がお呼びだわとか言って焦って走っていくのを見たが、やっぱりフィルの部屋に誰かが向かう様子はない。

 昨日と同じように扉を開けると、メイドが椅子に座って居眠りをしているのが見えた。今日はちゃんと見てくれている人がいるのかと安心する反面、フィルが苦しそうにしているのに気付いて、エドワードはメイドを起こそうとした。

「本当に寝ているんだな」

「……っ!」

 話し声と足音に気がついて、咄嗟にベッドの下へと潜り込んだ。扉が開いて、部屋に入ってくる足が見えた。大人の男だけれども、執事が来ている服とは違う。ちゃんとしたお医者様とやらなのだろうか。

「薬は効いているようだな」

「ああ、かなり弱っている。明日の朝にでも、連れて行ってくれ」

「しかしすぐにバレないか」

「……大丈夫だ。腕のいい人形使いがいる。金さえ積めば、相応のものが手に入るからな」

「それに明日は、このおぼっちゃまの誕生パーティだと言って、奥様は張り切っている。何かを運んでいても、気にも留めないさ」

 なんだかとても、嫌な感じがする。

 エドワードは咄嗟に手を伸ばして、メイドの座っている椅子の足を引っ張った。子供の力じゃ揺らすくらいが精一杯だが、目を覚まさせるにはちょうど良い。体が揺れて覚醒したメイドが、慌てたように立ち上がった。

「……あっ、も、申し訳ございません。先生、それに執事長様」

「構わん、連日の看病で疲れているのだろう。なるべく気をつけたまえ」

「は、はい、ありがとうございます」

 メイドの会話で、部屋にいる二人の男が誰か分かった。執事長と医者が手を組んで、フィルに危害を加えようとしている。エドワードはものすごく腹が立って、どうにか阻止しなければと思った。

 だってフィルは、早く元気になってエドワードを追いかけてこなくちゃいけない。自慢話をしてくれなくちゃ。エドワードの大事な大事な、遊び相手なのに。それを自分から取り上げるのかと、怒りが込み上げてくる。

 でもどうすればフィルを守れるのか。エドワードが聞いたことを大人に相談するとしても、誰に言えば良いのだろう。フィルのことを心配してくれる大人なんて、この屋敷にはいない。

 男たちとメイドが出ていくのを見てから、エドワードはベッドの下から這い出た。眠っているフィルの頭を撫でると、エドワードは自分でどうにかしなければと、強く思ったのだ。


 ベッド横のテーブルに置いてある小瓶。スプーンと蜂蜜の瓶も置いてあるから、多分これが、あの医者の男が言っていた薬だろう。エドワードは少し考えてから、小瓶の蓋を開けて、横に倒した。中身が溢れるのを見てから、メイドが座っていた椅子をずらしてテーブルの方へと近付ける。それからわざとテーブルを揺らして、上に置いてあるものを動かした。

 エドワードは時々、テーブルの上に置いてあるものを倒してしまった時、こうやって誤魔化しているのだ。ミロスにはまだバレていない。母にはバレて、めちゃくちゃ怒られたけれど。多分、先ほどのメイドだったら気付かないだろう。

 部屋で寝こけるくらいなのだ。絶対に仕事は真面目じゃない。だから薬の中身が溢れてしまったら、新しいものをもらいには行ったりせず、飲ませたと嘘をつくはずだ。これ以上フィルに、変なものを飲ませるわけには行かなかった。

 窓の外が暗くなってきていて、これ以上はフィルのそばにはいられなかった。

 エドワードはフィルの手を握ると、大丈夫だからねと小さな声で話しかける。するとエドワードの手を、フィルが握り返してくれたような気がした。


 絶対にフィルを守ってあげなきゃと強く思いながら、エドワードは部屋を出たのだった。


 次の日の朝、エドワードは自分の部屋を抜け出して、フィルの部屋の前までやってきた。朝早くから本邸の中は、使用人たちが慌ただしく働いていて、見たこのない人たちがいても、誰も何も言わない。大小さまざまな箱とか花が、大広間へと運び込まれていく。

 フィルの誕生パーティの準備だろうけれど、その主役が寝込んでいるのに、本当に変なのとエドワードは思う。扉を覗くと、フィルは相変わらず眠っていたけれど。昨日よりだいぶ具合が良さそうに見えた。真っ白だった肌に赤みがさしているのだ。

 きっとあの悪い医者の薬を飲まなかったからに違いない。よしと頷いて、エドワードは廊下に飾ってある、大きな花瓶のそばへと立った。

 もう少ししたら、本妻の奥様が近くを通るはずだ。本妻の奥様は部屋の中には入らなくても、毎朝フィルの様子を聞きにくる。前にフィルが、お母様は毎朝会いにきてくれると、自慢にならない自慢をしていたのを、エドワードは覚えていた。


 後少し。もう少し。大丈夫。叩かれたりするかもしれないけど、少しの間会えなくなってしまうかもしれないけど。フィルがどこかへ連れて行かれてしまうよりは、全然良い。


「そこにいるのは誰!? お前、どうやってここに入ったの!?」


 鋭い声がエドワードに向けられた。それが合図だと言わんばかりに、エドワードは花瓶を押して、床へと落としたのだった。

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