第16話 心で蝶が羽を揺らしたみたい

 遅かった。


 私は手の中のイヤリングを落ちたのを拾っていましたと見えるようにつけ直し、オリガにはそのままでいるように指示して自分は立ち上がる。


「帝国の太陽、皇帝陛下にご挨拶申しあげます」

「陛下!」


 ナターシャの声に陛下の顔がピクリと動き、オリガに抑え込まれたナターシャの様子に眉をしかめる。

 面倒なことになったわ。


「助けてください! 皇后陛下が私を、生意気だと言っていきなり!」


 ……理由はそれでいいのかしら。


 媚薬のことを言わないならそれに越したことはないけれど……信じてもらえないかも。

 生意気で、とか子どもでもそんなことで騒がない。


 他でもないナターシャによって端を発したこの騒動で、私たちは寝る間も惜しんで連日仕事に追われている。


 深夜でも互いの執務室を文官が行き来している。

 わざわざそんなことを言うためにナターシャを呼び出す時間も惜しいくらい私が忙しいことは陛下もさすがにご存知だろう。



「すまないが、二人にしてくれないか」


 ここは私の執務室なのですが?

 反射的に文句を言いたくなったが、陛下の言葉になので溜め息は内心で留める。


 宰相室の一角を借りて仕事をさせてもらおう。


「オリガ、未決済の書類を持てるだけ持って」

「未決済の書類を、ですか?」


 困った顔で私とナターシャの顔を見比べている。

 ああ、そうか。


「ポポフ女男爵は陛下にお任せして」

「は、はい」


 オリガが手を離すとナターシャは勝ち誇ったように笑い、「邪魔よ」とオリガを押しのけて立ち上がると陛下に歩み寄る。


「御前、失礼いたし……」

「待ってくれ」


 部屋を出ようとしたところで腕をつかまれて動きを封じられる。


 は?


「どこに行く?」

「出ていけと仰られたので」

「なぜ君が出ていく?」


 陛下はそう言うと私の腕をつかんだまま、私同様にこの状況に戸惑って立ち尽くしているナターシャに向き直る。


「近衛兵、ポポフ女男爵を貴賓牢に連れていけ」


 え?


「ニコライ!?」

「皇后への不敬罪だ。皇子の母でもある、これ以上の罪を重ねないように布を噛ませて何も話せないようにしろ。尋問はあとで私が行う、連れていけ」


 陛下の後ろに控えていた近衛兵たちは手際よくナターシャの口に布を噛ませ、ふがふがと意味をなさない声を上げるナターシャを後ろ手でまとめた状態で部屋から連れ出す。


 あまりの急展開に唖然としていると、「皇后」と呼ばれた。


「はい?」

「二人で話をしたい」

「あ、失礼いたしました。オリガ、外に出ていて頂戴」


 オリガが部屋を出ていくと二人になった。


「怪我はないか?」

「はい、大丈夫です」


「父上から全てを聞いた」


 陛下の言葉に思わず息が止まる。

 先ほどナターシャが手紙を出したといったことでなぜこの展開を想像していなかったのか。


「謝ってすむことではないが大変申しわけなかった」

「おやめください!」


 頭を下げられて慌てる。

 しかし頭を下げたまま謝罪を取り下げない陛下に深呼吸して、努めて落ち着いた声を出す。


「謝罪をお受けいたします、過ぎたことですのでお忘れください」


「しかし……」

「お忘れください」


 それが偽りか本心かを探るのは無駄だと陛下にもお分かりのはずだ。

 すべて今さら、蒸し返しても誰も喜ばない。


「それよりも……」

「父上は宰相が確保している、これ以上悪いことにはならないはずだ」


 陛下の言う通りだ、先帝陛下のことはお父様にお任せするのが一番いい。

 あと手紙のことは誰が、いや、それよりも誰がそのことをナターシャに教えたのかだ。


「ナターシャにこれを教えた人物は必ず聞き出す」


 私はこの件から手を引けということね。


「陛下に全てお任せします」

「感謝する」


 そう言って部屋を出ようとした陛下が戸口で足を止めて振り返る。


「陛下?」


 口を開いたり閉じたりを繰り返し、何か言いたげな様子の陛下に思わず首を傾げる。


「いや……これからもよろしく頼む」

「……はい」


 これからもよろしく、ですって。

 なんだか心の中がそわっとするわ。


 まるで羽化した蝶々が羽ばたいたような……。

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