第20話 チキンソテーが食べたい

「やめて」


 ノクトの手から髪を取り戻し、背筋を伸ばして丹田に力を込める。

 毅然な態度をとらなければいけないのに語尾が震え、虚勢に気づいたノクトはおかしそうに笑う。


「怖がらなくてもいいですよ。私は陛下とは違います、己の欲を満たすだけのような抱き方はいたしません」


 この状況こそ我欲でしかないのに何を言っているのかと思うが、それを言っても下手すれば逆上されると本能が警告する。


「アナスタシア、僕と初めて会った日を覚えていますか?」

「私が陛下のお見舞いに行った日よね」


「そうです。陛下の怪我に消沈している私たちに諦めるなと喝を入れたあの神々しいまでの気高さ、その後の陛下への健気な献身。あの瞬間、僕はあなたに恋をしてあなたが欲しいと思いました」


 だからノクトはエスコート役に名乗り出て、私の副官のように傍にいたのだという。


「でもあなたの目は陛下しか見ていなかった。そんな一途さも愛おしく、そして憎らしかった。あなたを愛する僕がそばにいるのになぜ僕を見てくれないのか、と」


 覚えのある感情だ。

 陛下が新たな婚約者候補を探していたとき、私もそんなふうに感じていた。


 ノクトのこの状況を正論化しようとする言葉に納得したりしてはいけないと思うのに、過去の惨めな想いがノクトの感情に引きずられそうになる。


「私を解放して、いまならまだ間に合うわ」

「なぜそんなことを? アナスタシアだって陛下に媚薬を盛って彼を自分のものにした、なりふり構わない僕の行動も分かるはずだ」


「媚薬のことをナターシャに教えたのはあなただったのね」

「そうですよ」


 認めてはくれたが、どうやって媚薬のことを知ったのかが分からない。


「まさかナターシャがせっかくの切り札を早々に切って無駄にするとはねえ。まあ、仕方ありませんか。媚薬の件を知ったときの彼女はとても嬉しそうだでしたからね」


 嬉しそう?

 なぜ?


「清廉潔白、淑女の鑑と言われるアナスタシアの汚さや醜さ。綺麗なものほど穢してやりたいと誰しもが思うのですよ」


 清らかさは害悪だというノクトの手が首筋に触れ、悲鳴が出そうになるのを必死に堪える。


 刺激してはいけない。

 落ち着くのよ。


「真っ白なものは汚したくなる。この白い肌が僕を求めて赤く染まる姿はどんなに美しいか、想像するだけで興奮しますよ」


 欲でぎらつくノクトの瞳に体が震える。

 堪えなければいけないのに、準備なく奪われたあのときの恐怖や痛みが蘇ってくる。


「や、やめて……」

「可哀想に……そんなに震えるということは、アナスタシアはまだ男に抱かれる悦びを知らないのですね」


 明け透けな表現に思わず顔が熱くなるのを感じるとノクトが声を出して笑う。

 そしてノクトは私の手を強く引き、無理矢理引かれたことで痛みを訴える前に私の体はベッドに放り投げられた。


 ギシリと軋むスプリングの音に体が強張り、逃げることができない。

 覆いかぶさる男の体の大きさに歯がガチガチと鳴る。


「それを教えるのが僕だとは、本当に嬉しくて堪りません」


 さっと血の気が引く感覚と私を見るノクトの目、罠にかかって逃げられない動物はこんな気持ちなのかもしれない。



 次の瞬間、影が遠のき視界が明るくなる。

 ノクトが退いたのだと分かり、詰めていた息を吐きだす。


「今日は何もしませんよ。アナスタシアにも心の準備は必要でしょうし」

「心の、準備?」


「己の欲を満たすだけのような抱き方はしたいと申し上げましたよね? 僕がアナスタシアを抱くときは女の悦びに我を忘れるほどではないと、僕の皇子もあなたに愛してもらいたいから」


 ノクトの手が私の臍の辺りに触れると反射的に悲鳴が出て、体が強張る。


「まずはアナスタシアの体から陛下の子種を出さなくては」


 ノクトの眉間に皺が寄る。


「愛しいあなたの肚に他の男の痕跡があるなど本来なら許せることではありませんが我慢します」


 落ち着こう、いまはまだ大丈夫。


 ノクトは月のものが終わるまでは何もするつもりはないということは分かった。

 どこで気が変わるかは分からないが、それを気にしても仕方がない。


 予定通りならば月のものは三日ほどで始まるだろう。

 スザンヌが身の回りの世話をすると考えればれば誤魔化すことは難しい。


 ノクトとスザンヌに不審な行動をさせなければいけない。


 何かない?

 ノクトたちが不審に思わず、誰かがおかしいと思うような―――。



「ノクト、私は餓死したくないわ」

「飢えさせたりなどいたしません、僕の子を産む大切な体なのですから。ああ、お腹がすきましたか」


 そう言って笑うとノクトはスザンヌを呼ぶ。


「食事をご用意しましょう。何か食べたいものはありますか?」

「『紅蓮の鶏冠』のディアボラが食べたいわ」


 『紅蓮の鶏冠』は以前は違う店名だったけれど、人気料理のチキンソテーに合わせて三ヶ月ほど前に店名を変えた。

 半年間帝都にいなかったノクトはなぜ『紅蓮の鶏冠』が人気料理になったか知らないだろうし、女性が話題にするのは肉料理よりもスイーツだからスザンヌにとっては「城の男性陣に人気の料理」くらいの感覚だろう。


 万が一疑われても好きな料理で通せるから問題ない。


「『紅蓮の鶏冠』……店名を知っている程度ですが、スザンヌは知っていますか?」

「チキンソテーが有名だというくらいですね。下女の中に『紅蓮の鶏冠』の店主の姉という者がいて、事前に注文用紙に名前を書いておけば次の日に届くのだとか……これからでは間に合いませんね」


「いま必要なのですが……スザンヌ、店主の姉と面識は?」

「調べればすぐに分かるので彼女に持ってこさせます。男性に人気の料理なのでノクト様のお名前で注文してよいですか?」

「そうですね、私の周りでも食べている者をよく見ているので大丈夫でしょう」


 ノクトが私を見てにこりと笑う。


「ご用意いたします」

「ディアボラよ、間違えないでね。とてもお腹が空いているから楽しみだわ」

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