第8話 彼女につけた傷を知る(ニコライ)

「お前が怪我から復帰して力強い姿を皆の前に披露したとき、隣に立つアナスタシアと微笑み合う姿に私は帝国の理想を見た」


 父上は昔から皇后を俺の妃にしようとしていた。

 初対面で俺が「可愛い子だった」と言ったときから父上たちは準備を重ね、俺もあの日ナターシャに出会う直前まで皇后に婚約を申し込むつもりでいた。


 あのときナターシャに会わなければ、そんなことを思うのは詮無いこと。

 俺はあの日、あの場所でナターシャに一目で惹かれた。


 皇太子としての責任とか国の将来とか今まで息をするように当たり前にあった思いが嘘みたいに消えて、ナターシャを妃に迎えて自分のものにするんだと狂おしい思いに駆られた。


 周りは反対した。

 いまなら当然だと分かる。


 皇太子の俺が皇后として資格も器でもないナターシャを娶るといったのだ。

 当時のナターシャは子爵令嬢だったが、今の冷静な目で一歩引いて見れば皇妃にすらなれなかっただろうと分かる。


 自分への言い訳になるが婚約してからナターシャの本質に気づいていたのかもしれない。


 俺はナターシャが姿を消す少し前から彼女と距離を置いていた。

 後継ぎができれば周囲は結婚を認めてくれるという思いとナターシャへの肉欲に駆られて最初の頃は頻繁に夜を共にしていたが、最後の頃は「自分をもう愛していないのね」とヒステリックに叫ぶナターシャを宥めるために抱いていた。


 ナターシャがヒステリックになる原因は決まって皇后だった。


 ナターシャは茶会や夜会に参加したがったが、彼女の作法では皇太子の婚約者として出席させるわけにはいかず俺が一人で出ることが多く、そんなときに皇后と会えばナターシャはヒステリックに暴れた。


 ナターシャが勘繰るような疚しいことは何もない。

 あまり社交をしていなかったからか皇后と滅多に会うこともなかったし、夜会に出席していても兄のアレクセイがエスコート役としてひと時も離れることはなかった。


 遠くから会釈したり、会話をしても主にアレクセイとで皇后とは軽く挨拶する程度だった。


 暗黙の婚約を反故にした自分が話しかけるのも変だし、皇后が俺に淡い恋心を抱いていたことも知っていて期待を裏切ったことへの罪悪感もあったからだ。


 ―――やっぱりアナスタシアがいいのね!


 皇后との婚約話が出ていたからナターシャは過敏になっているのだと自分に言い聞かせながら暴れるナターシャを宥め、「愛しているなら証明して」と言われてナターシャを抱いた。


 そんな日々を過ごしていたとき、テロリストによって襲撃を受けて俺の日常は一変した。


 怪我が原因で歩けなくなると、俺の周りからどんどん人は減っていった。

 この国の貴族として彼らがそう判断したことは仕方がないと理解しつつも心の感じる虚しさは拭えず、俺はぼんやりと一日一日を過ごしていた。



 ―――何をウジウジしているのですか!


 誰もが俺を腫れ物のように扱う中で皇后だけは俺の無気力を怒った。


 母である侯爵夫人譲りのふわふわとした可憐な妖精のような雰囲気のある彼女の中身は苛烈で、兄を含む側近たちや使用人たちを一列に並べて喝を入れる皇后の姿を見ながら「やはり宰相の娘なんだな」と変に感心してしまった。


 あの日から少しずつ俺のぼんやりした視界がクリアになった。


 彼女は容赦がなく、甘えを許さなかった。

 逆にほんの僅かなことでも何かできれば自分のことように泣いて喜んでくれた。


 俺がまた歩けるようになったのはそんな彼女のおかげだった。

 でも、感謝と『あのこと』は別だ。



 体が回復し今までのように政務に励むようになってから暫くして、俺は皇后に媚薬を盛られ執務室で彼女を抱いた。


 誰が来てもおかしくない公的な場だ。

 案の定、父上に仕えていた先代侍従長に抱き合う俺たちの姿を発見され、俺は皇后の乙女を散らした責任を取って彼女と婚約した。


 ナターシャと同じ手で婚約を迫った皇后を嫌悪した。

 だから俺は―――。



「あの日、お前に媚薬を盛ったのは私だ。アナスタシアではない、あの子は知りもしなかった」

「……は?」


 いま、父上は、なんと?


「アナスタシアはお前を好いていたし、あの子はペトロフだ。だから問題ないと、私はあの子がいつもお前のために淹れていた薬膳茶に媚薬を入れるように侍従長に命じた」


 薬膳茶に媚薬、そして侍従長。

 父上の言葉にあの日のことがフラッシュバックする。


「皇后は、知らなかった?」


 媚薬入りの薬膳茶を飲んだのは俺だけだ。

 皇后が俺のためにと薬師と相談して作ってくれた俺だけのためのものだから、彼女はいつも自分は別のお茶を飲みながら俺の側で―――。


「皇后は……」


 あのとき皇后はどんな様子だった?


 分からない。

 気がついたときには皇后は侍女たちに囲まれていて、俺はあのとき彼女がどのような様子だったか知らない。


 俺に媚薬を盛ったのは皇后だと思っていた。

 でも違うなら、彼女は加害者どころか俺に襲われて無残に乙女を散らされた被害者ではないか。


「そんな……」

「……すまない」


 媚薬を盛るような卑怯者だと思いながら皇后にしてきた仕打ちが頭の中でぐるぐる回る。


 君を愛することはないと初夜の床で俺がそう言い放ったとき、彼女はどんな顔をしていただろうか。

 優しさの欠片もなくぞんざいに抱かれ、義務は果たしたとばかりにさっさと部屋を出た俺を彼女はどんな顔で見ていたのだろうか。


 どれだけ悲しい思いをさせてきたのか。

 どのくらい俺のせいで泣いただろうか。



「陛下!」


 皇后に会って話を、謝らなければいけない。


 そう思って立ち上がっていた俺は宰相の声に動きを止められる。

 冷たい足元を見れば宰相の放った氷魔法で膝下まで氷で固められていた。


 炎魔法で簡単に溶かすことができるが、そうしてはいけない気がして宰相に向き直る。


「今までのように振る舞えないなら、あの子には会わせません」


 今まで、通り?

 真実を知って、それでもなお今までの通りに振舞えと?


「なぜ?」

「分からないとは言わせません」


 宰相は冷たく微笑う。

 怒らない皇后の代わりに怒っているのだと、俺は今までの非道のどれも謝れないことを理解させられた。


「あの子はやっとあなたを諦めた。いまさらあの子を煩わせるのはやめてください」

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