第17話 恋は修羅場で終わる(ニコライ)
貴賓牢は北の塔にあり、普段は使われていない石造りの建物は湿り気のある不快な空気が籠っている。
「締め切りだったから些か埃っぽいな」
「宰相はここに来るのは初めてか?」
宰相ならば大量に貴賓牢に人を送っていそうなのに意外だな。
「愚か者は最初に貴賓扱いする必要はないようにしていたので」
「地下牢の数が足りずに増設したけれど」
なるほど。
爵位をはく奪してしまえば地下牢ですむ。
父上の言葉に「そんなことがありましたね」と笑う宰相の目は俺を呆れたように見ていた。
「陛下、女男爵への罰はどうするおつもりで」
「城から即刻退去するように命じ、今後は城への出入りを禁止するつもりだ」
宰相の目が俺の気持ちを探るように見る。
その目を気まずいと思うのは、ナターシャへの情が残っているのは確かだから。
未練とかではない。
いまの俺にはナターシャに男として向けるものは何もないが、俺とナターシャの間にはミハイルがいる。
子どもがいる以上、ナターシャとは無関係にはなりきれない。
生まれた子どもに罪はない、それは絶対だ。
ナターシャの生家は没落しているので屋敷を用意した。
皇子を生んだ報奨としてナターシャ本人に女男爵の地位も与えた。
男爵に与えられる年俸があれば、ナターシャ一人くらいが身の丈に合った生活を送ることができる。
慰謝料とか手切れ金とか「金で解決した」と言われてしまえばそうだが、それ以外の解決策はない。
***
「開けてくれ」
ナターシャを入れた牢の前にいる近衛兵を下がらせる。
貴賓牢に入る者は機密情報などを持っているので貴賓には防音の結界が敷いてある。
その結界の影響で聞こえないが、中にいるナターシャの口がパクパク動いているから何かしら叫んでいるのだろう。
鍵を開ける前に一つ深呼吸をして気合いを入れ直す。
どう考えてもこの先にあるのは修羅場だ。
「陛下!」
ナターシャが声を荒げて詰め寄ってくる。
「なぜ私を牢などに入れるのですか!」
「皇后への不敬罪だ」
「皇后、アナスタシア!」
皇后の名にナターシャの目が吊り上がり、表情が憤怒に染まる。
昔からそうだった。
ナターシャは異常なほどに皇后に対して嫉妬心を抱いている。
いや、存在を憎んでいると言ってもいい。
最初はなぜそんなに皇后を気にするのか分からなかった。
俺とのことの嫉妬とも考えたが、婚約を打診しようと思っていた程度の関係だった皇后との何に嫉妬するのか分からず困惑した。
しかし次第に分かってきた。
――― アナスタシアのほうがいいのね!
皇子妃教育の講師たちに認められないとそう叫ぶ。
皇太子の婚約者として社交界で受け入れられないたびにそう憤る。
誰も皇后とナターシャを比べてなどいない。
勝手にナターシャが比べているだけ。
ナターシャは皇后に憧れのようなものを抱いていたのではないか。
年齢は皇后のほうが五歳下だが、いや、五歳も下であることがその憧憬を認められなかった一番の要因だろう。
なぜあんな子どもに勝てないのか。
さらに悪いことに、皇后はナターシャを「自分とは違う存在」としていた。
言い方は悪いが、皇后にとってナターシャは歯牙にもかけない存在だったのだ。
だからこそナターシャは俺に固執した。
皇后から奪い取ったもので、その瞬間にナターシャは皇后に存在を認められたから。
俺に愛されていることがナターシャの勝利宣言。
だから負けるわけにはいかず、いつも俺に―――。
「やっぱりアナスタシアのほうがいいのね!」
――― そんなことはない。
俺がそういうことで君は皇后に勝ったと思い続けてしまったんだ。
「ああ、そうだよ」
これが最後の君への餞別。
ナターシャ、皇后が相手でも誰が相手でも「勝ったこと」が君を幸せにするとは限らない。
俺はもう君を愛していない。
「いまの俺は皇后を、アナスタシアを愛している」
俺の言葉に唖然とした後、ナターシャは大きな叫び声をあげて詰め寄ってくる。
「ひどいわ! 裏切者!」
「……その台詞、君にだけは言われたくない」
正直言って、その台詞がなぜ出てくるのかが分からない。
婚約中に無自覚にアナスタシアに惹かれていたことを精神的な浮気と言われたら仕方がないかもしれないが、一人二人どころか十人以上の男たちをベッドに連れ込んで愛欲に耽っていたナターシャにだけは言われたくない。
「修羅場に失礼します。陛下、さっさと本題に入ってください。時間の無駄です」
宰相の声にヒートアップしていた頭がすうっと冷える。
いや、実際に宰相の氷魔法で頭を冷やされている……頭痛がしてきたから魔法を止めてくれ。
「……ヴィクトール、お前すごいな」
「こんな平凡でありきたりな修羅場なんて見ていて楽しくありませんからね」
ありきたりな修羅場ですみませんね!
「ナターシャ、いや、ポポフ女男爵。君に媚薬の件を教えたのは誰だ?」
「女官よ。ミハイルの母である私のほうが皇后に相応しいって応援してくれているの」
後ろの戯言はさておき、女官か。
誰だ?
「お邪魔しまーす」
気の抜けるほど明るい声が響き、牢の入口を見ればカリーナ様がいた。
その後ろではご夫君のドウシャ殿が扉を閉めている。
「帝国語を操る異世界人がどうしてここに?」
あの宰相を唖然とさせるとは……帝国語を操る異世界人、言い得て妙だ。
「今日帝都で歴女の集まりがあってね、ちょーっと面白い話を聞いたから確かめに来たの」
「だからといって北の塔に来なくても。応接室でお待ちいただければ……」
「この貴賓牢は歴史のあちこちに登場するから、そこのお嬢さんに会いがてら聖地巡礼をしようと思って」
カリーナ様がポポフ女男爵になんの用で?
「今まで内宮でしか会ったことがなかったから気づかなかったけれど、その首飾りはリュドミラの聖魔具ね」
ナターシャが咄嗟に両手で首飾りを隠す。
その仕草がカリーナ様の言葉を肯定していた。
聖魔具とは神や精霊が己の力を込めた物で、彼らは気紛れなので貴重品のように見えて世界中のあちこちに沢山ある。
「……リュドミラの聖魔具」
リュドミラといえば魅了の力を持つ愛欲の女神。
歴史上数多いる傾国の美女の半数がリュドミラの聖魔具を持っていたと言われ、世界中で近年頻発している真実の愛からの婚約破棄及び離婚の原因となっていることから半年前から危険物扱いされている。
ただ見ただけでリュドミラの聖魔具だと分からないはずだが―――。
「歴女には聖魔具マニアが多いのよ。危険物ぶら下げて城内を闊歩していたのが運の尽きね、歴女を一人見つけたら周りに十人いると思いなさい」
「……黒光りする例の虫みたいんだな」
「ヴィクトール、お前まだ虫嫌いなのか?」
「これは治るものではないでしょう」
宰相、虫嫌いだったのか。
幼い頃に庭で獲った虫のコレクションを自慢しによく見せにいったが、悪いことをしたな。
「そんなの知らない、そんなこと言っていなかった。リュドミラの聖魔具でまたニコライを誘惑すればいいって、アナスタシアからまた奪ってやればいいって!」
「誰がそんなことをっ!」
俺の言葉にナターシャが口を開いた瞬間にナターシャの足元が光り、魔法陣だと認識した瞬間に黒い茨が大量に飛び出てきてナターシャを包み込もうとする。
契約魔法!
「「下がって!」」
俺の目の前に宰相とドウシャ殿が立ち、氷の刃と剣がすごい速度で茨を切っていく。
そんな光景に呆気にとられていると俺の脇からカリーナ様が飛び出して、それを分かっていたようにドウシャ殿が付き従う。
「えーい」
気が抜けそうな声と同時にカリーナ様が魔法陣にナイフを突き立てると茨が消えて、倒れ伏しそうだったナターシャを宰相が抱き留める。
「瀕死ですが、死んではいません。しかし神罰が下ったので半年は目覚めないでしょうね」
宰相の声に被さる様に結界内にドンドンと音が響く。
見るとペトロフ家の家紋を付けた騎士が青い顔をして何かを叫んでいた。
なんだ?
「皇后様が奥宮から姿を消しました!」
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