第10話 すべてが手遅れ
***
「……では、さっき言った通りにお願いします。母の注意は俺が引き付けますから。絶対にエドワードを、本邸に来させないようにしてください」
「ええ、わかりました」
プリシラの返事を聞くと、フィルは振り返りもせず走っていってしまった。遠くで、フィルを探す声がするからだろう。
少しすると、フィルと使用人の話し声が聞こえてきた。
「うるさいな、俺がどこで遊んでようと勝手だろ!」
「でも、フィル様」
「お母様に言いつけるからな」
「ひっ、……申し訳ありません」
先ほどの聡明さはなりをひそめ、ヴァレッサに甘やかされた暴君のような振る舞いだった。その姿こそが、プリシラが知っているフィルである。
もう、本当のフィルを知ってしまったから、彼の言動に眉を顰めることもできやしないが。
フィルと話をした後、一人になったプリシラは激しい自己嫌悪に苛まれていた。今までプリシラは、正妻であるヴァレッサと侯爵の寵愛を競っていたし、なんなら嫌がらせをされて被害者ヅラをしてきた。こんなにも酷い目にあってつらくて悲しいのだと、侯爵に訴えたことだってある。
だっていつだってプリシラは被害者で、不遇に耐える可哀想な女で、愛する人と結ばれるために嫌がらせにも負けない健気な人間であった。
なんて恥知らずなことをしてきたのだろう。被害者は自分ではない。自分のせいで犠牲になっていたのは、フィルだ。まだ子供なのに、あの子だって侯爵の血を分けた子供だというのに。
プリシラは、先程のフィルの顔と言葉が忘れられなかった。今夜の誕生パーティで一芝居打つから協力してほしいと言ってきたフィルに、プリシラは侯爵に怒られるのではと懸念を示した。
プリシラが嫌がらせを受けるのを、侯爵はよく思っていない。侯爵はまだ屋敷に戻ってきておらず不在だが、耳に入れば快く思わないだろう。それに普段から、フィルがエドワードのことをヴァレッサと一緒になって虐めていることに対し、顔を顰めている姿を何度も見た。
これ以上、侯爵の不興を買うような行動は、やめた方が良いのではと思って、フィルに大丈夫なのかと尋ねた。
するとフィルは、悲しむでもなく、笑うでもなく。ただ当たり前のことのように、父親から嫌われていると言ってのけた。それだけじゃない。自分を気にする人間などいないと、言い切ったのだ。
七歳の子供が。たったまだ、七年しか生きていない、子供が。
それだけじゃない。フィルはエドワードを気遣っていた。
「母親が罵られている姿を見たら、傷付くでしょう。エドワードには、そういうことを見せたくない」
フィルの言葉に、プリシラは雷に打たれたような衝撃を受けたのだ。
あの子がエドワードを本邸に入らないように追い出したり、納屋に閉じ込めたりしていたのは、親の薄汚い部分を見せないように配慮していたからに違いない。
幼いエドワードには理解できないだろうと、プリシラは自分の立場を教えてはいなかった。だからエドワードは、プリシラが愛人でしかなくて、本邸にいるヴァレッサとフィルこそが、父親の本当の家族であることを理解していない。彼らに見つかると意地悪をされる、その程度の認識だ。
でも正妻のヴァレッサからしたら、プリシラとエドワードが疎ましくて仕方のないのは当たり前だ。いくら侯爵が招いてくれたからと言っても、ただの愛人。浮気相手でしかない。そんな愛人の子供が、我が物顔で自分の家に入ってきたら、それはとても嫌なことだろう。
子供のやることだから目を瞑ってほしいとまで、プリシラは思っていた。だが子供でも許されないことなのだと、ようやく思い知った。
「……私はなんてことを……」
後悔してももう遅い。できる事ならば、恋に浮かれていたさっきまでの自分の頬を叩いて、正気に戻れと言いたいくらいだった。
そもそもプリシラは、一般的な家庭で生まれ育った娘だった。子供は愛情を与えられて育つのが当たり前の、温かな家庭。だからエドワードには、たっぷりと愛情をかけているつもりだった。
でもそれは、つもりでしかなかったのだ。
本当にエドワードを愛しているのなら、この環境にしがみつくべきではない。ヴァレッサに跪いて許しを乞わなければならないのに。子供の事を考えていると言いながら、プリシラは憧れの人の愛を得るために必死になっていたのだ。
ライオネル・ブラッドリー。
プリシラが学園に入学した時から、端正な顔立ちの黒髪の貴公子である彼は、有名人だった。何不自由なく育った侯爵家の後継者なのに、身分関係なく人付き合いをして、魔物との戦いにだって先頭に立って向かっていく。彼の姿は、平民や下位貴族の憧れだった。
貧乏令嬢だったプリシラだって、それは例外ではない。しかしながら簡単に近付ける相手ではなかったし、当時から婚約者のヴァレッサがいたから、憧れは憧れのままだった。
プリシラは成績優秀者が編成されるクラスに所属しており、ライオネルも学年は違えど同じクラスだったので、上級生と組む授業で一緒になることがあった。その時は何度か軽く会話をしたくらいで終わった。恋仲でもないし、友人でもない。
卒業後、プリシラは王立軍に所属した。魔物討伐に従事していたが、国境付近で発生した大量の魔物の討伐作戦に参加し、そこでライオネルと再開したのである。ライオネルの方もプリシラのことを覚えていて、何度か会話をするうちに憧れが再燃し、そしてそれは恋になり、愛になった。
ライオネルに言われるがまま侯爵邸で住むようになり、エドワードを出産したのだ。しばらくして落ち着いた後で、実の両親を侯爵邸に呼んでエドワードと対面させた時、母はおめでとうとお祝いの言葉と共に、プリシラに言った。
「あなた、これからが大変よ。つらい立場なのよ、覚悟はあるの?」
プリシラはもちろんと力強く頷いたが、母は苦笑して馬鹿な子ねと呟き、悲痛そうな表情を浮かべていた。それきり、母はどんなに誘っても会いに来てくれなくなった。娘の立場を慮ってのことだと思っていたけれど、違うのだと今ならわかる。
あれは、
他人の、何の罪もない子供を巻き込んで、その将来を踏み潰して幸せだと笑っていられるのかと、そう問われたのだ。
フィルの顔を思い出すたびに、胸が締め付けられる。
父親に嫌われているからと言ったフィルの顔には、悲痛さが一切なかった。それが当たり前だと、受け入れてしまっている顔だった。そのことがさらに、プリシラの心を抉った。
フィルの言葉を否定したくたって、できやしない。
だって、もうずっと、侯爵はほとんとプリシラのいる別邸で過ごしていて、エドワードの誕生日には朝から一緒に過ごしてくれていた。なのに、フィルの誕生日の今日、侯爵はいない。
エドワードと中庭で遊んでいる姿は見かけても、フィルに声をかけている姿すら見たことがない。本邸にいるときは一緒に過ごしているのだろうと思っていたけれど。本邸にいないのだから、あるわけがなかった。
もしここに、プリシラがいなければ。
政略結婚で、ぎこちなくても、それでも少しは家族になろうという努力を侯爵はしたかもしれない。ヴァレッサだって嫉妬に狂って、陰湿な嫌がらせを繰り返さなかっただろう。
たった七歳の子供に言わせてしまったことで、プリシラはようやく己の罪を自覚した。
***
ミロスに頼んでエドワードを入浴させると、はしゃぎ過ぎたらしく夕食も食べずに眠ってしまった。安らかな我が子の顔に、プリシラの胸の痛みは増した。今までだったら、この寝顔を侯爵とともに見守って、温かい気持ちで満たされていたけれど。
フィルが与えられるはずだったものを、プリシラが奪ったことを自覚してからは、自責の念しかない。浮かない顔のプリシラを心配してミロスが声を掛けてくれるが、何も言えなかった。
だって何を言えばいいのだ。愛人であることをようやく自覚したと、ヴァレッサに許しをこうのか。許してと言ったところで、許されるわけないのに。
「奥様、大丈夫ですか?」
「……やめて、私を奥様とは呼ばないでちょうだい」
「奥様?」
「やめてったらっ!」
声を荒げたプリシラに、ミロスは困惑している。すぐにごめんなさいと謝罪の言葉を述べると、ミロスは気遣わしげにプリシラを見た。
「今日は色々とあってお疲れでしょう。エドワード様のことは私が見ていますから、プリシラ様も少しお休みになられては?」
「……そうね」
フィルの言ったことが本当なら、休めないだろうけれど。ミロスに返事をしてすぐに、別邸に使いの者がやってきた。
ヴァレッサ専属の使用人たちで、プリシラにフィルの誕生パーティに参加するようにと言ってきた。
「貴族でもない別邸の居候を招いてくださるんだ。泣いて喜ぶがいいさ」
「恥も外聞も持ち合わせていらっしゃらない、下賤な方も参加して良いだなんて。奥様はなんて人が良いのかしら」
今までだったら傷付いていた言葉だったけれど、彼らは当たり前のことを言っているだけだった。本当にその通りだと、プリシラは思った。傍にいるミロスが抗議しようとしていたが、それを制してプリシラは言った。
「侯爵の御嫡男であるフィル様に、誕生日のお祝いを申し上げるのは光栄なことでしょう。奥様がお許しになってくださったことを、感謝いたします」
プリシラが遜った言葉をはいたことに、周囲の使用人たちは驚いた顔をした。その顔を見て、プリシラの胸は痛み続ける。だってそれだけ、プリシラは愛人なのに侯爵の本妻のように振る舞い、周囲も認めていたということになるのだから。
でも傷付いた顔なんてしてはいけない。本当に傷付いている子供が、痛ましい顔すらできなくなっているのだから。プリシラはフィルの顔を思い出すと、感情をすべて仕舞い込み取り繕った微笑みを浮かべた。普段のプリシラを知っている者からしたら、彼女らしからぬ表情であった。
よくよく考えれば、まだ七歳であるフィルの誕生パーティを夜に行うこと自体、非常識と言える。一般的な子供の誕生パーティなら、昼間に行うべきなのだ。フィルと同年代の子供を集めて、交友関係を広めさせるのが普通なのに。
プリシラはフィルを取り巻く状況というものを、ようやく理解した。
フィルは幼い暴君であり、我儘もし放題。でも、大事にはされていない。父親からも、溺愛しているヴァレッサからも。
ヴァレッサはブラッドリー侯爵夫人であるということにだけ、固執している。その地位を確固たるものにしてくれた、後継となる嫡男だからフィルを溺愛しているように思えた。
「……今更、気付くなんてね」
プリシラの自嘲の言葉は、誰にも聞かれなかった。
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